■ピアニストという蛮族の系譜。――
2024、ノセダのラフマニノフを聴く
ジャナンドレア・ノセダ(イタリア・ミラノ出身)
音楽はいいなあと、いつもおもう。――ぼくは結婚するとき、いいなづけの女性に尋ねたものである。
「あなたは音楽はお好きですか?」と。すると、
「はい、好きです。あなたは?」と尋ねられた。
「ええ、ええ、ぼくは好きですよ。めっぽう好きです」と答えた。彼女はおもったそうだ。ぼくは、ヴァイオリンを弾いていたのだから、好きにきまっているだろうと。そして、彼女はこういった。
「わたしといて、愉しいですか?」
「え? ……」
「わたしといて、愉しいですか?」
「……」
ぼくは何と答えたのだろう、そこから先が、よく覚えていない。
♪
「敵に塩を送る」ということばがある。
敵だったはずの上杉謙信は、なぜ武田信玄に塩を送ったのだろう? 上杉謙信にすれば、勝敗は戦場で決するものであって、塩不足で敵を苦しめるなどという卑怯なことをしてはならないと考えたのである。
「ふーん、そうなんだ」と28歳の青年はいった。
「袖すり合うも他生(たしょう)の縁、っていいますよね。ところでこの《他生》って、何ですか?」
「やー、いい質問ですね。他生(たしょう)というのは仏教用語でこの世から見て《過去》または《未来》の生を指しますから、道ですれ違ったりすると、袖がふと擦り合うことにもなります。《他生》においてもきっと縁がある間柄となるかもしれないわけで、これって、もろに仏教的な人生観をあらわすことばですよね。――じゃあ、こんなのはどうですか? 《角を矯(た)めて牛を殺す》。意味わかりますか?」
「うーん」といったきり、青年は「矯(た)めるがよくわかりません」といった。
「牛の角は曲がっていようと曲がっていまいと用途にまるで関係がないのに、曲がった角を直そうとして牛を殺してしまうこと。牛が死んでしまうと、もとも子もなくなります。それをいうのです」
先日も、ぼくはその青年と寿司を食べた。食べ終わってから、カウンター席でいろいろな話をした。話をしていると、個室のほうから3、4人の若い女性たちが出てきた。ぼくは、ほーっとおもった。
そのなかのひとりは、ぼくの見知っているおなじラ・メゾン・ブランシュに住む女性だった。ヘアを後ろにくるっと輪のように束ねている女性で、シニヨンというのだろうか、そんなヘアスタイルをしていて、襟足のきれいな女性だった。
ちらっと彼女を見て、ぼくはなぜか音符の「ド・レ・ミ」のことをおもい出した。
「音楽の《ド・レ・ミ》はフランス音名なんですよ」といってしまった。
「え? ……」
「ドイツ音名はツェー・デー・イー(C・D・E)です。シューマンはSchumannとつづります。でね、シューマンは自分の名前のすべてが、音符になっているんで、誇らしく相手にいうんですよ」
それは彼が自殺を決行する以前だったか、以後だったかはわからない。彼の姉も、さだかではないが、入水自殺をしている。シューマンは漁夫に助けられて、あやうく溺れ死ぬところだった。
――シューマンの妻クララの証言が残されている。
友人は、「そうですか」といった。
「結局、シューマンは亡くなるんですが、奥さんのクララ・シューマンは長く生きる。そして若きブラームスとその後40年間にわたって、彼女が亡くなるまでつき合います」
さいきんめったに聴くことのできない練習曲「音の絵」は圧巻だったなとおもう。
それは、セルゲイ・ラフマニノフのピアノ独奏曲集で、別々の時期に発表された。――たとえば、それは「作品33」と「作品39」の2巻から成る。
「絵画的な小品集」として構想されたが、ラフマニノフは各曲が示唆する情景を公開せずに、
「私は、自分のイメージをあまりにひけらかすような芸術家を信用しない。だれでも、音楽から連想したものを自由に描き出せばよい」と述べている。
それを聴いて、ぼくも感動した。
じぶんが小学生のころ、日本も、そういう音楽教育をしてくれれば、少しはありがたかったろうなと考えた。音楽なんて、というか、作曲なんて小学生にもできる。じぶんはヴァイオリンで、30曲くらい作曲している。数学と同じだ。15歳までに頭に叩き込めば、あのイタリアの数学者エンリコ・ボンビエリみたいに大きく成長する。
音楽で開花したセルゲイ・B・ラフマニノフは別格である。
セルゲイ・B・ラフマニノフのもっとも有名な「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調」をあらためて聴いてみた。指揮はジャナンドレア・ノセダ。ピアノはオヴェ・アンスネス。2011年10月のサントリーホールでの収録盤だった。
予想したとおり、ピアノ曲としては、もっともロマンチックな曲で、だれでも知っている曲。むかしは、パディレフスキーという世界のスーパースターが弾いていたという。パディレフスキーのカリスマ性は音楽以上だ。彼は、第1次世界大戦後に発足したポーランド第二共和国の第3代首相にもなった。
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かつて中村紘子さんは「ピアニストという蛮族がいる」という本を書かれ、その本のなかに、ラフマニノフのマルファン症候群の話が書かれている。座ればちんちくりんだが、立てば「6フィートのしかめっ面」といわれるように、彼は大男だった。
そればかりではない。
ラフマニノフは、手をひろげれば、親指の先から小指の先までなんと28センチもあるという巨大な手を持っていた。それでピアノを叩くのである。手のひらをひろげると、蛸(たこ)の脚みたいに、くにゃくにゃっと鍵盤の上を覆ってしまうのである。
信じられない人は、じっさいにやってみれば分かる。
まず、右手の人差し指で「ド音」を押さえ、中指で「ミ音」を、小指でこんどはオクターブ高い「ド音」を押さえて、さらにこの4本の指を離すことなく親指をその下にくぐらせて、なんと小指の「ド音」の先にある「ミ音」まで持ってきて、これを同時にポンと弾いてのけるのだ。
こんな弾き方のできる人は、そうざらにはいない。
指だけが異常に長いのは、マルファン症候群の特長とされている。
かの第16代アメリカ大統領リンカーンもそうだった。――この「ピアノコンチェルト第2番」の冒頭の曲は、ピアノの独奏になっている。
そこが、ピアニストにとってひじょうにむずかしい部分だ。だれもが苦心惨憺(さんたん)するパートである。
ふしぎなことに、このラフマニノフの名前にはいろいろある。
主にヨーロッパでは彼自身がつづっていたサインは、「Sergei Rachmaninoff」だった。彼は裕福な貴族の生まれだが、彼が生まれたころにはすでに零落していた。5歳のとき、母から最初のピアノのレッスンを受け、オネグ地方は自然がゆたかで、そこで多感な少年時代を送った。
ラフマニノフ
Rachmaninoff: Piano Concerto no.2 op.18 Nobuyuki Tsujii blind pianist BBC proms
母は内向的な性格で、父は陽気な人だったと伝えられている。9歳のときに一家は破産し、領地は競売にかけられ、一家はペテルブルグに移った。やがて彼は、モスクワ音楽院に入り、ピアノ演奏と作曲法を学んだ。
その後、「交響曲第1番」を作曲したが、さんざんな失敗に終わり、意気消沈していたとき、ダール博士という心理療法師とめぐり合い、「あなたはすばらしいピアノコンチェルトをつくるであろう」といわれる。その気持ちを曲に最初にあらわしたのが、さっき聴いた「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」である。
この曲はピアニストなら、だれでも一度は弾く名曲である。――どれほど世界の人びとを惹きつけ、感動させたか、映画を観てもわかる。その第3楽章はとくに好まれ、「逢いびき」、「旅愁」、「七年目の浮気」でもこの第3楽章が使われている。ちょうど1900年にこの曲が生まれた。
ラフマニノフにまつわるエピソードは山ほどある。
ラフマニノフのマルフィン症候群にはじめて言及したのは、D・A・ヤングという人だった。彼はラフマニノフの死後、その病歴と身体的な特長を述べた論文「ラフマニノフのマルフィン症候群」を書き、イギリスの権威ある医学雑誌に発表したのがはじまりである。
ラフマニノフの異様なほど美しい「ロマン派最後の輝き」といわれる複雑なうねりは、少なくとも技術的には彼のマルフィン症候群患者としての巨大な手と、その異様な動きによって支えられたものであり、極論すれば、彼の病気が名作を生んだというわけである。
この病気が原因して、ラフマニノフは終生憂鬱な表情をくずさず、彼は笑顔を見せたことがない。――だが、その旋律はあまりにも優美で、憂愁に満ちていて、観衆をひきつけるにじゅうぶんなロマン派最後の輝きを放っている。
「――田中さんは、ラフマニノフについてはお詳しいですねぇ」と、いまさら驚いたように聴く人がいる。ぼくがはじめて音楽評論に似せて書いた文章を婦人雑誌に発表したのは、26歳くらいのころだった。
映画「七年目の浮気」より
ぼくは洋楽レコードのLP盤が欲しくて東芝EMIの仕事をした。たまたま26歳のとき、(株)リビングデザインセンターの取締役になり、傘下の(株)ホームクリエーティブの社員でもあったので、仕事は多忙を極めた。
かつて明治大学マンドリン倶楽部に所属し、古賀政男先生の指揮で、マンドリンを弾いていた。
引かれ者の小唄、一見もっともらしく目端(めはし)のきくサビを作ってはみたものの、あちこち人からの剽窃(ひょうせつ)一歩手前の音出しで、古賀政男先生には「がんばりたまえ」といわれたきり、相手にもされなかった。
そのかわり、作曲家に詩を依頼された。10編ほど書いて送った。
うち1編がいいと褒められたが、「赤いマフラー」ということばを換えてほしいといってきた。
「どうしてでしょうか?」と尋ねてみた。
「だって、小林旭の世界じゃないですか!」といわれた。
ぼくは、音楽評論家の小西良太郎さんの大ファンなのだが、つい先日、突然亡くなられた。ああ、惜しい人を亡くしたとおもう。涙があふれた。
追悼 小西良太郎先生。
小西良太郎さん
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まあ、音楽では子供のころからヴァイオリンを弾いていた。
「ぼくは、ヴァイオリンを弾いていましたから」というと、たいていの人は、目を丸くして、むずかしい音楽の話をしようなんて、だれも思わなくなるらしい。
「ぼくは、この曲を聴くと、フィンランドの作曲家シベリウスの《フィンランディア》をおもい出しますよ」というと、これまた、たいていの人は、時間がなくなったとかいって、それじゃといって大急ぎで出て行く。
「フィンランディア」は、1899年の作である。
ロシアの圧制に長い間苦しめられてきたフィンランドのために、「フィンランドよ、目覚めよ!」という意味の交響詩「フィンランディア」をつくった。シベリウスはいまも国民的な大作曲家として故国に君臨している。そこに、ヨーコがあらわれ、
「お父さん、ちょっと聞いて」という。ちょうどラフマニノフの「ピアノコンチェルト第2番ハ短調」の第3楽章に入ったところだったのに。
「なに?」
「……」ヨーコは何かいっている。
ちょうどいいシーンに差し掛かかったが、ゆっくり聴かせてくれないのだ。それにしても、ラフマニノフを久しぶりに聴いた。これを聴いただけで、もうきょうは、いい1日になったという気分になる。
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ぼくはピアノの弾ける人を尊敬している。
緒方英子さんの「オーケストラが好きになる事典」(新潮文庫、2010年)という本によれば、「ピアノが弾ける人に惹かれる」という遺伝子をもっている人は、そのように感じるらしい。ピアノはなんといっても器楽としてはナンバー・ワンの存在である。
ヴァイオリニストはトイレに楽器を持っていく? ギター奏者は釣り糸を弦にしている? 普段はコンサートでしか知らないオーケストラ奏者にインタビュー。ベールに包まれた素顔を紹介する。楽器にまつわるエピソードから、演奏中の失敗談やプライベートの話など、「知ってるようで知らない オーケストラ楽器のおもしろ雑学事典」。
自分の椅子にこだわったグレン・グールドは例外としても、コンサート・ピアニストは、舞台の上で異なるピアノを弾くことになる。椅子と靴のヒールの高さを調節し、演奏に際していつも平常心でいられるだけの鍛錬をおこなっている。
そうはいっても、ラフマニノフの場合は、背がきょくたんに高いので脚が長く、ふつうの人なら、ピアノベンチに座って、ベンチの高さを調節するだけでいいけれど、彼の場合は、いったんピアノのなかに脚を突っ込んでしまえば、もう身動きができなかった。
それで、いつもピアノのほうを動かして調節していた。
フル・コンサート用のピアノの長さは、ざっと3メートルはあって、重さは500キログラム。サラブレット一頭の馬体重に匹敵する。グランド・ピアノは約2700キログラム。アップライトは約200~250キログラム。
コンサート・ピアニストは、だいたい500キログラムのフル・コンで弾く。
ピアニストにとって最も大切なのは、指だ。
だんだんとクレッシェンドして大きな音の連弾になると、ピアニストのお尻がぴょんとあがる。それぐらい指に全体重をかけることになり、指を痛めてしまうことがあるといわれている。
そうなると、腰かけてはいるものの、立っているのと同等の心拍数を必要とする。
ピアニストは強靭な心臓の持ち主でないと弾けない、というわけである。
演奏者と病理についての専門書があり、ちょっとのぞくとそんなことが書かれている。ピアニストにとって、肉体労働もいいところだ。
ある日、指をケガした演奏者の話を読んだ。
水絆創膏も、マニュキアもダメで、なんと瞬間接着剤を指に塗って対応したという話が伝わっている。ある外科医は、傷口を縫合しないで、接着剤を用いると書かれていて、おかしかった。
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さて、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」は、おそらく古今東西の音楽史のなかでも、屈指の名曲であるはず。名曲の名曲たるゆえんは、弾いても、聴いても、人を異次元の情緒纏綿(てんめん)たる感動の世界にたちまちにしていざなってしまうのである。
ピアノ音楽を聴いて、癒されたいという多くの女性たちのこころを、きっとトリコにしてしまう代表的な名盤だろう。
たとえば、人にはいえないような不倫の恋に悩んでいる人がもしもいたとしたら、ぼくは迷わず、この曲をすすめたい。そうかといって「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」が不倫の曲だといっているのではない。切ないおもいをこの曲に託して、おもう存分に堪能することができ、悩みから解放させるだけのパワーを持っているからだ。
そういう意味では、この曲にはけっして成就できない悲劇性を感じる。
さきにも触れたけれど、アカデミー賞とカンヌ映画祭グランプリを受賞した、デビット・リーン監督「逢いびき」でも使われているとおり、そんな感情惻々(そくそく)たる曲趣に満ちていて、どこまでもどこまでもラフマニノフの音楽だけが追いかけてくる、そういう曲である。
ベフゾド・アブドゥライモフ
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しかし、ラフマニノフ自身の演奏で、「第2番」を初演したとき、モスクワの聴衆は熱狂したけれど、批評家たちは「古代芸術!」といって相手にしなかった。チャイコフスキーの音楽を知っているドイツ人なら、だれでも作曲できるといったそうだ(1909年秋の「ニューヨーク・タイムズ」紙)。
そんな酷評を受けたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を、ぼくはあらためて聴いたのである。指揮者はウラディーミル・アシュケナージ。アシュケナージは1955年にショパン国際ピアノコンクールで第2位、翌年にはエリーザベト王妃国際音楽コンクールで優勝。1962年には、チャイコフスキー国際コンクールで優勝している。
さいきんまでN響の桂冠指揮者だった。
ラフマニノフを知り尽くしている指揮者によるコンサートは、すばらしい。
新星ピアニスト、ベフゾド・アブドゥライモフについては、よく知らないが、2004年に若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールに出場するために倉敷市に来日した。2012年8月にはプロとして初来日し、クシシュトフ・ウルバンスキ指揮の東京交響楽団と共演した。
2009年にロンドン国際ピアノコンクールで優勝。ジャン=フィリップ・コラールの代役としてシャルル・デュトワ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共演し、その年の10月に行なわれたウラディーミル・アシュケナージ率いるシドニー交響楽団のアジアツアーにはソリストとして抜擢されたという。その実力を知ることができた。
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ピアノコンクールで、最も権威あるコンクールは、なんといってもポーランドのワルシャワで開催されるショパン国際コンクールではないだろうか。
ポリーニ、アルゲリッチ、ツィメルマンなど著名なピアニストを送り出したこのコンクールは、5年に1回しか開かれず、世界でもっとも権威あるコンクールといわれている。
2010年、第16回ショパン国際コンクールで優勝したのはロシアのユリアンナ・アヴデーエヴァだった。本選に挑んだ10名のうち、5名までがロシア人だった。
日本人ピアニストは、残念ながら第2次予選で全員が姿を消すという事態になった。
そんなにひどかったのか、とぼくは考えてみた。
青柳いづみこ氏の「ピアニストたちの祝祭」(中央公論社、2014年)という本を読むかぎり、どうもしっくりこない。その採点方法が「YES/NO」方式で決められるというのである。
予選は 第1次から第3次までおこなわれ、第1次で「YES」ならば、第2次にすすめることができるという方式をとっている。「NO」ならば、それでおわり。
予備選をへてコンクールに出場できたのは78名。78名がこの「YES/NO」方式で勝ち抜かなければならないわけである。12人の審査員が、本選にいたる過程で「YES/NO」方式で最後の10人にしぼるわけである。もしも同票ならば、100点満点方式で審査し、どちらが優れているか判別するというもの。
かりに、75点をとった人と、73点をとった人との差は2点ということになる。それはわかるのだが、その2点の差というのは、いったい何を意味しているのだろうとおもう。100点満点の2点の差は、ほとんどないにひとしい。
ふつうコンクールの場合は、25点満点で競われる。100点満点にしている理由がぼくにはわからない。
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しかし、おもしろいことに、あらかじめ申告していた曲を演奏しなくて、急に曲目を変えることがゆるされているらしい。そのへんに何かあるらしいのだが、ぼくにはわからない。
それに加えて、ぼくにわからないのは、ショパンの曲を演奏するのに、楽譜の選別はおこなわれないということだ。ショパンの楽譜といえば、「パデレフスキー版」、「エキエル版」、「ブライトコプフ版」といろいろあるなかで、本選は、オーケストラとの共演で演奏される。ピアニストとオーケストラが違ったバージョンを使っているということがあるそうだ。
「そんなバカな!」とおもってしまう。
あきらかにユニゾンが合わない。
そのために設けられているオーケストラとのリハーサルが1日だけ用意されているらしい。しかし、たったの1日である。チャイコフスキー国際コンクールとは違っていることに、ぼくは驚いた。
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そんなことをつらつら考えながら、ベフゾド・アブドゥライモフの「第3番」を聴いて、第3楽章最後の雄叫びは、一分のスキもないほど完成度が高く、その出来栄えにぼくは圧倒された。ポリーニの異名「ミスター・パーフェクト」を髣髴(彷彿)とさせるものだった。――【ほうふつ】とは、辞典を引くと、「全く別のものなのによく似ていて、見る人に記憶にあるそれが再現したと思わせる様子」と解説されている。新明解国語辞典(第6版)より。