■「在りし日の歌」1 ――

子と出会って、原中也の詩魂がつぶやいたのだ

 

 長谷川泰子

 

じぶんが北海道のいなかの高校生だったころ、よく詩を書いていた。石川啄木みたいな短歌も書いていた。ほんとうは、中原中也のような詩にあこがれていた。

そのころ、じぶんには中原中也の詩は、むずかしかった。中原中也について、以前も何か書いたことがある。

ぼくがアルチュール・ランボーの詩を読んでいたときだった。小林秀雄や大岡昇平、河上徹太郎らの本を読んでいると、中原中也の話がよく出てきた。

心身の疲労が極地に達したころ、中原中也は、「在りし日の歌」の原稿を小林秀雄に託して、帰郷した。そして間もなく亡くなったのである。30歳だった。

この最後の作品は、ぼくのこころにいまでも、青春の痛みとして残っている。

この詩集が世に出たのは、翌年の1938年だった。

中原中也は、2冊の詩集しか残していない。その後いろいろな詩集が刊行され、多くの読者を持つことになったが、藤村や、朔太郎とは違って、近代詩史のどこにも居場所を失ったような酷いあつかいを受けた。

中原中也をまっとうな形で復権させたのは大岡昇平だった。

むかしの高校のテキストには、けっして扱われることのない詩人である。日本の近代詩史のなかでも、ずっと特別扱いされてきた。ぼくは、どうしてなのだろうとおもっていた。

いうまでもなく、中原中也の詩は、それまでの日本の詩人たちの詩とはいっぷう変わっていて、どんな系譜にも当てはまらない。中原中也や富永太郎は、フランス詩の影響を直接受けていて、日本ではずっと異端とされてきた。とても個性の強い詩である。

中原中也の肉体は小さかったらしいが、だれよりも透明だったなとおもう。彼の心象は、いつもかなしく澄んでいて、ときどき障子紙のように大きく破れたりした。彼が酔うとだれかれかまわずケンカをする。

彼の「在りし日の歌」初版本の装丁は、青山二郎が担当した。没後の昭和13年に刊行された。

中原中也は詩以外に、ほとんど何も興味を示さなかった。

少年のころから大学ノートに詩を書いていて、その詩はおそろしくニヒリズムの匂いをただよわせ、暮らしの倦怠感というもののなかに発見した独特の感覚で詩を書いている。そうかといって、最初からニヒリズムを前面に出して気をてらうことはしていない。ほんとうは、中原中也はナイーブな人だった。

まだ中学生だった中原中也を支えたのは、年上の女優だった。

そのことが、彼の詩に深く影響をおよぼしていると、ぼくは思っている。もしも女優長谷川泰子が、後年何も書かなければ、中原中也のほんとうの姿は分からなかったとおもう。

少年は、彼女の愛を感じて大きく成長した。だから、いっぱしの詩人になっても、泰子へのあこがれが詩文にそっと現れた。

少年の甘えから、だんだんあこがれへと変化していく過程で、ふと、ふるさとのことを思い出すのだ。中原中也の本質的なものは、虚無感と抒情性をないまぜにしたナイーブな素顔、とでもいえるようなものかもしれない。中原中也の詩のなかで、最も多く読まれた詩は、「汚れちまつた悲しみに……」だろう。

 

 汚れちまつた悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 汚れちまつた悲しみに

 今日も風さへ吹きすぎる

 (中原中也「汚れちまつた悲しみに……」より

 

七・五調の詩のおもむくところは、どうも古めかしいというイメージがある。しかし彼は、無造作に、ひょうひょうとしてこのような詩を平気で書く。だれの影響のものでもなく、平易なことばで書いている。それが、中原中也の詩だ。

 

 月夜の晩に、ボタンが一つ

 波打ち際に、落ちてゐる。

 それを拾って、役立てようと

 僕は思つたわけでもないが

      月に向かつてそれは抛(はふ)れず

      波に向かつてそれは抛れず

 僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

 (中原中也「月夜の浜辺」より

 

長谷川泰子の聞き書きによる「ゆきてかへらぬ中原中也との愛」、1970年。

 

この詩を発表したのは、中原中也が、2歳の愛児を小児結核で失い、悲嘆のあまり精神の均衡をなくしていたときだった。ぼくはいつだったか、中原中也についての文章をいろいろ書いた。詩人中原中也は、山口中学の生徒だったとき、長谷川泰子という3つ年上の女優と同棲した。――これが無類におもしろい。さすがは詩人だなあとおもう。

彼は17歳、長谷川泰子は20歳。

どういういきさつで同棲するようになったかは、長谷川泰子の証言がある。「ゆきてかへらぬ中原中也との愛」(角川ソフィア文庫、1970年)という本である。

長谷川泰子は広島の複雑な家庭に生まれて、東京へ家出をした。大正12年9月の関東大震災に遭って京都に移り、マキノ・プロダクションの映画女優になっていた。後に、「グレタ・ガルボに似た女」に選ばれるだけあって、彼女は美人だった。

そのころ、京都の演劇グループで中原中也を知った。

京都に移り住むようになった詩人の富永太郎と親交を深める。ふたりはほとんど毎日のように会い、詩の話をし、富永太郎からランボーや、ヴェルレーヌなどのフランスの詩人たちについて多くを学んだ。

 

スウェーデン生まれのハリウッド女優グレタ・ガルボ。1905-1990年。

「ゆきてかへらぬ中原中也との愛」という本は、長谷川泰子の聞き書きによってできた最初の本で、その後彼女は、3冊の本を出している。1冊は「阿佐ヶ谷界隈」、「四谷花園アパート」、そして最後に書いたのは「中原中也の詩と生涯」で、これは1973年に出版された。長谷川泰子は、底抜けに無邪気な女性だった。

泰子が山口の表現座に出演していたとき、楽屋にひとりの男がやってくる。

彼は、まだ中学生で、ピエロがはくような、だぶだぶのズボンをはき、かんかん帽をかぶり、手には1冊の詩集を持ち、ダダイストを気取っていた。何かのおりに泰子にその詩集を見せた。

すると、泰子は「おもしろいじゃないの!」といい、男はにやっと笑った。

大学ノートに書かれた詩集は、みんな「ダダダダダダダタッ……」というような感じで、文章には機関銃のようなひびきがあった。

それを見て、泰子は「おもしろいじゃないの」といったのだが、彼は勘違いをして、褒めてくれたと思い込んだ。それが中原中也と長谷川泰子との最初の出会いである。

やがて、泰子は鼻持ちならない先輩女優と喧嘩して、座を追われる。どこへも行くところがなくて困っていたら、「ぼくの部屋にくればいいよ」と中原中也はいった。その誘いに乗って、彼女は中原中也の部屋で暮らした。

ある夏の日、「女郎を買ってくる」といって中原中也は部屋を出て行く。

最初は「宮川町に行ってくる」といったのだそうだが、泰子には分からなくて、ぽかんとしていたら、彼は「女郎を買ってくる」といいなおしたのだそうだ。

彼女はほんとうに女を買いに行くのかと思い、筒袖を着た子供みたいな彼が、玄関を出て行くうしろ姿をじっとながめやる。

やっぱり行ってしまったと思っていたら、じきに帰ってきて、泰子を押し倒した。

女郎にいい思いをさせてもらえなかったようで、まだ中学生の彼は、甘えたように泰子の胸にむしゃぶりつく。

泰子は「可愛いな」とおもう。――のちにこの話は文壇でも大きく取り上げられ、作家の大岡昇平は、「ほとんど強姦されちゃったようなものだ」と泰子がいったと、雑誌「群像」に書いたりした。考えてみれば、男と女がひとつ部屋に寝泊りしておれば、強姦されたというのはおかしいと、のちに泰子自身が自伝のなかで述べているのだ。

泰子は、あれは強姦ではなかったといっている。

 

  月は空にメダルのやうに、

 街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、

 遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。  

 ――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

 

 その脣(くちびる)はひらききつて

 その心は何か悲しい。

 頭が暗い土塊になつて、

 ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

 

 商用のことや祖先のことや

 忘れてゐるといふではないが、

 都会の夏の夜(よる)の更(ふけ)――

 

 死んだ火薬と深くして

 眼に外燈の滲みいれば

 ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

 (「都会の夏の夜」

 

彼女はマキノ・プロに入り、「仕出(しだし)」というチョイ役で舞台にときどき出ていたが、日本髪で御殿女中役の恰好で、その他大勢の役者と、「元禄花見おどり」などというのをやっていた。そのころは、坂東妻三郎の全盛時代で、松竹の森静子という大女優が人気があったらしい。

マキノ・プロから日活の黒い塀で囲まれた撮影所まで田んぼのわきを歩いて行くとき、夜は、キセルの先を赤くした男がふらついていることが多く、気味が悪くなって、中原中也に連れ添ってもらって出かけることがあった。

それを見ていた撮影所の連中は、

「あんた、文士の2号さんだってね」と声をかけられる。

それに腹を立てて、彼女は飛び出す。

追われるように彼の部屋にたどりつき、なんてしょうもないことをやってしまったのかと、自分にも腹を立てる。

そんな泰子をかまうことなく、中原中也はひとりデスクに向かって何か書いている。詩を書いているときは、何もいえない泰子は、もうこの人のことはあきらめようとひそかにおもう。

それから、ふたりはとつぜん何かをさとったように、東京に引っ越してくる。

上京してみれば、山口の街とはえらい違いで、街は巨大で知る人もなく、唯一、中原中也だけを頼りに、またまた彼とおなじ部屋に暮らし、おなじ日常を過ごす。

そのとき、ふと、雨のなかを小走りに駆けてくるひとりの男があらわれた。

そして、「ちょっと、姉さん、タオルを貸してくれ」という。

泰子はタオルを持ってきて、雨に濡れた男の顔をちらっと覗き込んだ。細身のいい男である。小林秀雄だった。

小林は、ここを訪れるのはそのときはじめてだったが、そのときのむっつりした泰子の顔を見て、こんどは「お茶がほしいね」といった。

泰子は、小林の顔をもういちど見てからお茶を淹()れると、中原中也と小林秀雄にお茶を出した。泰子は、いつも彼らのおしゃべりに入れてくれない。ただ、じっと聞き耳を立てて彼らの話を聞いているだけである。すると、

「こんど、おれの部屋にくるといいよ。ふたりできてくれ!」といい、小林はそうそうに立ち去った。