■D・H・ロレンス文学の軌跡。――

通しても、通小説を書かなかったロレンス。2

 学生時代のフリーダ

 

 

関東はここしばらく雨の日がつづくかも知れない。

きのうぼくは、草加市のある総合病院の形成外科にかかり、診てもらった。左足の親指に巻き爪を引き起こし、痛みを発症したからだった。20代とおぼしき美しい長身のドクターはいった。

「あっ、これ! コロナウイルスのせいです。どこへも出かけなくなったでしょう? そのせいですね。人間って、歩かなくなると、足の指はこんなふうに巻き爪になっちゃうんです。でも、心配することはありません。痛くても、歩けばいいんです。歩くと、丸まった爪も、じぶんの重力で平らになりますから、……」といった。

「いま、おいくつですか?」と訊いてみたくなった。

それは、医学の問題というより、重力の問題というわけだった。――その話がおもしろかったので、喫茶店で6通の手紙を書き、ぼくは「笑ってしまった」という話を書いて投函した。

しかし手紙を書くというのは、じつに恐いものである。殊に異性あての手紙は、その先どうなろうと、のちのちまで残りつづけるのだ。

「ちょっと、恐いですね」と、ある日青年はいった。

「手紙の名手って、だれをおもい出しますか?」と青年がたずねた。いろいろある。異性宛てに書かれた手紙としては、20世紀を代表する手紙がある。それも膨大をきわめていると、ぼくはいった。

「だれですか?」ときかれたので、「D・H・ロレンスという食えない男だよ」とぼくはいった。それで想いだす。

ジェシーがロレンスの「息子と恋人」を読んで絶望してから数週間たったころのことだ。イタリアにいるロレンスから一通の手紙がとどく。それは「きみだけに」と前書きされた手紙で、それは、「新しい恋が生まれたことをヒステリックに告げる」もので、ロレンスはジェシーに、とても残酷な手紙を書いている。

「この手紙は、わたしに衝撃を与えるためにやってきた。が、じつはわたしは少しも驚かなかった。わたしが胸深く感じたのは安堵感だった。これでついに、わたしは自由になったのだ。それまでいつもわたしはロレンスにたいして大きな責任を感じてきた。いま、それは消えたのだ」と書き、

「ロレンスが去って行ったとき、わたしのより大きな自分というものも死に絶えたのだ。彼のいない人生は荒涼として見えた。わたしは彼の人生の圏内で育ってきたのだ、その彼がいま決定的に去ってしまったのだから、わたしは苦しくても、新しい出発をはじめなければならない。長い間、じっと静かに耐えながら、わたしは人生との縁を切りたいと願った。残されているものは、ひどく醜悪に見えた」と書いた。

 

 

 

ジェシーの目には、去って行ったロレンスの書いた「息子と恋人」のなかにも、わたしではなく、フリーダがいる、そうおもうと哀しみが押し寄せてきたが、それでもフリーダにたいする敗北感、嫉妬すら語らなかったのは、ジェシーのゆるぎない自尊心であったにちがいない。

マルバールの指摘する「フリーダのロレンス」が、間違いなく、あの作家D・H・ロレンスであったなら、マルバールの期待どおりに書かれたということになるだろう。

「ロレンゾー(ロレンス)の小説にはいつもおまえがいるね、あの人の描く女は、みんなおまえだよ」といった。

 

 小さな川が たそがれに さえずっていて、

 蒼白い空の 暗いふしぎな眺め、

   これはもう 至福といっていい。

 

 そして 万物は閉ざされ 眠りについた、

 悩みも 心配も 苦しみも みんな

   たそがれのなかに 消えていった。

 

 いま あるのはたそがればかり、サーッという静かな川音は

   いつまでも 鳴りつづけているだろう。

 

 そして ついに あなたへの愛が ここにあるのを ぼくは知る。

 それが すべて見えるのだ、それは たそがれのように 全体なのだ、

 それは 大きくて、とても大きくて、ぼくは前には それが見えなかったのだ。

 小さな光と 閃光と 邪魔ものと

   悩みと 心配と 苦しみのために、

 (D・H・ロレンス「わたしではない、風が……」より

 

 あなたは 呼び声で、ぼくは 答えた、

 あなたは 願望で、ぼくは 達成だ、

 あなたは 夜で、ぼくは昼だ。

 そのほかに 何が? それだけで じゅうぶんだ。

 それだけで、完全だ、

 あなたと ぼく、

 そのうえに なにが――?

 

 おかしなことだ、それなのに ぼくらが こんなに苦しんでいるなんて!

 (D・H・ロレンス「ヘネフにて」

 「蕾(つぼみ)を引き裂いて花がどんなものか見ようとするみたいなものね」

 とアーシュラがいった。

 「そうよ。そしてそれがあらゆるものを殺してしまうのではなくて? 花に 開く機会をまったく奪ってしまうんだから」

 「まったくそのとおりよ」とアーシュラが応じて、「完全な破壊行為よ」

 「そうだわ、ほんとに!」

 (D・H・ロレンス「恋する女たち」第12章より。井上義夫訳

 

彼は女に一層近づくにつれ、包むような女のやわらかなあたたかさのなかに、すばらしくも創造的な熱のなかに、一層深く突き進んでゆくのであった。そしてそのあたたかさ、その熱が、彼の血管のなかに浸透し、彼を蘇生させたのである。彼は女の生命力のうちに湯あみしているうちに、わが身が融けとろけて沈みこみ、安らかになるのを感じた。あたかも女の胸のなかにある心臓が何にもまして強い第二の太陽であり、その光耀(こうよう)と創造の力のなかに、自分が深く、より深くとも躍りこんてゆくかのようであった。生命が、あたかも太陽から流れでる万能の光ででもあるかのように、脈を打ちながら、彼の内部へ眼に見えぬように忍びこんでくるにつれて、引き裂かれ息絶えていた彼の血管はなべてやわらかに癒えていった。

D・H・ロレンス「恋する女たち」第24章より。井上義夫訳

人妻フリーダを奪ったロレンスだったが、しかし、彼は姦通小説は書いていない。

そして、「チャタレー夫人の恋人」、あれは姦通小説ではない。

森番のメラーズはコニーと正式に結婚しようとする。19世紀ヨーロッパの恋愛小説は、おしなべて姦通小説と相場がきまっている。名のある名家の夫人は、じぶんの愛人をもつことを許されていた。スタンダールやバルザックはいうにおよばず、人妻との性交渉には涙ぐましい努力を重ね、涙ぐましい物語を書いている。「トリスタンとイゾルデ」以来、ヨーロッパの恋愛小説はほとんど例外なく姦通小説なのである。

だが、ロレンスは姦通ものを一度も書かなかった。

フリーダはロレンスと出会う前、ミュンヘンでオットー・グロースと姦通事件を起こすまえも、ノッティンガムである男と浮気をしている。季節が春になれば、黄色いサクラソウや青い釣鐘草が芽吹き、シャーウッドの森はフリーダの憩いの場となり、彼女に甦ったのは新しい刺激的な恋だった。

かつては詩人バイロンもそこで詩を書き、メルボーン卿の妻キャロライン・ラムを抱き、「あの美しい顔は わたしの運命だ」とつづり、バイロンの愛の形見として、彼女のアンダーヘアを送ってきたのも、その屋敷でのことだった。

フリーダは陰毛を贈ったりしなかったが、そのかわり惜しみない、彼が求める最高の愛を贈った。

ロレンスもフリーダにいっている。

「きみがいちばん望んでいるとおりに決めたらいい。ぼくと暮らして、腐りきったチャンスに賭けるか、それとも安定した生活、子供たちのいる暮らしに戻るか、自分で決めたらいいのだ」と。面と向かってはいえないことを、ロレンスは詩に書いている。

「ああ、あの女はなくてはならぬもの/自分には選択の余地はない!/ぼくを捨てないでくれ」と哀願している詩がある。そううたう詩人にウソはない。

 

 はあ お前はおれを愛して

 陶酔するのだから

 おれを憎んで陶酔するのは必然だ

 ……

 お前はおれの軌道のなかに囚えられている

 だからお前は囚えられていることを憎まないか?

 どんなに美しく平和な軌道であろうと

 お前には耐えがたい牢獄とならないか?

 (D・H・ロレンス「メダルの両面」より。野島秀勝訳

 

フリーダは、じぶんでも書いている。

「こころの底で、彼(ロレンス)はいつも女を恐れ、結局のところ、女のほうが男よりも強いと感じていたとわたしは思う。女というものはかくも絶対で、否定しえないものなのだ。男は働き、彼の魂はあちこち飛びまわる。しかし所詮、女を超えてゆくことはできない。女から男は生まれ、女へと帰って行く、肉体と魂の究極的必要に急きたてられて。女はいっさいのものが帰って行く大地と死のようなものなのである」と。

だからといって、

「わたしはキリストが好きじゃない。2000年ものあいだ人を驚かそうと、あんないけすかない十字架なんかにぶら下がっているなんて! あれを愛だなんていうなら、あなたなんか殺されてしまえばいいのよ!」といい、

「女の髪の毛で自分の足を拭かせるなんて、胸が悪くなる!」ともいっている。

「どうぞ、生きている男をお与えくださいまし、……」とも書いた。それはフリーダの悲願であったにちがいない。

性的な結婚を信じつつ、同時に男と女はそれぞれの存在を保持し、お互いに自由でなければならないという、結合と孤独、――新しい愛の倫理を貫いたもの、それこそがロレンスのテーマであったとおもう。

そこにフリーダの意思と共通するものがあったのではないか。野島秀勝氏は、それを「愛の実存的力学」といっている。――なぜなら、満ち足りた完全性はお互いという相対から生まれ出るのだから、……と。

もとより、――これは野島秀勝氏の独壇場だが、「陶酔(エクスタシー)」とは語源的にいって、「自分の外に立つ」という脱自(エクスタシス)のことなのだから、自我という殻を突き破って外に出ることによって、はじめて合体・融合の意味をなすのである。

「新しきイヴと古きアダム」における男と女の心理的葛藤は、そのままロレンスとフリーダの愛の内心をあらわしているかもしれない。

 

こんなふうにして、1914年5月28日、ウィクリーとの離婚が正式に決まると、同年7月13日、フリーダはロレンスと正式に結婚した。

結婚式の立会人は文芸評論家のミドルトン・マリと、その愛人の作家キャサリン・マンスフィールドだった。マンスフィールドは、すでに故国ニュージーランドを引き上げていた。

ロレンスは役所の登記所に行く途中、なにをおもったか、タクシーを停めると宝石店に入り、花嫁のために結婚指輪を買ってもどってきた。そしてフリーダの指にあった指輪を抜き取り、それをマンスフィールドに手渡した。

どうしてそんなことをしたのか、わからない。そして、ロレンスはうやうやしくフリーダの指に指輪をはめた。彼女はみんなから祝福のキスを受け、ロレンスからは熱のこもったキスを受けた。

キャサリン・マンスフィールドは、フリーダから受け取った指輪を、終生、手放さなかった。彼女は肺結核のために1923年に亡くなったが、そのとき、ウィークリーの指輪は彼女の指にはまっていたのである。

いまさらながら、D・H・ロレンス文学の奥深さを噛み締める。

 

The Rainbow.D.H.Lawrence.