■D・H・ロレンス文学の軌跡。――

The Rainbow」のーマは? 8

 

ロレンスについていえば、彼の作品についての解説で単純に説明のつく話はひとつもない。1915年に、「虹(The Rainbow)」が出版された。だが、たちまち発禁処分となった。その話は知られているように、それは事実であり事実そのものは動かせない。

そのころ、ロレンスとフリーダはイギリス南西端のコーンウォル(Cornwall)に住みつく。戦争の気運が濃厚になり、戦争を呪いながらも、いっぽうではユートピアを謳うロレンスであったが、翌年の3月、北トリーガーゼン(Highher Tregerthen)というところに移って、「荒れ地の真下に海が見える村落に落ち着く」。

すでに長編「虹」をめぐるゴタゴタで、彼は深いこころの傷を負っていた。

「虹」のどこがわいせつなのか? 

そのときはまだ、つぎつぎに残酷な追い打ちをかけられる身であることに、ロレンス自身、気づいていなかった。

「虹(The Rainbow)」という小説には、虹のシーンが3度ほど出てくる。彼にとっての虹は、詩「ヘネフにて」に描かれたように、女は呼び声、男は答となり、天と地をむすぶふたりの虹の下で、フリーダの連れ子アンナがだんだん成長し、長じて父方のいとこウィル(Will)と結婚し、アーシュラ(Ursula)はグドルーン(Gudrun)を産んで、「勝利者アンナ(Anna Victrix)」となり、つつましい暮らしではあったが、ささやかな幸福を見出していた。

その戸口から、遠くに虹のアーチが見えるのである。

ロレンスにとって、その虹の行方を見極めることがこの小説のテーマだった。

だがコーンウォルでは、ひそかに木片を拾い集めて暖炉を燃やすたきぎをつくらなければならない貧窮の地でもあった。

あわせて、3度にわたる徴兵検査での屈辱や、戦争で仲間たちに去られる悲しさもあり、民主主義の光明とファシズムめいた暗黒な気運とで、やりきれない日々がつづく。そのころ、政治的意見の食い違いから、ロレンスはバートランド・ラッセル卿との交わりを絶った。1916年2月のことである。

そして、南フランスで療養していたキャサリン・マンスフィールドと夫マリのふたりを呼び寄せ、隣りの小屋に住まわせたりして、フリーダと4人で団らんを楽しむことができた。だが、ふたりは2ヶ月後に去って行った。

夫マリとロレンスの男同士の関係は、友情を超え、同性愛にも近いものだったという評論家もいる。ふたりは、「血盟(Blutbrüderschaft)」と呼ばれる関係を深めていったのは事実らしい。――この「血盟」という語は、ほんらいは血の交わりを意味する。しばしばロレンスが同性愛者の嫌疑をかけられるのは、マリとの関係だけでなく、小説「恋する女たち」や、「アロンの杖」、「カンガルー」、「翼ある蛇」などにも色濃く描かれていることにもよるだろう。

しかし、ロレンスにとって、そのようなことはどうでもいい話なのだ。

 

 

 

そしてさらに翌年の夏ごろから、警察の監視がつづく。

アメリカへの渡航をおもい立ったが、ビザの交付を拒絶される。

最初は、その理由がわからなかった。

そしてついに、10月2日、警官がやってきて家宅捜索をされた。窓の明かりを合図に、洗濯物などの合図でドイツ軍に情報を流しているのではないか、という嫌疑をかけられたのである。

スパイ容疑で、コーンウォルからの退去勧告がだされた。妻フリーダがドイツ人だったからである。ふたりは、イギリスの沿岸地域に居住することを禁じられた。

フリーダは、近所の人をあつめて、ドイツ民謡を大声で歌ったり、ときには、ドイツの潜水艦の出没する海岸に出て、白いハンカチをひらひらさせて踊ってみたり、ロレンス夫妻は、イギリスのだれからも白い目で見られ、相手にされなかった。

そんな絶望的な孤絶な環境ではあったが、彼は傑作「恋する女たち(Women in Love)」を書き、ついに完成させるのである。

「恋する女たち」以降の諸作が、もしも書かれなかったとしても、D・H・ロレンスはイギリスの文学史に名を刻んだだろうといわれた。それくらい、「恋する女たち」は高く評価された。

けれども、その年はいいことは何もなかったが、フリーダになぐさめられながら、コーンウォルをあとにした。――考えてみれば、このコーンウォル時代は、創作については、生涯で最も実りゆたかで、最も充実した時期であった。おもう存分に創作に打ち込むことができたし、フリーダとの共同生活は波風ひとつ立たず、すべてうまくいった。

ラッセル卿との衝突もあって、ロレンスはめずらしく「民主主義(Democracy)」というエッセイを書いている。

そして「イタリアの薄明(Twilight in Italy)」が書かれ、詩集「恋愛詩集(Amores)」が出版され、愛の恐ろしいまでの唐突な自覚の物語「博労の娘(The Horse Dealer's Daughter)」を書き、そして短編「サムソンとデリラ(Samson and Delilah)」を書いている。

「虹」では3代にわたる性の年代記を書き、「恋する女たち」では、成熟した同世代に属する2組の男女の恋、――ひとつは暗い性の賛歌が描かれ、もうひとつは白い挽歌が描かれ、頭ではなく、血筋をもって考えつづけてきた性愛の思想を、堂々たる筆致で時代絵巻のように描かれていく。――くわしくは作品論でのべてみたい。

コーンウォルを出てからも、一か所にとどまることなく放浪し、その間、ゴールズワージー(John Galsworthy)とも会食し、意見交換をしている。

このころのイギリス文壇に飛ぶ鳥を落とす勢いがあったのは、このゴールズワージーだった。

彼の「林檎の木(The Apple Tree, 1916年)」は、やがてノーベル文学賞に輝いた。このとき、ロレンスをよくおもわない人たちは、「あの田舎っぺの天才、おもしろい男だが、わたしにはついていけない、自我にとり憑かれた男」とささやかれたりした。

いっぽう、ロレンスの作品を最高傑作と認める人たちは、たとえば、……

「わたしは信じています。……『虹』におけるように、死のなかにも、あるいは官能的な陶酔のなかにも、ひとつの大いなる充足があります。われわれはついに充足ではなしに、死の滅亡を選び取ってしまったのだ。……『虹』のつづきとして別の小説『恋する女たち』というのがあり、この作品こそまさに人の魂のなかで、戦争がいかなる結果を生んだかが語られています。だが、たいへんすばらしいのと同時に、たいへん恐ろしい作品です」と書く人があらわれた。

ロレンスはいう。

「腐敗のなかには聖なるものがあるのだ。……やわらかな光沢を帯びた肉感的な腐敗のなかに、沼のように、冷たくて、熱い爬虫類のなかにも、神格の徴(しるし)があるのだ」と。

そのことは、小説の文中からも見つけることができる。

「アシュラは両手で彼の腰と太腿の裏側の線をたどった、すると、生き生きとした焔が彼から発し、彼女の身内を暗く走るのであった。それは、彼女がルパートのなかから引き出し、自分のなかに汲み取った電流のような情熱の暗い洪水だった。豊かな新しい回路が、情熱の電流エネルギーの新しい流れが、ふたりの間に見つかったのだ」

ここに登場しているルパートは、「融合としての愛」、「混じり合い」としてのセックスをいかに嫌悪していたかが語られ、合体の陶酔のなかにじぶんの存在を抹消されることを、ひたすら恐れていたのである。

やがて、ミドルトン・マリ(John Middleton Murry 1889-1957年)は、「The Story of D. H. Lawrence (1931年)」という本のなかで、こうのべている。ロレンスの偶像を破壊する真意を見抜いているのである。――マリの息子、コリン・マリまたはリチャード・カウパーは作家である。

「性的充足なしに、官能的支配こそ、ロレンスの欲するものである。女を満足させる必要がなく、性関係そのものが官能に変容され、そこではじめて自分の失われた男性をふたたび主張できる機会が与えられる、そういったような性的結婚こそ――まさに、ロレンスの夢なのである」と。

マリは、フリーダを見て、ちょっとした夢を見ていた。もしも彼女といっしょになったら、どんなにすばらしいことだろうか、と。

キャサリン・マンスフィールドが亡くなってから、残されたマリは、不幸な結婚をして、極度の神経衰弱にかかり、両脚が麻痺した。

マリはじぶんでいっている。

「1923年、どうしてぼくはあなた(フリーダ)を自分のものにしたいと強くいい張ることができなかったのだろう? 考えられるのは、ロレンゾー(ロレンス)にたいする忠誠心があったからか? まさしく忠誠心こそ、彼がいちばん軽蔑していたことだった」

「もしも彼の哲学にしたがって行動していたなら、ぼくはあなたを手放したりしなかっただろう。いまもって、ぼくは自問している」と。

――これは1953年に書かれた手紙である。

もしも作家キャサリン・マンスフィールド亡き後、フリーダといっしょになっていたら、マリは、壮絶な地獄を味わったにちがいない。そうしなかったのは、たぶんフリーダを恐れていたからだろう。彼女は、直接マリの質問には答えていないけれど、あとで、フリーダは遠慮がちにこう書いている。

「いいえ、あなたのなさったことは正しかったのよ。ロレンスの病気はあのころ、すでに重いものになっていた。あなたは醜い悲劇を避けたのよ、そう思うわ。……わたしが慰めであり、喜びだったというあなたのことばは、かぎりなく嬉しい」と。

フリーダとマリが危険な関係に陥ろうとしていたとき、ロレンスは、ひとりニューメキシコの「ラナニム」にとどまっていた。

そのころ、ロレンスとフリーダは、無数の争いとはちがった、はるかに深刻に局面に立っていた。ロレンスは、もとよりのこと、フリーダなしでは生きられない人間である。フリーダからイギリスへ戻るようにという電報がとどき、彼はやむなく同意してしぶしぶ帰国する。

ロレンスの肺結核は、急速に悪化していた。

彼は、ただちにマリとフリーダの関係を見ぬいたが、口ではいえなかった。

そして、みんなを招いて、「最後の晩餐」と称して食事会が催された。このときの模様をつぶさに描いた評伝が残されている。

カーズウェルによれば、マリとのいきさつの直後、ロレンスは頭から食卓に突っ伏して意識を失ったと書かれている。飲みなれないポートワインをあおって、酔ったとおもわれたが、その間、フリーダは「石のように冷然とながめていた」と書かれている。

そういうフリーダであってみれば、余人にはわからない夫婦間の冷えた確執があったのかもしれない。マリは、じぶんはとても愛せるような生易しい女ではない、とさとったにちがいないが、反面、彼は大きな後悔をしていた。