■D・H・ロレンス文学の軌跡。――

人間D・H・ロレンス。――リーダ以前の愛 

(D.H. ロレンス「息子と恋人」、小野寺健・武藤浩史訳、ちくま文庫、2016年)

 

 

ロレンスは「魂の愛」と「肉体の愛」に悩んでいた。――と、単純にいってしまうと間違いになるかもしれないが、現に、フリーダと出会うまえ、ロレンスは「魂の愛」と、「肉体の愛」を、それぞれ相手を変えてつき合っていた。

きょうはその話をしてみたい。

先にも少し触れたように、D・H・ロレンスは1885年9月11日、イギリスのノティンガム市近郊にある探鉱町イーストウッドで、アーサー・ジョン・ロレンスとその妻リディアの第4子として生まれた。この両親から生まれたロレンスの家庭環境をめぐって、研究諸家によって長いあいだ「ロレンス神話」なるものが喧伝されてきた。

「ロレンス神話」をひと言でいうと、リディアは自分の母親であるとともに、恋人のような存在となり、ふたりはまるで夫婦のような愛情に満ちた感情をもつにいたった、というものである。

母リディアは、かつて技師長を父に持った誇り高い女であり、リディア自身、教師をしていたこともある教養のある中産階級出身の女だったこと。

そして彼女は、おなじ中産階級の教養ある男と恋愛し、その恋の破局の痛手から、立ち直れないまま、かつて自分の周囲にはいなかった粗野で野性的な男と知り合い、たちまち惹かれて、まるで発作的に結婚してしまったという経緯があった。

それからは、彼女の半生は暗転し、将来を失望して夫を疎んじはじめた。

その反動でリディアは、こんどは、じぶんの子供に愛情をそぞくようになり、貧しい家計をやりくりして子供たちの将来の幸福を気遣い、ロレンスとリディアのあいだに、考えられないような夫婦関係のようなふしぎな愛が芽生えた、というものである。

そのためにまだ若かったロレンスは、異性を愛する、愛の感情を育てる能力がだんだん失われていったというのが、かつて多くの研究者がつきとめた不可解な「ロレンス神話」というものだった。

(井上義夫の「ロレンス游歴」、みすず書房、2013年)

 

1996年、ロイ・スペンサー(Roy Spencer)の「D・H・ロレンスの故郷――若き日のロレンスとその背景」(橋本宏訳、松柏社、1996年)という本などが出て、ノティングガムシャー、イーストウッド時代のロレンスの詳細な調査がおこなわれ、また、近年では井上義夫の「ロレンス游歴」(みすず書房、2013年)などが出て、「ロレンス神話」は音をたてて崩れた。

ロイ・スペンサーのしらべによれば、リディア・ビアズオルは、1851年にマンチェスター市アンコウツのスラム街にある聖アンドリューズ通りに生まれたといわれている。それからふつうの水準の家庭を営むことができたのは、現在のクライド通り、――住居チャペル、――10番地に移ってからだったといわれている。

井上義夫氏の文章によれば、リディアの父ジョージ(ふるい文献ではジョンと誤記されている)は、日給5シリング8ペンスの整備工で、2階、3階、階下に1部屋とキッチンのある家屋で、当時、家賃の支払いが遅れることがあったと書かれている。

家族が多いときは総勢9人にもなり、一家をささえるため、ジョージは20代なかばの牧師を下宿人において、じぶんは12年間、週に6日間無欠勤で、はたらきづめにはたらき、日曜日には素人牧師として布教活動などもしていたらしい。

1870年、リディアが18歳のとき、作業中の転落事故に遭い、歩行の自由を失った。

その見舞金20ポンドで8ヶ月間暮らしたと書かれている。

そしてふたたびノッティンガム市スネントンに一家を引きつれてもどったころの彼の受け取った年金は、年額18ポンド5シリングにすぎなかったいう。

19歳のリディアと妹2人は、父親代わりをして、レース工場の「糸抜人(ドローアー)」として雇われ、一家をささえた。

しかし彼女が教師をしていたというのは事実だが、小学校を卒業して、12歳から2年半、「教員見習い」をしていたというだけのことだった。

それも職務怠慢の理由で代用教員の資格を得ないまま職を追われていたのである。それからはリディアは名ばかりの塾を開き、家庭教師をしていたと書かれている。――これが真実だったのである。

リディアをふくめ、ビアズオル家の娘たちは、家政婦、糸抜人、レース工場の工員など、さまざまな職につき、結婚に逃げ場をもとめないかぎり、彼女たちの境涯を変えることはできなかったのである。

 

 

 

このことは、リディアの口からロレンスに語られることは一度もかなった。

彼女の貧しい過去は封印され、隠しとおしたばかりでなく、ロレンスが成人するまで、虚偽で塗りかためられた人生を共有していった。

母親に同情すべき事柄の数々を、リディアはべつの物語につくり変え、それを息子に話して聞かせたのだった。

そういう点では彼女は気位の高い女だったといえる。

ロレンスの未発表の小説「The is a small cottage」はわずか48ページの草稿にすぎないが、そこにリディアとおもわれる女性が登場し、くわしくビアズオル家の家系に言及していると書かれているが、この草稿は現在、カリフォルニア大学バークレー校に保管されていると聞く。

その物語には、羽振りのいい裕福な皮革業者や貴族の娘「レイディ・リディア」という主人公が出てくるらしい。

自伝小説と目される「息子と恋人」という作品にも、一部重なる部分があるらしく、そこには真実らしい物語というよりも、多くは母リディアから聴いた話を踏み台にして書かれたらしいといわれている。

しかし没落した家系を物語るストーリーは世にゴマンとあり、いま考えてみれば、リディアの苛烈なまでの矜持(プライド)から出た話なのかもしれないのである。その矜持だけは、息子ロレンスに間違いなく受け継がれた。

彼は「息子と恋人」を書くにあたって、母リディアの存在がすべてだった。母親が過去の何かについて悩んでいるようすは、息子のまったく知らない話ではなく、うすうす彼女を蝕む憂愁に、まったく気づかぬほど愚鈍な息子だったとは考えにくい。

しかし幼いロレンスは、母リディアの罠にすっかりはまっていた。

ロレンスが生涯、目もくらむような膨大な量の小説やエッセイ、詩、戯曲を書きつづけることができたのは、ひとつには生活のためだったといえる。

そうはいっても、貧しさから、あるいは借金地獄から抜け出すために小説を書こうというのなら、それまたその種の作家は世にゴマンといる。ロレンスは、何が違うのだろう?

ある批評家は、16歳のときに患った生死をさまよう大患の例をあげている。ウィリアムは男好きのする女性と婚約し、金を使いまくり、その挙げ句にカゼをこじらせてロンドンの下宿で20歳の生涯を閉じた。そのため、母親の愛情は一気に三男のロレンスに向けられ、その彼が大患を体験し、どうあってもロレンスを助けたいという母のひたむきな愛情は、このときに昂じたとされている。

それから20歳になったロレンスは、とぎどきはグーグス農場に遊びに行き、農業経営者のチェインバーズ家の人びとと語らって、自然を満喫するとともに、そのころ小学校を出て手伝いをしていた娘ジェシー・チェインバーズと付き合い、彼女はハイスクールを出たこの若い青年を見てあこがれを抱いた。

ロレンスと彼女との付き合いは、その後いろいろあったが11年間にわたってつづけられた。知的な世界にあこがれていたジェシーにとって、ロレンスは新しい唯一の出会いだった。

その彼女をモデルに描いたのが「息子と恋人」に描かれているミリアムである。

ふたりはどこまでの付き合いだったか、想像の域は出ないが、彼女にとっては、ただひとりの異性だった。婚約を迫られ、するとロレンスは考えた。婚約するか、さもなければふたりきりで外出するのをやめるか二者選択を突きつけられたとき、ロレンスの幸せな青春時代は終わった。

「白い孔雀」は、そのころの光景を目に焼きつけて書かれたものである。

その半年後、彼はノッティンガム大学に入学し、このとき18歳の女性ルイ・バロウズを知る。これはのちに作品「虹」に書かれている。

匂いたつような美しい娘で、信仰心の篤(あつ)い女性で、彼女の家族は芸術一家だった。

またルイは別れたジェシーとも親しくなり、ジェシーの口を通してロレンスを知るようになるが、やがて彼は「性」に悩むようになり、「魂の愛」と「肉体の愛」との葛藤に悩み、「魂の愛」はジェシーに、「肉体の愛」はルイにというふうにして、ふたりの女とのつながりを同時に持った。

フリーダと出会うまえの、肉体的な結合に酔い痴れることのできた、はじめての女性だったといえる。

ロレンスは「肉体の愛」によって、じぶんは結婚するのだという発言をジェシーにしたらしい。ジェシーの失望の色と哀しみが目に見える。この時期、ロレンスは、母リディアが尊敬している牧師を罵倒したりして、母にたいしても強い反抗心を見せるようになる。ここに作品「虹」のテーマが、自然とできあがったのである。