「雪国」「が白くなった」

The earth lay white under the night sky.

 

こんなことがあったのです。

ぼくは先日、書棚のいちばん上にあった一冊の文庫本を手に取り、突っ立ったまま、数分間、そこに佇(たたず)み、本を読みました。川端康成の「雪国」という小説です。

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、

「駅長さあん、駅長さあん」

明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

川端康成「雪国」の冒頭の文章

 

この文章の「トンネルを抜けると雪国であった」という部分と、「夜の底」という部分をもう一度読み返しました。

さすがだなとおもいます。

現代人は「夜の底」といっても、よくわからないかもしれません。

「夜の底」って、何でしょうか? 夜の深い闇をいい表しています。でも、そこは外国人にはわからないかもしれない。

サイデンステッカーさんはどう訳しているでしょうか。

 

 The train came out of the long tunnel into the snow country.

 The earth lay white under the night sky.

 The train pulled up a signal stop.

 

「夜の底が白くなった」の部分は、The earth lay white under the night sky.と翻訳され、直訳すると、「黒い空のもと大地が白く横たわっている」になっています。

これでいいのでしょうか? 

トンネルを抜けて雪国に入ると、真っ黒だった夜空がぼんやりと少し明るくなった、というような文章です。問題は、日本語の「底」という表現です。

グラスの底、海の底、夜の底、――不気味なほど静かで、何も写さない漆黒のような闇を想いうかべるでしょう。その底が、少し明るくなった、というわけです。

川端康成はすごいな、とおもうかもしれませんが、こういう言い方は、芥川龍之介の「羅生門」にすでに登場しています。「下人は……またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた」と書かれています。こっちも「凄いな!」とおもってしまいます。

また、川端康成は作品のフィナーレで圧倒的な天の河を描きました。

「火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬(すく)い上げられてゆくよう」に感じられ、 「天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせ」たと書きました。ぼくは「雪国」を読み直してみて、その吟味されたことばの美しさというものを思い知らされました。

【底が浅い】見かけだけで、本来望まれる学識や教養に欠ける様子だ。(多く、軽い侮蔑を含意して用いられる)。【底が割れる】隠しておきたいことが見破られてしまう。【底を入れる】「底をつく」におなじ。【底をつく】相場で底値になる。すっかり貯えが無くなって、もう少しで皆無に近くなる。――新明解国語辞典(第6版)による。

ぼくがはじめて北村透谷という人を知ったのは、勝本清一郎編の「透谷全集」(岩波書店、昭和25年)を読んだときでした。ずいぶん前のことです。

それから中村光夫の「鴎外、透谷、藤村」(日本の近代小説、岩波新書、昭和29年)を読み、近代日本の思想の流れを勉強ていたときに、あらためて透谷の文章に触れ、何か書きました。

それ以来、ぼくは透谷の本を開くことはほとんどありませんでした。

透谷という人は、詩の分野ではいいものはありません。全体が直情的で、語調、気分、テンポなど、劇的な起伏やゼスチャーの多い作風です。それでも透谷は書かずにはいられなかったのでしょう。

むかし「源氏物語」を英訳したサイデンステッカーさんのことをおもい出します。

「源氏物語」に「夕顔」という固有名詞が出てきます。これは登場人物の名前です。これを英訳するとき、サイデンステッカーさんは「Evening Face」と翻訳されました。すばらしい翻訳です。

「夕顔」の学名は「white-flowered gourd」。こんなおもしろくもおかしくもない植物学的な文字にしてしまっては、せっかくのおくゆかしい名前が死んでしまうと考えたのでしょう。「Evening Face」、すばらしい訳文です。

「榊」にしても、そうです。サイデンステッカーさんはこれを「sacred tree(神聖な木)」と翻訳されました。妻ヨーコをもしも英訳するとすれば、いったい何と訳したらいいのだろうと考えてみましたが、おもい浮かびません。

英訳された「雪国」などにより、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成は、日本語で書いた自作が世界で読まれ評価されたのは翻訳者であるサイデンステッカー氏の貢献が大きいとして、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」といって賞金の半分を手渡して話題になりました。

また、川端からストックホルムでの授賞式に一緒に行ってくれるよう頼まれて同伴しています。2010年代以降に公開された1960年代のノーベル文学賞の選考資料によれば、サイデンステッカーさんは、同じく日本文学研究者であるドナルド・キーンさんとともに、選考委員から日本人文学者についての参考意見を求められていたことを明らかにしました。

川端康成の「山の音」は中編ですが、おそらく「雪国」よりもむずかしいとおもわれます。

たとえば、……

 

《菊子は化粧していなくて、少し青ざめた顔を赤らめ、眠いような目ではにかみ、紅のない素直な唇から、きれいな歯を見せて、気まり悪げにほほ笑んだのを、信吾は愛らしいと思った。》とか、《信吾は面くらって、つい笑い出した。菊子はいい思いつきと考えているらしく、/「お父さまも、緑でせいせいなさいますわ。」/「新宿御苑は、いつか一度、どうかしたはずみで、犬の展覧会を見に行ったことがあるだけだね。」/「私も犬のつもりで、見にいらっしゃればよろしいわ。」》とか。

 

――菊子のいう敬語、女性語は、外国語では的確に表現することがむずかしいとおもわれます。「私も犬のつもりで、見にいらっしゃればよろしいわ。」は、女性の媚態(びたい)――媚態とは、firtatiousnessのことで、男に媚()びようとする女のなまめかしい態度、お世辞を言って人に取り入ろうとする態度のことで、その部分を示す会話で、かつて、サイデンステッカーさんが訳された英文は、「Come and let me show you myself instead.」となっていました。

翻訳すれば「きてくださったら、私は、その代わりに、じぶんを見せてあげますわ」というような感じ。

 

須賀敦子さん

 

マーク・ピーターセンさんも、この個所に触れて、この会話は、英語になりにくいと書かれています。

理由は、「犬」という単語が出てくるからです。

英語の成句に見られるdogには、卑劣で見下げ果てたというようなイメージがあまりに強くあって、かりに、「You can come and look at me,too, as if I were a dog.」といってみたところで、可愛い媚態どころか、奇妙な劣等感を示すことになったり、いわれなく世を恨むみたいになってしまいそうです。

須賀敦子さんのイタリア語は知りませんが、彼女は翻訳の途中で、夫が急死し、もう助言をしてくれるパートナーがいなくなったとおもい、一時は、この仕事はこれまでと考えたそうです。

けれども、編集者は、そんな彼女の個人的なおもわくなんか、少しも考えてはくれず、つぎに川端康成の「山の音」に挑戦することになります。

これは生半可では訳せないほど、古典的な傑作。

なぜなら、川端康成の小説は、外国語になりにくいという評判があったからです。しかし、じっさいに翻訳していくと、彼女はすらすら訳せたといっています。須賀敦子さん独特の表現を借りれば、「下駄の緒ずれのように」、これをどう訳していいか、困ることもあったという割には、予定どおりのすすみ具合だったと書かれています。

もっとも苦心したのは、終章の「落ち鮎の句」について、手きびしい批評で知られる評論家のタリアフェッリという人が、「イル・ジョルノ」紙上でほめてくれたのがたいへん嬉しかったと書かれています。

ある日本の小説ファンの老夫人に会った際、あんな細やかな感情の世界を、イタリア語に訳してくださって、感激して泣いてしまいました、という評言を頂戴し、彼女もまた感激したと書かれています。

いったいどんな訳なのか、イタリア語の分からないぼくも、知りたくなります。

その須賀敦子さんが、13年住んでいたイタリアを離れ、日本にもどってきたとき、もうあのイタリア語は、遠い過去のことのようにおもえ、じぶんを取り巻いていた緊張感もなくなり、日本でイタリア語に翻訳することのむずかしさを痛切に書いています。

「私にとって翻訳とは、まず感性でその言語の世界をしっかりと捉えたうえでの、根気と緻密さと、ばからしいほどの愛情による、頭脳と肉体の労働に他ならない」といいます。

先日、――といっても2年まえの秋のことですが、――「須賀敦子全集」(全8巻、河出文庫、2006年)の第2巻をつらつら読み直しました。これはぼくにとっても、おもい出深い本です。

で、さいきんぼくは、出かけるときは、リュックサックをかついで出かけます。

本を入れることもできれば、おにぎりを入れることもでき、スマホ、B6判サイズのスケッチブックにB6の鉛筆、万年筆、ノートブック、原稿用紙、カメラなどを入れ、気軽な気分で出かけます。

須賀敦子さんの思い出を語った岡本太郎さん――彼はイタリア文学の専門家で、東京大学大学院で、当の須賀敦子さんから学んだ人、――その彼の書いた「須賀敦子のトリエステと記憶の町」(河出書房新社、2002年)という本を持って出かけました。

ぼくは須賀敦子さんの本をいろいろ読んできました。いちどもお目にかかったことはないのだけれど、この人の文章を読んで、いつも、こんな文章を書きたいなあとおもっていました。けれども、いちども実現することはできなかった。

水にたとえれば清澄な、空にたとえれば澄み渡った、どこにも濁りのない文章で、味わい深い日本語に移し替えることのできた翻訳家、そういうイメージがあります。だから彼女の訳した詩文も、信用できるとおもっています。たとえば、こんな文章です。

 

《やがて結婚した相手は、無類のサバ好きだった。しかし、彼は私にその偉大さの秘密をすこしも説明することなしに、ただ、その詩集をつぎつぎと手わたしてくれた。そして、サバの名といっしょにトリエステという地名が、私のなかで、よいワインのように熟れていった。》

須賀敦子「ミラノ 霧の風景」より

 

「サバ」というのは、もちろん魚ではありません。詩人ウンベルト・サーバのことです。

彼女はサーバといわずに、サバといっています。

「結婚した相手」というのは、イタリア人のジュゼッペ・リッカ氏のことです。

1961年、彼女が32歳のときに結婚しています。イタリアのトリエステは、ヴェネチアの東150キロにあり、長靴型のイタリア半島のふくらはぎのつけ根部分に位置しています。特急列車に乗っても停車駅が多くて2時間ほどかかる。この町から海をながめると、イタリア本土は海の向こう側に見えるという、おかしな感覚に襲われるそうです。

ここは、第一次世界大戦までオーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあった街で、人口23万人ほどで、北海道の小樽のような町なのでしょうか。アドリア海に面した港町。ぼくは行ったことはありませんが、なんだかすてきな町らしい。

「須賀敦子全集」(全8巻)の第5巻に載っているイタリアの詩人ウンベルト・サバの詩集は、彼女が翻訳しています。さっきの本をひろげると、トリエステの町を撮った写真がいろいろ載っていて、凪いだ海もあれば、石づくりの道や家々もあって、たのしそうです。須賀さんは書きます。

 

《トリエステには冬、ボーラという北風が吹く。夫はその風のことを、なぜかなつかしそうに話した。瞬間風速何十メートルというような突風が海から吹きあげてくるので、坂道には手すりがついていて、風の日は、吹きとばされないように、それにつかまって歩く》のだといいます。

「きみなんか、ひとたまりもない。吹っとばされるよ」と夫はおかしそうに言った。

須賀敦子「ミラノ 霧の風景」より

 

 

須賀敦子「ミラノ 霧の風景」(白水社、1990年)

 

「ボーラ」というのは、季節風のことで、この町にかぎらず、アドリア海の北側に面した海岸では、風速30メートル以上の風がいつも吹きあれるそうです。

この町で生まれた詩人サバにあやかって「ウンベルト・サーバ書店」という名前の書店があると書かれています。古書店だ。ふつうサーバといわれているそうだけれど、彼女はサバと書いている。たとえばミラーノを日本流にミラノというふうに。

そんな写真集みたいな本を見ていると、その町のことはなにも知らないけれど、須賀敦子さんが愛した町として、ぼくまでがなんだかなつかしくおもえてきます。彼女はこんな海を見ていたのか、とおもって。――

翻訳家としての須賀敦子さんもすてきだけれど、文章家しての彼女も好きだ。しかし、彼女がはじめて作家活動を開始したのは、おそろしく遅い。

日本オリベッティの広報誌に「ミラノ 霧の風景」を連載したのは、1985年、彼女が56歳のときだったと書かれ、これが本になって刊行されたのは1990年で、彼女は61歳になっていました。そして1998年3月須賀敦子さんは69年の生涯を終えました。そのとき、須賀敦子さんは5冊の本を書かれています。

彼女が亡くなってからも、これらの本は「エッセイ」と呼ばれましたが、これはみんな小説でした。記憶を掘り起こして一人称で書く彼女の文章スタイルから、多くの人はエッセイと呼んだけれど、彼女の文章はご覧いただくように、エッセイ風に見えてしまうようです。

ぼくはこのような文章が好きです。

ぼくはイタリア語を勉強していますが、ほとんどまだ読めません。読めないけれど、彼女の翻訳文はとても魅力的です。そんなことが、なぜおまえに分かるのか、といぶかる向きもあるかもしれません。ここでひとつお目にかけたいとおもいます。完全な、きれいな日本語になっている見本を。――アントニオ・タブッキという作家の書いた「島とクジラと女をめぐる断章」(青土社、1995年)の翻訳文の一部です。

 

 Lei mi rideva e mi lasciava intendere la ragione di quella sua vita, e mi diceva : 

 aspetta ancora un po' e ce ne abbremo insieme, devi fidarti di me, di piú non posso dirti.

 

◆ある人が訳した文章は、

「彼女はあんな暮らしのわけなど自分でもわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。」

◆須賀敦子さんが訳した文章は、

「女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もう少し待って。そしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。」

 

――須賀敦子さんの翻訳がすぐれていることは一目瞭然。ぼくは彼女の訳文をとおして、イタリアの詩人たちの詩を読みます。そんなことを考えていると、ぼくはいつの間にかコーヒーを飲みながら、さっきの岡本太郎氏の本を読みおえていました。