■「在りし日の歌」2 ――

子と出会って、中原中也の魂がつぶやいた

 中原中也。

 

それから何日かして、ある晴れた日の午後、ふたりは中野の小林の部屋に行く。

小林は上機嫌で、芝居の話をする。中原中也は芝居は大嫌いで、いちども芝居の話をしなかったので、泰子は小林の話にうっとりして聴いた。

小林は、泰子に「こんど芝居を観にいこうか」といった。泰子はきゅうに嬉しくなり、

「ええ!」と、声も弾んでしまった。

その計画はじきに実現し、小林といっしょに日本橋の三越でやっていたチェーホフの「桜の苑」という芝居を観に行った。

劇場のなかは、お座敷になっていて、小林は泰子に寄り添いながら、あぐらをかいて舞台を観ている。そのうちに、小林の手が伸びてきて、泰子の手をにぎりはじめ、ときどき何かの合図のように、ぎゅっと強く握ってくる。

泰子は、身を硬くしながら、小林のやることをゆるしていた。この人は、「もしかしたら、わたしのこと、好きと違うか」と思う。好きなら好きと、男らしくいったらどうなの、と思って待っていると、芝居が終わり、劇場を出ていくとき、彼は「ぼくの部屋にいってみるかい?」と誘った。

泰子はもうじれったそうにして、「行ってみたい!」とおもった。

「ほんとうに、行ってしまっていいの?」と心につぶやく。

だが、落合の狭い部屋では中原中也がひとり待っている。いや、あれは待っているのではない。ただ、いるだけだと思いなおし、小林のあとについて行き、いつの間にか小林の部屋の玄関先までやってきた。

そこで待っていたのは、猛烈な接吻の嵐だった。それだけでは済まず、肉体までいきなり奪われてしまった。

ところが、その性交は泰子にとって思いのほか、すばらしかったので、

「人にはいえない、思い出となりました」とのちに聞き書きの本に綴った。

「ほんとうに、素敵でしたから」とインタビュアーに語っている。

それからは、こんどは小林秀雄との同棲がはじまったのだった。

からだの関係ができて同棲するのは、泰子にははじめてだった。いままでは子供が相手だったが、こんどは大人の男が相手になる、そう泰子はおもう。それに、小林の話はおもしろく、映画の話とか、アントン・チェーホフの舞台劇とか、浄瑠璃とか、歌舞伎のおもしろい話などをしてくれて、泰子は小林とはもう離れられなくなった。

中原中也は、早稲田大学への入学は、中学4年修了証書がないため、受験手続きができなかった。また、日本大学の入学試験場に30分も遅れて行ったため入れてもらえず、結局、どこにも入学できなかった。

ある日、小林秀雄の部屋に中原中也がやってくる。そして、またやってくる。週に何回もやってくる。気がつくと、妙なぐあいに三角関係ができていた。

散歩のおりに、中原中也が甘えたように泰子のほうに寄り添ってきて、キスをねだる。キスをしてくれという。

泰子は、小さな中野公園の隅っこの芝生の上に寝転び、彼を久しぶりに受け入れてやる。

彼はもう中学を卒業し、顎には髭も生え、いっぱしのダダイストの存在になっていた。山口にいたころの中原中也とは大違いだった。

横光利一みたいな新感覚派気取りの帽子をかぶり、手には大学ノートを持ち、いつでも詩が書けるようにいつもそれを持ち歩いていた。

とうぜん、キスだけで終わる話じゃなく、昼間の公園の木陰で、いつの間にか性交してしまう。

泰子は妊娠を恐れて中出しを拒んだ。

彼はしかたなく、泰子の腹の上に出した。泰子はやさしく中原中也のものを拭いてやった。

彼女は、満足する間もなく、果ててしまったことを恨みに思うことはなかった。彼が年下だったこともあって、母性が反応してしまったらしい。中原中也には、いつもやさしく接した。

小林とのセックスは、中原中也とはまったく違い、泰子は小林と出会って、女の幸せを感じた。

長谷川泰子は、生涯を通じて、小林秀雄との生活が唯一幸せだったと、のちに自伝に書き記している。それくらい性の快楽を堪能したようだった。

――中原中也は、大人になっても子供のような気持ちを捨てなかった。泰子のまえでは、甘えん坊だった。彼は泰子と出会って、いい詩が書けた。

泰子が実業家の男と結婚したとき、中原中也は別の女と同棲し、文也という男の子が生まれたが、その子がじきに亡くなり、それを人づてに聞いて、泰子は可哀想に思った。

自分のいまある幸せは、中原中也のお陰であると思っていたから、彼の子供の死は、泰子にとっても口悔しい出来事となった。

いっぽう小林秀雄のほうはどうだったか、といえば、――長谷川泰子との生活は、やがて険悪な悪縁の形相があらわれてくる。

小林秀雄は一高(いちこう)時代に「一つの脳髄」や、「飴」といった短編小説を書いていたが、一高(現在の日比谷高校)を卒業して、東京帝国大学文学部フランス文学科に入学して間もなく、悪戦苦闘の青春の終わりを告げる事件が起きた。

大正14年4月、富永太郎の紹介で京都から上京してきた中原中也と長谷川泰子と会うことになった。のちに小林秀雄は中原中也たちとの出会いをめぐって、こんなふうに言っている。「この魅力と嫌悪の入り交ざった」出会いを振り返って、

「私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ」と書いているのである。

ならば、長谷川泰子のほうはどうだったのか? といえば、中原以上の悪縁だったかもしれないとおもわせる。泰子は1904年(明治37年)に広島で生まれている。日露戦争勃発の年である。小林秀雄より2歳年下の女性だった。

 

 

 

昭和3年3月、小林秀雄は東京帝国大学を卒業。

その2カ月後、とつぜん長谷川泰子との同棲生活を解消する。そのいきさつについては詳しく泰子の口述筆記した文章が現在残っている。

いろいろあって、小林に「出ていけ!」と、泰子が叫ぶ。

すると小林は何もいわず、下駄の音を響かせて、夜中の2時にそのまま家を出ていったのだ。小林秀雄との関係は、この先、未来永劫何もない。悪縁を断ち切った小林秀雄のほうが目覚めたのだ。

 

 ホラホラ、これが僕の骨だ、

 生きてゐた時の苦労にみちた

 あのけがらはしい肉を破って、

 しらじらと雨に洗はれ、

 ヌックと出た、骨の尖さき。

 (中原中也「骨」より)

 

やがて泰子は、実業家の男と結婚した。

泰子は、夫とのあいだには子ができず、彼女は、先妻とのあいだにできた春樹とともに、中垣家を守った。

そうこうするうちに、しばらく音信が途絶えていた中原中也が、横浜の病院に担ぎ込まれたという情報が入った。大慌てで病院に駆けつけてみると、もう彼の意識はなく、ベッドの上でだらりと腕を垂らして昏睡状態になっていた。

翌日、中原中也は亡くなる。

結核性脳膜炎だった。

亡くなって、中垣といっしょに葬儀に出た泰子は、錚々たる会葬者に出会う。みんなかつての文学仲間である。出棺のとき、泰子は大声をあげて泣き崩れた。――かつての詩人の《愛人》だった女として見られることに、泰子はまるで抵抗を感じなかった。中原中也の《愛人》と呼ばれることに誇りを感じていた。泰子の人生のなかで、この人の占める大きさを思うと、泣けてきた。

 

 せめて死の時には、

 あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでせうか。

    その時は白粉(おしろい)をつけてゐてはいや、

    その時は白粉をつけてゐてはいや。

 ただ静かにその胸を披いて、

 私の眼に輻射してゐて下さい。

    何にも考へてくれてはいや、

 たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

 ただはららかにはららかに涙を含み、

 あたたかく息づいてゐて下さい。

 ――もしも涙がながれてきたら、

 (中原中也「盲目の秋」より)

 

 

 佐渡に向かう日 

 

 

中原中也の告別式が終わって、鎌倉の駅前の牛丼屋で、小林秀雄と幾人かの仲間たちといっしょにお酒を酌み交わした。

終わってみれば、中原中也のいうように、「しらじらと雨に洗はれ」た気分で、みんなゆるせるような気持ちがしてきた。目の前にいる小林秀雄も、元気をなくしたような青い顔をしている。

「おまえが死んだら、ここにいる連中ぐらいは葬式に集まるだろうよ」と、そばにいた青山二郎がいう。

「中原の葬儀に出た連中じゃないよ。ここにいるわれわれだけだよ」といいなおす。泰子はきゅうに嬉しくなって、小林のそばにいき、お酌をした。小林は無言で受ける。小林秀雄は、稀代の批評家であるが、この中原中也のことについては、ほとんど何も書いていない。長谷川泰子についてもまったく書いていない。

小林は葬儀の席上で、中原中也の書いた詩「在りし日の歌」を朗読した。これは中原中也が死ぬ前に、小林に託した詩の原稿で、まるで遺言みたいな詩だった。

中原が死んで、雑誌「文學界」で追悼号を出そうということになり、泰子は、「酵母の詩」という詩を載せた。そして、泰子の主人の肝入りで、「中原中也賞」というのを創設する。

だが、中垣の事業がうまくいかなくなり、「中原中也賞」は3回ほどつづいて挫折した。そして、昭和20年8月15日を迎え、終戦。翌年の2月、新円切り替えで、預けてあった銀行預金はすべて封鎖され、いっぺんに貧乏のどん底に落とされる。

その年の5月から、新日本国憲法が施行となり、極東裁判にA級戦犯28人が出廷。「米よこせ」のデモ行進がつづくなど、世情がきゅうにあわただしくなる。マッカーサーのゼネスト中止命令が出され、不満分子が一掃された。

マッカーサーから吉田茂首相に、国旗「日の丸」の返還がおこなわれ、政府の自治権が与えられる。泰子夫婦は、一ヶ月あたり、国で定められた500円の生活に落とされた。

田園調布にあった大邸宅を売り払い、住むところもなくなった彼女は春樹とともに、住み慣れた鎌倉に移り住む。中垣は東京での事業に忙殺され、会社のなかに寝泊りして、ときどき鎌倉にお金をとどけにやってきた。

そのころ、中原中也がもうこの世にいないというのに、世間では、彼の詩が評判になり、中央公論社から、中原中也全集の企画が泰子のところに持ち込まれたが、紙の統制がきびしく、出版も思うようにならなかった。

中原中也のもとを去っていった女として、泰子は世間では悪女と呼ばれるようになった。自分は、実業界の男と結婚し、いい暮らしをしたい放題にやっているのを嫉み、ストーカーまがいの事件が持ちあがった。脅迫状はいつものことで、いざ警官につかまえられてみれば、相手は、ただ純粋なだけの学生だった。

長谷川泰子は、その後、中垣竹之助が亡くなって、財産を処分すれば、莫大にあった銀行預金は、戦後、跡形もなく幻想の彼方へと消えていき、あれはいったい何だったのだろうと思った。

泰子の生きてきた足跡は、多くの男たちの人生を織り成すひと駒の彩りに過ぎず、彼女は、57歳にして、日本橋のあるビルの管理人として、ほそぼそと暮らしはじめる。そのころは、あとを追うようにして、いままで親しかった文学仲間がつぎつぎに亡くなり、彼女は、いま自分が生きるために、人さまの情けにすがるより方法がなくなった。

それでも、泰子はあの中原中也の愛人、小林秀雄の愛人としての誇りを持ち、彼女の昭和は、ずっとつづき、彼女は生き抜く。

そして、昭和49年、70歳のとき、「ゆきてかへらぬ中原中也との愛」を講談社から出版する。昭和51年、72歳で、映画「眠れ蜜」に出演した。女優名は「陸(くが)礼子」と名乗った。

長谷川泰子が亡くなったのは、平成5年4月、湯河原の老人ホームでだった。享年88。

中原中也は昭和12年、わずか30歳の若さで亡くなっている。

 

  これが私の古里(ふるさと)だ

  さやかに風が吹いてゐる

     心置なく泣かれよと

     年増婦(としまふ)の低い声もする

  ああ おまへはなにをして来たのだと……

  吹き来る風が私に云ふ

  (中原中也「帰郷」より)