ぼくのラボー橋

若かりし頃のアーネスト・ヘミングウェイ

 

「パリでは週に1日、ミラボー橋の向こう側の老人病研究所に通っていました。ミラボー橋を歩いて渡りました。あのあたりはセーヌの流れが急になります。パッシーのあたりで、近くにバルザックの家がありました。バルザックが、借金取りがくると裏口から逃げたという坂の下のrue Berton はパリの中でも一番パリらしい小道です。懐かしいなー」

このように書かれるいつかの神山幹夫先生(コロンビア大学元教授)のメール、再度読ませていただきました。

今朝はひさしぶりに、アポリネールの「ミラボー橋の下」を想い出しました。

先生、お変わりありませんか?

ミラボー橋、ぼくも若いころに見ました。先生にとって懐かしいミラボー橋は、ぼくにとっても懐かしい風景です。

1921年12月21日、この日ヘミングウェイは新妻と手を取り合って、パリの地を踏みます。

ヘミングウェイにとっては二度目のパリでしたが、彼はなんとかして世界の首都パリにふたたびやってきたいとおもっていました。それが実現した年でした。

パリで文学修業をし、作家になるための強い意欲を抱いていたころです。

アーネスト・ヘミングウェイと、その妻ハドリーは、まずセーヌ左岸の、ジャコブ通りの「ホテル・ジャコブ」に投宿し、それから数日後の小雪の降るクリスマス聖夜を迎えた日、オペラ通りのほうにぶらりと歩きだし、有名な「カフェ・ド・ラ・ペ」に入ってランチをとります。

これからのことをいろいろ話し合い、どこに住もうか、夢多い近未来についてハドリーといろいろ語り合います。この日のことは、ヘミングウェイにとって、いつまでも記憶にとどめることになる一日となります。

食後コーヒーを飲んで、さて支払う段になると、ふたりの顔から血の気が引きます。所持金が足りないことに気づいたからです。

「どうしよう!」

ふたりは顔を見合わせます。

けっきょくヘミングウェイは、どうやってこのピンチを切り抜けたのかは、高見浩氏の「ヘミングウェイの源流を求めて」(飛鳥新社、2002年)という本のなかに書かれています。

「アーネストはわたしを人質に店に残して、大急ぎでホテルにお金を取りにもどったのよ。それからまた、全速力で店にもどってきて、やっとのことで支払いをすませたんです」と、ある伝記作家の文章を紹介しています。

ヘミングウェイ22歳、ハドリーは8歳年上の30歳でした。

いまでいえば、京都・嵯峨野路の吉兆本店でランチを食べたみたいなものでしょう。ぼくもその店でランチを摂ったことがありますが、ふたりで4万円ほどしました。作家修行者には、おいそれと気軽に行ける店ではありません。高見浩氏は、ヘミングウェイの取って返したホテルまでの道筋をちゃんと書いています。

「オペラ通りをパレ・ロアイアルのほうにまっしぐらに駆け下り、ルーヴル宮の中庭を横断して、カルーゼル橋を渡ったのだろう。そこからサン・ペレ通りに入ってジャコブ通りに左折すれば、ホテルはすぐ左側である」と書かれています。

ヘミングウェイはこの失態を苦笑して、なんていうドジなことをしたのだ! とおもったに違いありません。しかしそれで怯むヘミングウェイではない。

ぼくは、草加の「カフェ・ド・ラ・ペ」でコーヒーを飲みながら、そんなヘミングウェイのことをちらっと想い出しました。しかし、ヘミングウェイにとって、それから足かけ7年間をこのパリで過ごすことになります。

ヘミングウェイが最初にとった「ホテル・ジャコブ」は、いまは名前を替え、「ホテル・アングルテール」という名で当時とおなじ場所で営業しているそうですね。とくに若きヘミングウェイ夫妻がとった「14号室」は人気が高く、後世、この部屋がこうも人気のある部屋になろうとは、ヘミングウェイは予想もしなかったに違いありません。

それはそれとして、ぼくはヘミングウェイの小説を理解するために、彼のパリ時代は、いったいどういうものだったのかに興味を抱いています。

やがてヘミングウェイ夫妻は、モンパルナス大通りの裏通りにあるノートルダム・デ・シャン通り113番地、――そこにある製材所の2階を棲家とします。

どうして製材所の2階なんかに決めたのだろうとおもいます。

製材所はいうまでもなく、材木を切り出すのが商売の工場です。巨大なのこぎりで材木を製材するのですから、うるさくて、創作なんかに神経を集中することが果たしてできたのだろうか、とおもってしまいます。

すでに、生まれて間もない愛児がいて、作家を志してパリにやってきて3年目を迎えたころのことです。ヘミングウェイは生活費を稼ぐためにやっていた「トロント・スター」の通信員の仕事も辞め、貧困に耐えながら、創作一本にしぼって懸命に小説を書きついでいました。

それがはじめての短編集、記念すべき「われらの時代」です。

まだ作品を発表していないので、ヘミングウェイの書いている小説は、海のものとも山のものともわからず、ガートルード・スタイン女史のいうことをきいて、うるさい製材所の2階を出ると、モンパルナス大通りとサン・ミシェル大通りの角にあるカフェ、「クロズリー・デ・リラ」に出向きます。

そこがいちばんのお気に入りのカフェだったようです。そうしてヘミングウェイは、「青い表紙」のノートを取り出し、小説の構想を気がすむまで練ります。それは取材ノートです。

彼は原稿用紙というものを使わなかったようです。いつもノートに書いていました。24歳のヘミングウェイは、「雨のなかの猫」、「白い象のような山並み」を書いていました。22歳のときに書いた「北ミシガンで」は、まだ発表されていませんでしたが、このとき、ヘミングウェイはセックスの初体験で揺らぐ若い女の心理を、生々しく描き、ヘミングウェイの全70作品の短編のなかでも、異色作と目されるようになります。

後年、ヘミングウェイという、マッチョ的な男性像を想像させる、つくられたイメージとは別に、ナイーブな、ミステリアスな女性の心理を描いたものが、意外にも多いことがわかります。70作にのぼる全短編のなかでも、ユニークな短編の多くは、すでに若いヘミングウェイの手によって描かれていたわけです。

ぼくは、そこに注目しています。そして、やがてハドリーと別れることになります。

なぜなら、雑誌「ヴォーグ」のレポーターをしていた魅力的な女性があらわれたからです。25歳のヘミングウェイにはどうすることもできませんでした。妻と愛人の三角関係に悩んだすえに、けっきょくこの新しい女性ポーリーンと再婚することを決意します。

こうした経験を踏まえて、ヘミングウェイは、女性の心理を自分の小説のなかに存分に描きました。一見してヘミングウェイの描く女性は、みんな男につき従う自主性のない女のように見えますが、けっしてそうではありません。「パパ・ヘミングウェイ」というつくられたイメージからは想像もできないヘミングウェイ像があらわれます。それが彼の短編のいいところだとぼくは考えています。

さっき、コーヒーを飲みながら、そんなパリのことを思い出していました。

 

同性愛者マリー・ローランサンの場合。――

 

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

 われらの恋が流れる

 わたしは思い出す

 悩みのあとには楽しみが来ると

 

 日も暮れよ、鐘も鳴れ

 月日は流れ、わたしは残る

 

 手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう

 かうしていると 

 われ等の腕の橋の下を

 疲れたまなざしの無窮の時が流れる

 

 日も暮れよ、鐘も鳴れ

 月日は流れ、わたしは残る

 (アポリネール「ミラボー橋Parole de Le Pont Mirabeau」、堀口大學訳

 

パリの北部の丘陵地帯にあるモンマルトルの丘は、芸術のメッカ。

20世紀がはじまると、ここが近代美術の発祥の地になり、ロートレックのポスターでおなじみのキャバレー「ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)」があり、若くて貧しい芸術家たちが住む「洗濯船」というあだ名がついたボロのアパルトマンが犇きます。

詩人アポリネールもそのひとり。

謎のようなことばをささやかれた数日後、アポリネールはピカソの個展を観るために画廊と出かけ、そこで若い女性を紹介されます。ほっそりとした娘、おもながで、少しさびしげな顔立ちをしている女。

彼女は母ひとり子ひとりで暮らしていたそうです。マリーの母親は、貧しい鍛冶屋の娘でした。18歳のとき、パリに出て妻子ある官吏とつき合い、マリーを産みます。1883年10月31日が彼女の誕生日。――調べてみると、この日は水曜日でした。

ときどき別れた父親が訪ねてきたようですが、いくばくかの援助をしていたようです。

マリーにとって母親は絶対的な存在で、マリーの父親のことをのぞけば、母には浮いた話もなく、私生児として産んでしまった娘には、できるかぎりの教育を受けさせ、マリーは読書や刺繍などに明け暮れして、地味に生きていく。マリーが大きくなると、デッサン学校に入学し、マリーの絵は独特の感性をもっていたようです。

当時、「野獣派(フォーヴィズム)」といえば、自由奔放なタッチで、激しい色彩で描かれたものですが、マリーの絵は、ちょっと優雅で、おっとりしたタッチで、荒らあらしい絵のなかで、マリーの絵だけが逆に際立って見えました。24歳のときにはじめて「自由出品コンペ」に自作を出します。

ピカソの個展でアポリネールと出会ったのも、このときでした。27歳のアポリネールはマリーを愛し、どこへでも彼女を連れて行く。マリーもどんどん顔が広くなり、彼はマリーの絵をことあるごとに褒めそやし、積極的に女流画家マリー・ローランサンを世に喧伝します。

 

 僕の蒸留器よ、貴女の目は僕のアルコール

 そして貴女の声はさながらブランデーのごとく僕を酔わせます

 巨大なカラーをつけ酔い痴しれた星々が、その輝きで

 貴女のエスプリを燃やしていた 僕の満たされぬ夜の上で

 (アポリネール、工藤庸子訳

 

1913年、マリーとアポリネールは正式に別れます。

この年、彼女は母ポーリーヌを失います。恋を失う以上につらい出来事になりました。マリーは耐えられず、彼女は2歳年上のオットー・フォン・ヴェッチェンという画家と電撃的に結婚します。

オットーは画家としては大したことはなく、気まぐれで、さらに大酒飲み。彼の家柄は男爵で、芸術を愛する優雅な一族を持っていました。

ところが、第1次世界大戦が勃発し、ドイツとフランスはとつぜん敵対関係に陥ります。ふたりはよく考えたうえで、中立国のスペインへ亡命しました。そこでもオットーの興味は酒と女。ふたりの間から、愛はまたたく間に消えていきます。

マリーが「鎮静剤」という詩で、死よりももっと恐ろしい孤独を詠ったのは、そのころとおもわれます。

ある日、パリで親友だったニコル・グルーがスペインへとやってきます。当時、フランスでファッション界の帝王といわれた服飾デザイナーのポール・ポアレの妹です。ニコルの夫は、いまは戦場に出ていました。

愛に飢えきっていたマリーは、全身でニコルを求め、女同士のやさしい愛撫は、やがてベッドのなかで濃厚な性愛へと変わっていったと本には書かれています。――レズビアンは当時、フランスにおいてはめずらしいことではなかったようですね。

「シャネル」の香水で知られるココ・シャネルも、作家のコレットも、女友だちとの親密すぎる関係のストーリーは、枚挙にいとまがないくらいですが、1956年にマリーが亡くなったとき、マリーのそばにいたのは、シュザンヌ・モローという女性で、彼女は若い家政婦としてマリーの家に住み込んでいたそうです。そして愛し合い、31年間をともに過ごしたわけです。

最後にマリーは、彼女を養女に迎えています。

年をとってからのマリーは、アポリネールからむかしもらった手紙や詩を、なんどもなんども読み返していたといいます。

ぼくの想像するミラボー橋は、こんな印象です。