晩生内(おそきない)まで。1
国道275号線をクルマで走っていた。深夜11時をすぎていた。
やわらの兄さん――ユキ子の実の兄が、札幌へくる途中の道で、クルマのブレーキオイルがぬけてしまい、動けなくなったという知らせが入った。275号線は、札幌から月形(つきがた)、浦臼(うらうす)、新十津川をへて、やわらへとぬける石狩平野を北上する道である。
ぼくは弟のクルマを借りると、それに飛び乗ってクルマを走らせていた。兄さんは浦臼と月形のあいだの晩生内(おそきない)ふきんのどこかにいるという。
月形をすぎると、人家もまばらになった。
道の両側に見える田畑は雪で真っ白くなって、黒く走っている目のまえの道はぬれたように、ところどころライトに反射してきらきら光っていた。夜の道をまちがえるといけないといって、弟の昭夫は、カーナビをセットしてくれた。こんな一本道をまちがえるはずはなかった。ぼくは昼に聴いた宇多田ヒカルの「Automatic」を、ボリュームを目いっぱいにあげて聴いていた。いい曲だなと思った。
しかし、こんな夜は危険だった。
日中天気だった日の夜は、放射冷却のために気温がぐっと下がって路面が凍結している。ときどき路面が白くなっているところが見えた。雪がうっすらと降ったらしい。地盤が凍てついている可能性があった。
ぼくはできるだけ慎重に運転した。それでもスピードは80キロから85キロぐらいはでていた。じきに晩生内につくだろうと思った。なにしろ一本道なのだ。
宇多田ヒカルの歌を聴いていると、ぼくは美佐子のことを思い出した。讃美歌を歌う美佐子の声は、人気歌手が歌っているようにビブラートが速くて、とてもきれいなのだ。ただ、ちがっているのは、美佐子のほうがソプラノに近いということだった。
ぼくは、北海道へ帰って、なぜ美佐子のことをしきりに思い出されてくるのか、ふしぎに思っていた。美佐子とのことは、ずっとまえにすっかり終わってしまっているのに、まだまだ尾を引いているような気がした。
ぼくは、何年ぶりかでショパンを聴いた。
夏の乾いた雲が、夕日にあたって美しく見えるその日のことを、忘れていない。美佐子は、ぼくの専属看護師みたいに、いつもそばにいてくれて、背骨を手術したぼくのめんどうをみてくれていた。札幌の厚生年金会館でもようされる「ショパンの夕べ」というのを、美佐子を誘って聴きにいったことがあった。ぼくは39歳だった。
39歳というのは、中途半端な年齢だ。ショパンはぼくとおなじ39歳でこの世を去った。いや、4月の誕生日をすぎていたから、ぼくはもう40歳になっていた。40歳の目で、フォトジェニックな札幌の夏の夕日をながめ、40歳の耳でぼくは、めくるめく情熱の音を託したというショパンの「ピアノ協奏曲第1番」を聴いたのだった。
ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」は、1830年10月11日、故国ポーランドでおこなわれた彼の告別演奏会で、ショパンみずからピアノを独奏して初演されたものだ。ショパンもまた、女性に恋をしているときで、その思いは第2楽章のロマンツェを、悲しいまでに美しく彩っているとぼくは思った。第3楽章はひとつの主題がなんどもくりかえし姿をあらわすクライマックスのシーンとなり、そのあいだにも別の曲趣が挟みこまれるというロンド形式なのだ。
この曲を聴くたびに、ぼくは美佐子のことを思い出す。
そしてぼくは、ピアノ演奏の天才たちを思い出す。
ラフマニノフやジョセフ・ホフマン、アルチュ―ル・シュナーベル、ウラディミール・ホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン、ハンス・フォン・ビューローといった天才たちだ。気後れするほどの顔ぶれだ。ショパンは彼らの演奏によって、ポーランドのピアノの詩人といわれたその曲趣のすばらしさが世界じゅうにひろがり、やがてぼくの耳にも聞こえてきた。
その夜は爽やかな風が吹いて、昼間の炎暑を消し去ってくれる夜となった。
ぼくは演奏会が終わってから、美佐子と真駒内にあるアイスアリーナのちかくの喫茶店に入った。
「いい演奏会だったわ」と、美佐子は満足したようにいっていたのを思い出す。
「ショパンはいいよね。……ピアノ曲がいいなと思えるのは、やっぱりショパンだね」とぼくがいうと、彼女は「わたしはピアノ曲はあまり聴かなかったので、とても感動しました」といった。
美佐子は、ストレートのコーヒーを飲んでから、「ショパンは、ポーランドの人だったんですか。それは知りませんでした」といった。
「ポーランドといえば、忘れられない音楽家がもうひとりいるんです。だれだか、わかります?」と、ぼくはすこし意地わるくきいた。
「ええと、だれでしょうか。考えてもわかりません」と、美佐子はいった。
「パデレフスキーというピアニストなんだけれど、きいたことある?」
これも意地わるく聞こえたかもしれない。
「いいえ、……はじめてです」
ぼくは2杯目のコーヒーをすこし啜(すす)ってから、ひさしぶりにヤン・パデレフスキーの話をしたっけ。
「一国の首相でピアノの名手といえば、シュミット元西ドイツ首相の名前が浮かんでくるけど、ピアニストが首相にもなったという例は、聞いたことないでしょう? イグナッツ・ヤン・パデレフスキー。彼は、独立ポーランドの首相になったんですよ」といった。
「パデレフスキー? しりません」と彼女はいいながら、その舌がもつれそうな名前を、紙ナプキンのうえにボールペンでメモしていた。
「ところが彼は22歳でピアノのレッスンをはじめたという、恐ろしく遅咲きのピアニストだったんですよ。はじめはパッとしなかったらしいけれどね、彼の顔を見たらわかりますが、それは、女性うけする格好いい、精悍(せいかん)な顔だちでね、おまけにカリスマ性があってね、あのふしぎな神々しい磁力は、新しいピアニズムの出現になったらしいですよ」
「そうなんですか、……」
「彼がピアノベンチに座るところから、すでに演奏がはじまっているかのように聴衆は息をのんで注目します。――ただ残念ながら、ぼくは彼のピアノを聴いたことがないんですよ」
人にバカにされるくらいの遅咲きのピアニストが、一国の首相にもなるほど、栄光につつまれたスーパースターになったというのは、ぼくの関心をつよく引き寄せた。
「田中さんのお話をきくと、いつもそんな話をしてくれるので、嬉しいわ。それに、楽しいし、……」と、美佐子はいった。
ピアニストで教養人だったというところが、ぼくを喜ばしたのかもしれない。20世紀を代表するピアニストといえば、ホロヴィッツかルービンシュタインということになるらしいけれど、ホロヴィッツのほうはまるで無教養といっていいくらい、ぞんざいなことばづかいで、ぼくはあきれ果てた。あのホロヴィッツなのかと耳を疑いたくなるほどひどい話を聴いたものだった。
「田中さんは、そんなに詳しくって、何か書いていらっしたんですか?」
「いいえ、何も。……むかしですが、ぼくはレコードを紹介する記事をファッション雑誌にちょっと書いていたことがあるけど、……」
「別の人から聞いたんですが、田中さん、むかしファッションのお仕事をされていたってうかがいました。どんなお仕事だったんですか?」別の方というのは、札幌北一条教会の「シェイクスピア研究会」で知り合った私立大学の助教授だ。彼の専門はアメリカ文学だった。
彼はプリンストン大学へ2年間留学している。
ぼくも若いころは、プリンストン大学への留学を夢見たことがあったので、なんとなく親しみをおぼえていた。
「最初は翻訳ですよ。フランス語の記事文です。ファッション・デザイナーとか、ファッション評論家というのは、英語は多少わかっても、フランス語はわからないという人が多かったですからね、……」それで原稿50枚くらい訳して、ぼくは毎月3万5000円の小切手を受け取っていた。給料がわずか2万円くらいのころだった。
ぼくは、大学ではヨーロッパの比較文学を専攻していた。中世フランス語が専門の斎藤磯雄教授についてみっちり勉強したかったが、大学院へは父親の反対で進学できなかった。そのかわり単独でアメリカ留学を考えたけれど、これもべつの理由で挫折してしまった。
「フランス語ですか。……助教授の、その鎌田先生も、フランス語をやったといっていました」
「ほう。ぼくは、ファッションだけでなく、リビングデザインセンターという会社で、その名のとおり、住まいのプランニングやインテリアの本や記事を書いたりしていましたよ。共著をふくめると、60冊くらいだしました。新聞や週刊誌の記事原稿も書いたけれど、……自分の、……」
「自分の、……なんですか?」
「ぼくの書きたい本は、書けなかったんです」
「そうなの。……。奥さんとは、どこで巡り会ったんですか?」
「巡り会ったわけじゃありません。じつは、父親同士が戦友だったので、中国の戦場でかたく約束したんだそうですよ。自分たちが無事に生還できたら、おまえのところの息子とおれのところの娘を結婚させて、親戚づき合いをしようじゃないか、という約束だったそうですよ」
……
「ぼくは、子どものころから、培本社というところのТ家から嫁をもらうんだと教えられていました。――で、ぼくが留学するらしいと知ると、親があわてて見合い写真のようなものを3枚も東京に送ってきたんですよ。3枚ともТ家の娘たちで、それで、『この写真のなかから、選べ』と書いてあるんですよ。ぼくは結婚というのは、そんなものかと思って、それじゃといって、真ん中の娘を選んでしまった。それがいまの女房ですよ。いま事故にあって、入院中ですがね。……写真見合いというのがむかしあったそうですが、それですね」といって、ぼくはくくくっと笑った。
「それって、ほんとうの話なんですか? 奥さんが気の毒です。奥さんは田中さんのこと、どう思ってたんですか?」
「それは、わかりません。……まあ、結婚式を挙げるまえの日、札幌で打ち合わせるときに、はじめて口をきいたっていうわけですから。結婚式にあらわれたんですから、承知したってことですね」
「それまで、デートなんかもしなかったんですか?」
「しません」美佐子はため息をついて、コーヒーを飲んだ。
「会ったことはあるんでしょう?」
「たまに見かけたことがある程度でしたね。口なんかききませんでした」
♪
ユキ子が交通事故に遭って、いま札幌で入院していることは美佐子は知っている。ぼくはユキ子といっしょになったころの、東京の暑い夏の日のことを思い出していた。そして、あのころ、すこしまえまでつき合っていた別の女の子のことを思い出した。
いくらつき合っても、その子とは結婚できないとぼくは思いこんでいた。
親が決めた人がいなかで待っている以上は、ほかの女性と結婚できないと固く信じこんでいたんだ。
その女の子は、ユキ子より2つ若く20歳だった。
学生時代に銀座で新聞配達のアルバイトをしていたときに知り合った、先輩の妹さんだった。名前を良子といった。彼女は当時、三軒茶屋の小さな会社で経理の仕事をやっていた。
日曜日になると、母親のいる銀座の新聞店の寮にぶらりとあらわれて、しばらく遊んでから、帰っていった。母親はそこで寮のまかないおばさんをしていた。
そのうちに、ぼくは生まれてはじめて女性とデートした。申しこんだ相手の女性が良子だった。
おれたちは日比谷で映画をみて、それから夜の日比谷公園を散歩しただけだった。食事もしなかったな。――そのときの嬉しそうにしていた良子の顔が思い浮かんでくる。
大学を卒業したその夏にぼくは結婚したのだけれど、それまで東京でつき合っていた良子は、健康で明るく、映画と音楽の趣味が合っていたので、毎週のように、コンサートを聴きにでかけた。文化放送の東急ゴールデン・コンサートというラジオ番組の収録をかねた音楽会だった。はがきで申しこめばタダで聴けた。演奏は渡辺暁雄指揮の日本フィルハーモニーだった。――この話は、美佐子にはいわなかった。
「ですから、ぼくたちは結婚してからも、借りてきたネコみたいに、ままごとみたいな、おかしな感じでしたよ」と、ぼくはいいながら、じつは別のことを思い出していた。
「つき合ったことがなくて、いきなり結婚生活って想像できないわ。奥さんのこと、なんて呼んでたんですか?」と、美佐子は興味ぶかげにきいた。
「どうだったかな。――それよりもおもしろいことを、いま思い出した」と、ぼくはいった。
「きかせてください」
――おまえが、これから新妻との夜をうまくやれるように、おれがひとつ知恵を貸してやろうじゃないか。そういってくれた、クソ真面目な先輩の話を思い出し、それを美佐子に話したのだ。中央大学の法科4年、六法全書みたいな、頭のがちがちな男だったが、彼のアイデアを試してみたらけっこう愉快だった。
「こけし」をつかう話だった。
夫婦(めおと)こけしを買ってきて、それをタンスのうえにでもおいて、ふたつのこけしが向き合ったら、今晩やるぞというサインにしておけば、余計な苦労をしなくてすむという彼のアイデアだった。ぼくは実際にやってみた。ユキ子は最初は神妙にきいてくれた。結婚したばかりのころは、うまくいったが、ある夜失敗した。
ぼくは残業で毎晩遅く、くたくたになるまで仕事をしていたから、今夜は飯を食ってぐっすり眠りたいと思っていた。だれだってそういう気分のときもあるだろうし、はじめから気分の乗らないこともあるだろう。
ところが、女房は布団のなかでもそもそと、なにやらようすがおかしいのだ。彼女の手が伸びてきたのだ。何気なく夫婦こけしのほうを見ると、向き合ったままになっているじゃないか。ぼくは朝、戻すのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
そんなわけで、こけしはそれ以来、ばかばかしくてお払い箱にした。
そんな話を美佐子にした。
「はははっ、それって、とてもおかしいわね!」といって彼女は笑った。
夏の日の思い出は、いつしか夏とともに消えていった。もうふたたび思い出すこともないだろう、と考えた。
♪
ぼくは運転しながら、ふたたび別のことを思い出した。
ぼくは、新聞店のアルバイトを辞めて、勉強に専念できる自室をもちたいと良子にもらしたことがあった。すると、一週間ぐらいたって、目黒の武蔵小山にこんなのがあるといって、間貸しの情報をひとつもってきた。
よかったら、いっしょにいってみない? といった。
目黒から目蒲線に乗りかえて、ふたつ目の駅・武蔵小山で下車。そこから徒歩で12、3分くらい歩いたところにある商店街の真ん中にある2階の部屋だった。
家主は年老いた喘息もちで、外務省の官吏をやっていたという亭主と死に別れているらしかった。外務省の官吏をしていた夫が建てたという家のつくりはりっぱで、廊下や階段もひろびろとしていて、気持ちのいい間取りだった。
ただ、とってつけたようなキッチンが1階の共同使用になっていて、トイレはあるけれど、浴室がなかった。ただ、はす向かいに大きな銭湯があった。2階の部屋の真下は八百屋で、その隣りが肉屋だった。
通りに面したひろい間口を、そのふたつの店で分け合っていた。
来年になれば弟の孝志が大学進学を目指して上京してくるので、たぶんいっしょに住むことになるだろうと、ぼくはぼんやりと考えていた。ひろさは8畳ひと間だったが、じゅうぶんだと思った。
「どうですか? ここに決める、それともあきらめる?」と、良子がきいた。月8000円の家賃だった。
「ちょっと高そうね」と彼女はいったが、ぼくは決めた。
それ以来、良子は銀座の寮にはほとんど行かず、日曜日になると武蔵小山のぼくの部屋にやってきた。そのうちに、良子は、つくろいものができるよう裁縫箱や小さな救急箱なども用意してくれた。
それで、ときどき取れたボタンをつけ替えてくれたりした。ときには買い物にいっしょに出かけたりした。彼女の手提げカゴをぶらさげて、まるで夫婦みたいにして歩いた。
といっても、良子との関係はなにもなかった。それが良子には不満だったのだろう。
良子は、ときどき置き手紙をして夜帰っていった。それには理解に困るような、きわどい話が書かれていた。「ひたすら、あなたを辛抱づよく待っています」とか書いてあって、ぼくを困らせた。