1962年の駿河台に雨が降って――久悠のいた大学

 

         

 

 

60年前の1962年の2月24日は土曜日だった。

26日が大学の入試日にあたり、ぼくは東京・文京区の旅館に逗留して、旅装をとくと、東京の街を歩いた。御茶ノ水駅を降りて、楽器店のならぶ駿河台のとおりをあるき、明治大学の記念館講堂をながめ、試験会場の場所をなんとなく確認した。

ぼくはそのころ、合格すれば、都内のどこに居をかまえるか、まだ考えていなかった。

ただ無性に、修学旅行でいつか見たことのある朝日新聞社のある有楽町かいわいを歩きたかった。ピカデリー劇場でロングラン上映されていた「ウエストサイド・ストーリー」をもういちど見たくなった。

ぼくは入学試験のことなどすっかり忘れて、なんとか有楽町までたどりついた。

駅ホームも街も、人の多さにおどろいた。そして街は、どこも破壊と建設のかまびすしい喧噪の風景ばかりだった。有楽町駅のまえでは、大きなビルが建設中で、そこに「交通会館」という文字が見えた。そのわきを少し右折すると、朝日新聞社のビルが見えた。そして、案の定、「ウエストサイド・ストーリー」の大きな看板が見えた。もう午後の灯がともり、街には夕闇が迫っていた。

入口でチケットを買って、ぼくは映画館に入る。あこがれのレナード・バーンスタインの顔を想いだし、ホールでぶらぶらし、時間がくるのを待った。

 

                  

                   田中幸光、明治大学文学部2年のころ

いまでも、雨の降る銀座を歩くのは嫌いではない。

銀座の教文館を出たら、先日もけっこうな雨が降っていた。外が暗くなり、雨も大降りなってきた。舗道わきの黄色い蛍光色のフェンスが雨にぬれて光っていた。

じめじめした不揃いの雨音が、傘の下の劇場のはじまりを奏でていた。切迫したような音響に気をとられていると、足元がすべる。

ぼくの歩く先ざきを、紫色の傘をさした中年の外国人風の女性が歩いていた。黒っぽいスカートスーツを着込み、透けるような淡いグリーン色のサテンのスカーフをなびかせていた。スカートから伸びた脚はことのほか白く、まっすぐに、活発に伸びている。ハイヒールも黒かった。

彼女は水溜まりを跨いで、すーっと歩いていく。

ぼくはこの女性の歩き方が気に入った。ぼくは彼女の歩く後ろから自然についていった。

そのとき、ある店の前を通り過ぎたとき、音楽が聴こえてきた。あれはベートーヴェンの「交響曲第6番」だなとおもう。とたんにぼくは、ブルーノ・ワルターのことを想いだした。

むかし聴いたブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルの「第6番」である。

しかし、じっさいに流れていた曲はワルター指揮ではなかっただろう。ワルターとか、カラヤンとか、トスカニーニ、フルトヴェングラーといった往年の大指揮者は、ぼくにはいま聴くチャンスがほとんどない。

けれどもぼくの記憶には、依然としてワルター、カラヤン、トスカニーニ、フルトヴェングラーの音楽でいっぱいなのだ。ワルターはともかく、フルトヴェングラーは一時期、ぼくをとりこにした。そして嫌いになり、また好きになった。この人の音楽人生を理解することができなかっからだ。

ヒトラー政権は、ドイツに居残っていたユダヤ人系の音楽家たちを解雇し、トスカニーニの機嫌をとる必要がなくなったとき、その排斥運動はますます激化していった。いくら招聘してもトスカニーニがドイツにやってこないとなれば、ますますフルトヴェングラーを手放すわけにはいかなくなった。そして、フルトヴェングラーは1933年6月、州立歌劇場の主席楽長のポストについた。はじめての常任契約だった。

トスカニーニがバイロイトの話を辞退したとき、世界のメディアはこれをいっせいに伝えた。

彼がバイロイトへ行かないのであれば、ザルツブルク音楽祭に呼ぶべきではないか、オーストリア首相のドルフスはそう考えたらしい。

ドルフスは右翼だったが反ナチスだった。それからはオーストリアでのナチスの活動を禁止した。その対抗処置としてドイツは、観光依存度の高いオーストリアへの出国には1000マルクというビザ発行の手数料をふっかけた。そのためザルツブルク音楽祭は痛手をこうむることになったというのである。

けっきょくトスカニーニは、ザルツブルク音楽祭には間に合わなかった。

リハーサルにだれよりも多くの時間をかけるトスカニーニには、時間がなかったのである。それで、なかにはホッと胸をなでおろした楽員もいただろう。なぜなら、ヘマをすれば、タクトが飛んでくる。それはまだいいほうで、ヘタをすれば灰皿が飛んでくる。そういう楽員はトスカニーニとはいわずに、「トスカノーノ」といった。

彼はそのかわり、ウィーン・フィルで指揮することが決まった。――ぼくはそんなことをつらつら考えながら道を歩いた。黒い衣裳を身にまとった女性は、トスカニーニのことなんか考えてもいないだろう。

だが、彼女の歩くテンポは、1930年代のドイツを席巻した暗雲たれこめるアレグロ・テンポだった。そして、1934年7月、ウィーンの首相官邸に乱入したナチスによって、オーストリアの首相ドルフスは暗殺されたのである。この事態をうけてイタリアのムッソリーニは、オーストリア救援のために軍を派兵させた。

「ドイツによるオーストリア併合は断固として許さない」というのが多くの国際世論であった。

だが、ドイツの独裁はますます先鋭化し、「国家元首にかんする法律」が制定されると、ヒンデンブルク大統領の死後、大統領と首相が一元化され、その政権をアドルフ・ヒトラーひとりに託された。ヒトラーは「大統領」を名乗らなかったが、「指導者兼国家元首」を名乗った。

日本ではこの「指導者(Führer)」のことを「総統」と訳した。ヒトラーはナチスが野党だったときも「総統」と呼ばれた。

そのころ、音楽の世界でも、のんびりしたアンダンテの歩調で歩く気分ではなかったらしい。ザルツブルク音楽祭を指揮したのはブルーノ・ワルターだった。そこでの仕事が終わると、ワルターはさっさとアメリカにわたった。

いっぽうベルリン・フィルでは、日本からやってきた指揮者・近衛英磨が客演指揮をしていた。カラヤンはまだ失業中で、あちこちで面接をしかけている最中だった。

近衛英磨の名はベルリンではよく知られていた。ポーランドでは最も有名にした。

 

 

ブルーノ・ワルター指揮ブラームス「交響曲第2番」。

 

ルービンシュタイン。

1933年7月22日、バイロイト音楽祭はドイツ首相アドルフ・ヒトラー隣席のもと開幕した。

ヒトラーはワーグナーのファンだった。ヒトラーがはじめてワーグナーのオペラを見たのは1906年、ウィーンで画家を志していたときだったといわれている。見たのは、ウィーンの宮廷歌劇場で上演された「トリスタンとイゾルデ」だったという。指揮は、とうじ総監督をしていたグスタフ・マーラー。ユダヤ系のマーラーは、ワーグナーを得意としていた。

このとき以来、ヒトラーはワーグナーに心酔するのである。

そして、ドイツ音楽を盛り上げる総統の考えには、指揮者としてどうあってもフルトヴェングラーが必要になった。ユダヤ人を排斥するヒトラーと、ドイツ音楽の伝統を守ろうとするフルトヴェングラーとのあいだでおもわぬ確執を生み、彼は、あることからヒトラーの逆鱗に触れる。そうでありながら、ヒトラーはフルトヴェングラーにすがるより手がなかったのである。

フルトヴェングラーはフルトヴェングラーで、ヒトラーの思惑とはちがって、ドイツ音楽を根絶やしさせないために、あらゆる手を使っていたが、多くの音楽家は、フルトヴェングラーの誘いに乗らなかった。音楽と政治は無関係だという芸術性のみを訴えたため、彼は空気の読めない男とされた。

いっぽうカラヤンは、その時代の空気を読んでナチス党員になったものの、最後にはベルリン陥落とともに、ベルリン脱出を模索した。

だが、1944年の秋、ミラノのコンサートを口実に、ドイツを脱出するつもりだったが、飛行機の座席は軍部が抑えていて、カラヤン夫妻がそれを入手するのはひじょうに困難となり、1ヶ月たっても脱出のメドはつかなかった。

年が明けた1945年2月、ベルリンはさらなる大規模な空襲をうけていたが、ベルリン州立歌劇場弦楽団のコンサートが開かれ、ウェーバー作曲の「魔弾の射手」その他がカラヤン指揮で上演された。そして4月、クラウス指揮によるウィーン・フィルのコンサートが開かれ、それが戦中最後のコンサートとなった。

そして4月末、サンフランシスコでルービンシュタインはコンサートを開いた。

会場にはポーランドの国旗がないのを確かめると、彼はステージにあがり、ショパンを弾くつもりだったが、「星条旗よ永遠なれ」を弾き、会場の全員が直立不動で聴いた。

そして、ルービンシュタインはいった。

「それでは、ポーランドの国歌を弾きます!」と。

ルービンシュタインにとって、戦争の終結を宣言する音楽になった。4月27日、イタリアでムッソリーニが逮捕され、翌日処刑された。日本では、まだ戦争がつづいていた。

 

      

 

ワルター、カラヤン、トスカニーニ、フルトヴェングラーの時代をつづる「戦争交響楽――音楽家たちの第二次世界大戦」(中川右介、朝日新書、2016年)に見る戦争と音楽家たちの時代は、はたしてどういうものであったか、歴史的な事実とともに、そのなかで繰り広げられるいまわしい音楽家たちの戦いの日々が克明に描かれていることに注目した。

ぼくは、この小さな本のなかから、雨音のように鳴り響く20世紀の苦闘の音楽を聴くのである。

ぼくは、彼らの音楽をあらためて聴きなおしたい気分になった。

ぼくは銀座の道を歩きながら、はじめてワルターの音楽に触れたむかしのことを想いだした。ぼくにとって、ワルターははじめて触れた最初の音楽家だった。いまはもう遠いむかしになってしまったが、その音楽は、蝶々を入れた採集箱のように、いまでも子供の夢を入れたぼくの宝物だったなとおもう。――だから、ぼくは銀座の雨は好きなのだ。

明治大学マンドリンクラブは、1962年当時、明大記念館講堂の地下1階にクラブ室があった。通称「もぐら街道」と呼んでいた。「もぐら街道一丁目一番地」である。

古賀政男さんがやってきて、みんなを指導する。

そこには学生のテキストなどを販売する書籍購買部があり、人の出入りが多く、用もないのにクラブ室のドアから顔を出してわれわれのリハーサル風景を見つめていた。じぶんもそうだった。勧誘されたのは、そのときだった。ぼくはギターを弾いていた。

マンドリンと聴いて、マンドリンも悪くないぞと考えた。入部手続きをすると、御茶ノ水の楽器店にいき、さっそく中古のマンドリンを手に入れた。ああ、あのころが懐かしいなあとおもう。

銀座の寮では練習ができない。

だから夜になって、向かいの京橋小学校の小さな公園で弾いた。

人がやってきていろいろな人たちと知り合いになった。銀座の旗屋のあるじは、いつもそばにいた。そして軍隊の話を聞かされた。戦後まだ17年しかたっていない。

あるじも見た目より若かった。そして彼は、古賀政男のファンだといった。彼の口から、ぎっしり詰まった戦争の記憶がほとばしり出た。

――柳田邦男さんの「言葉の力、生きる力」(新潮文庫)を読んでいたら、おもしろい記事が目に留まった。赤のボールペンで傍線を引っ張っている。詩人の長田弘さんの書かれた詩文集「記憶のつくり方」という本からの引用文だった。

 

記憶は、過去のものでない。それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌となってきたものは、記憶だ。

長田弘「記憶の作り方」より

 

――と書かれている。

いわれてみれば、そのとおりだ。この文章、――この日記は、そういう記憶のあらわれである。詩人は違うなあとおもう。

先日、友人の伴茂夫さんから古賀政男さんのテープを2巻いただいている。

彼はギターを弾き、お父さんはアコーディオンを弾いて、老人クラブに慰問に出かけている。アコーディオンはすばらしい。なにしろ、お父さんは80歳を超えているというけれど、そんなふうには見えない。

古賀政男さんが明治大学の学生だった昭和6年、高橋掬太郎の詩に乗せて、「酒は涙か溜息か」を作曲した。歌うのは、東京芸大声楽科の藤山一郎さんだった。この曲が大ヒットし、「丘を越えて」(昭和6年)、「影を慕いて」(昭和7年)も大ヒットし、古賀メロディが一世を風靡した。

中山晋平の、どくとくの5音短音階を踏襲しながら、マンドリンで2音反復して、小刻みに奏でる「トロロロロロッ……」と弦をふるわすトレモロを入れるなどして、彼は独自の旋律をつくっている。これがあたった。古賀メロディといえば、トレモロである。

古賀政男さんは、明治大学在学中に、マンドリン・クラブをつくり、独学で作曲を学び、当時としてはめずらしくギターで作曲している。「酒は涙か溜息か」のような短い詩形の75調の詩句に、短音階、2分の2拍子という流麗なメロディをつけた。

ちょっと考えられないほどの哀愁をおびた曲になった。

「丘を越えて」は、また変わった字脚(じあし)の長い詩に、明朗な長音階の4分の2拍子という、軽快なメロディをつけている。それは古賀政男さんのどくとくのものになった。これを歌った藤山一郎さんは、この長音階の曲にはぴったりの声の持ち主だった。

文学部といえば、明治大学には作詞家の久悠さんがいたはずである。しかし、お目にかかったことはない。

当時、日本では、映画館は男女別々の席になっていた。笑ってしまうが、当時はそうだったらしい。警視庁公安部は、この年はじめて、男女同席をゆるす方針を発表し、自由恋愛が叫ばれている時代に、それはおかしいとして、許可することに踏み切ったという記事がある。

そのかわり、館内の照明はできるだけ明るくし、野暮な取締りをおこなっていたというから、お国のやることは、いちいちおもしろい。

ぼくは、約1年間ほど、明大マンドリンクラブに所属していた。

古賀政男先生とは、一時期、毎週にように顔を合わして練習はしていたけれど、アルバイトの都合で、演奏旅行ができなかった。そのころのじぶんは、イタリアオペラに凝っていた。凝っていたとはいえ、ただひとりでレコードをまわして聴くだけである。

そもそもじぶんが、明治大学文学部を希望した理由は、ジョルダーノのオペラ「アンドレア・シェニエ」(全4幕)に出てくる吟遊詩人シェニエの詩をじっさいに勉強するためだった。

シェニエはフランス革命時代に、パリで活躍している。

フランス語で歌われたので、フランス文学に組みされている。

とうじ、フランソワ・ヴィヨンみたいに、即興的に吟じられた吟遊詩人だった。詩興は情熱的な詩が多く、そこに共感した高校生のじぶんは、もっと読んでみたいと考えた。「アンドレア・シェニエ」は、主役男声歌手の音楽的比重がとても高く、「プリモ・ウォーモ・オペラ」として知られている。

――となれば、仏文の斎藤磯雄教授とか、斎藤正直教授のおられる明治大学に入りたいと強く願った。また、詩人でもあり仏文学者の佐藤正彰教授もおられたけれど、すでにお年で、ご尊顔を拝したていどで終わった。

入学してみれば、東大からこられた鈴木力衛教授がおられた。以上の教授の本は、北海道のいなかにいて、すでに読んで知っていた。

当時、角川文庫にあった「フランス文学史」(全3巻)は、高校時代に読み終えていた。高校時代に、フランス語を勉強していた。ほとんど独学だったけれど、リンガフォンというありがたい教材があった。

舞台では、詩人シェニエ役にはマリオ・デル・モナコが、そして、伯爵令嬢のマッダレーナ役には、レナータ・ティバルディが扮した。その歌声はすばらしかった。発音もすばらしいけれど、じぶんにはイタリア語は分からない。

昭和37年、じぶんは当時、銀座に住んでいて、アルバイトをしていたので、時間的に自由にならず、マンドリンの演奏旅行にはほとんど出られなかった。とうじは、ぼくは仏文科だったが、英文科の学生たちとつき合っていた。

文学部といえば、くははやがて、登山部(縦走のみの部門)に入部し、山歩きをした。

「駿河台派」という同人誌にもくわわり、作家・舟橋聖一さんの指導を受けた。しかし作品らしいものをちょっと書いたに過ぎない。

当時、大学院の学生だった倉橋由美子さんが小説「パルタイ」で登場。平野謙教授の推薦で世に出た。

学生時代は、古賀政男さんがそんなにえらい人とは思っていなかった。亡くなられて、その存在の大きさに気づかされた。明治大学記念館講堂の道路を挟んだ真ん前にある主婦の友社の編集部でアルバイトをしていた。講義がはじまる寸前に仕事場を抜け出して教室に行く。

《安全に人もクルマも渡り合い主婦の友ビル建築工事》という看板があった。「建築工事」を「新築工事」に赤字で訂正されていた。――なぜ、そんなことを想い出すのだろうとおもう。