■文学――

優を抱きながら詩を書いた

原中也。2

 

泰子が山口の表現座に出演していたとき、楽屋にひとりの男がやってくる。

彼は、まだ中学生で、ピエロがはくような、だぶだぶのズボンをはき、かんかん帽をかぶり、手には1冊の詩集を持ち、ダダイストを気取っていた。何かのおりに泰子にその詩集を見せた。

すると、泰子は「おもしろいじゃないの」といい、男はにやっと笑った。大学ノートに書かれた詩集は、みんな「ダダダダダダダタッ……」というような感じで、文章には機関銃のようなひびきがあった。

それを見て、泰子は「おもしろいじゃないの」といったのだが、彼は勘違いをして、褒めてくれたと思い込んだ。

それが中原中也と長谷川泰子との最初の出会いである。

やがて、泰子は鼻持ちならない先輩女優と喧嘩して、座を追われる。どこへも行くところがなくて困っていたら、「ぼくの部屋にくればいいよ」と中原中也はいった。その誘いに乗って、彼女は中原中也の部屋で暮らす。

 

中原中也と長谷川泰子

 

ある夏の日、「女郎を買ってくる」といって中原中也は部屋を出て行く。

最初は「宮川町に行ってくる」といったのだそうだが、泰子には分からなくて、ぽかんとしていたら、彼は「女郎を買ってくる」といいなおしたのだそうだ。

彼女はほんとうに女を買いに行くのかと思い、筒袖を着た子供みたいな彼が、玄関を出て行くうしろ姿をじっとながめる。

やっぱり行ってしまったと思っていたら、じきに帰ってきて、泰子を押し倒した。

女郎にいい思いをさせてもらえなかったようで、まだ中学生の彼は、甘えたように泰子の胸にむしゃぶりつく。泰子も「可愛いな」とおもう。

のちにこの話は文壇でも大きく取り上げられ、作家の大岡昇平は、「ほとんど強姦されちゃったようなものだ」と泰子がいったと、雑誌「群像」に書いたりした。考えてみれば、男と女がひとつ部屋に寝泊りしておれば、強姦(ごうかん)されたというのはおかしいと、のちに泰子自身が自伝のなかで述べている。

あれは強姦ではなかったと。

彼女はマキノ・プロに入り、「仕出(しだし)」というチョイ役で舞台にときどき出ていたが、日本髪で御殿女中役の恰好(かっこう)で、その他大勢の役者と、「元禄花見おどり」などというのをやっていた。「仕出(しだし)」だから、もちろんちょい役で、セリフなんかない。舞台のソデを素通りするだけみたいな役である。

下積みの生活がわびしい。

当時そのころは、ちょうど坂東妻三郎の全盛時代で、松竹の森静子という大女優が人気があったらしい。

マキノ・プロから日活の黒い塀で囲まれた撮影所まで田んぼのわきを歩いて行くとき、夜は、キセルの先を赤くした男がふらついていることが多く、気味が悪くて、中原中也に連れ添ってもらって出かけることがあった。

それを見ていた撮影所の連中から、

「あんた、文士の2号さんだってね」と声をかけられる。

それに腹を立てて、彼女は飛び出す。

追われるように彼の部屋にたどりつき、なんてしょうもないことをやってしまったのか! と、自分にも腹を立てる。

そんな泰子をかまうことなく、中原中也はひとりデスクに向かって何か書いている。詩を書いているときは、何もいえない。泰子は、もうこの人のことはあきらめようとひそかに思う。

それから、ふたりはとつぜん何かをさとったように、東京に引っ越してくる。

上京してみれば、山口の街とはえらい違いで、街は巨大で知る人もなく、唯一、中原中也だけを頼りに、またまた彼とおなじ部屋に暮らし、おなじ日常を過ごす。

そのとき、ふと、雨のなかを小走りに駆けてくるひとりの男があらわれた。

「ちょっと、姉さん、タオルを貸してくれ!」という。

泰子はタオルを持ってきて、雨に濡れた男の顔をちらっと覗き込んだ。

細身のいい男である。小林秀雄だった。

小林は、ここを訪れるのはそのときはじめてだったが、そのときのむっつりした泰子の顔を見て、こんどは「お茶がほしいね」という。

泰子は、小林の顔をもういちど見てからお茶を淹()れると、中原中也と小林秀雄にお茶を出した。泰子は、いつも彼らのおしゃべりに入れてくれない。ただ、じっと聞き耳を立てて彼らの話を聞いているだけである。

「こんど、おれの部屋にくるといいよ。ふたりできてくれ」といい、小林はそうそうに立ち去った。

それから何日かして、ある晴れた日の午後、ふたりは中野の小林の部屋に行く。

小林秀雄は上機嫌で、芝居の話をする。中原中也は芝居は大嫌いで、いちども芝居の話をしなかったので、泰子は小林の話にうっとりして聴いた。

小林は、泰子に「こんど芝居を観にいこうか!」といった。

泰子はきゅうに嬉しくなり、「ええ!」と、声も弾んでしまった。

その計画はじきに実現し、小林といっしょに日本橋の三越でやっていたチェーホフの「桜の苑」という芝居を観に行った。劇場のなかは、お座敷になっていて、小林は泰子に寄り添いながら、あぐらをかいて舞台を観ている。

そのうちに、小林の手が伸びてきて、泰子の手をにぎりはじめ、ときどき何かの合図のように、ぎゅっと強く握ってくる。

泰子は、身を硬くしながら、小林のやることをゆるしていた。

この人は、「もしかしたら、わたしのこと、好きと違うか」とおもう。

好きなら好きと、男らしくいったらどうなの、と思って待っていると、芝居が終わり、劇場を出ていくとき、彼は「ぼくの部屋にいってみるかい?」と誘った。

泰子は「行ってみたい」とおもう。

だが、落合の部屋では中原中也が待っている。

いや、待っているのではない。ただ、いるだけだと思いなおし、小林のあとについて、いつの間にか小林の部屋にやってきた。

待っていたのは、猛烈な接吻の嵐だった。

それだけでは済まず、肉体までいきなり奪われてしまった。

ところが、その性交は思いのほか、すばらしかったので、「人にはいえない、思い出となりました」と彼女はのちに綴った。

それからは、こんどは小林秀雄との同棲がはじまった。

からだの関係ができて同棲するのは、泰子にははじめてだった。いままでは子供が相手だったが、こんどは大人の男が相手になる。

そう泰子はおもう。それに、小林の話はおもしろく、映画の話とか、アントン・チェーホフの舞台劇とか、浄瑠璃とか、歌舞伎のおもしろい話などをしてくれて、泰子は小林とはもう離れられなくなった。

 

 

中原中也 詩の朗読。「在りし日の歌」より。

 

中原中也 詩の朗読。「在りし日の歌」より。

 

ある日、部屋に中原中也がやってくる。そして、またやってくる。何回もやってくる。

気がつくと、妙なぐあいに三角関係ができていた。

散歩のおりに、中原中也が甘えたように泰子のほうに寄り添ってきて、キスをねだる。キスをしてくれという。

泰子は、小さな中野公園の隅っこの芝生の上に寝転び、彼を久しぶりに受け入れてやる。彼はもう中学を卒業し、顎には髭も生え、いっぱしのダダイストの存在になっていた。

山口にいたころの中原中也とは大違いだった。横光利一みたいな新感覚派気取りの帽子をかぶり、手には大学ノートを持ち、いつでも詩が書けるようにいつもそれを持ち歩いていた。

とうぜん、キスだけで終わる話じゃなく、昼間の公園の木陰で、いつの間にか性交してしまう。

泰子は妊娠を恐れて中出しを拒んだ。

彼はしかたなく、泰子の腹の上に出した。泰子はやさしく中原中也のものを拭いてやった。

彼女は、満足する間もなく、果ててしまったことを恨みに思うことはなかった。彼が年下だったこともあって、母性が反応してしまったらしい。中原中也には、いつもやさしく接した。

小林とのセックスは、中原中也とはまったく違い、泰子は官能的な小林と出会って、女の幸せを感じた。

長谷川泰子は、生涯を通じて、小林秀雄との生活が唯一幸せだったと自伝に書き記している。それくらい性の快楽を堪能したようだった。いっぽう小林秀雄のほうはまさに「地獄の季節」になろうとしていた。 

――中原中也は、大人になっても子供のような気持ちを捨てなかった。泰子のまえでは、甘えん坊だった。彼は泰子と出会って、いい詩が書けた。

時代に反逆した書き割りみたいな暮らしに甘んじつつも、観念の世界に生きようとした。中原中也の精神は「朝の歌」のような清冽な目覚めそのものだった。それは、建付けの悪い、ギシギシと鳴る二階の部屋で、二日酔いの頭で目覚めても、カリエール筆のものうげなヴェルレーヌ肖像画が1枚架()けてあるのを見つめた。

ヴェルレーヌは、デカダンの生活をつづけ、窮死(きゅうし)をとげた。

 

長谷川泰子は、生涯を通じて、小林秀雄との生活が唯一幸せだったと自伝に書き記している。それくらい性の快楽を堪能したようだった。――中原中也は、大人になっても子供のような気持ちを捨てなかった。泰子のまえでは、甘えん坊だった。

彼は泰子と出会って、いい詩が書けた。

泰子が実業家の男と結婚したとき、中原中也は別の女と同棲し、文也という男の子が生まれたが、その子がじきに亡くなり、それを人づてに聞いて、泰子は可哀想に思った。

自分のいまある幸せは、中原中也のお陰であると思っていたから、彼の子供の死は、泰子にとっても口悔しい出来事となった。

 

 ホラホラ、これが僕の骨だ、

 生きてゐた時の苦労にみちた

 あのけがらはしい肉を破って、

 しらじらと雨に洗はれ、

 ヌックと出た、骨の尖さき。

 (中原中也「骨」)

 

いっぽう泰子は、夫とのあいだには子ができず、彼女は、先妻とのあいだにできた春樹とともに、中垣家を守った。そうこうするうちに、しばらく音信が途絶えていた中原中也が、横浜の病院に担ぎ込まれたという情報が入った。

大慌てで病院に駆けつけてみると、もう彼の意識はなく、ベッドの上でだらりと腕を垂らして昏睡状態になっていた。

翌日、中原中也は亡くなる。結核性脳膜炎だった。

亡くなって、中垣といっしょに葬儀に出た泰子は、錚々(そうそう)たる会葬者に出会う。みんなかつての文学仲間である。

出棺のとき、泰子は大声をあげて泣き崩れた。――かつての詩人の《愛人》だった女として見られることに、泰子はまるで抵抗を感じなかった。中原中也の《愛人》と呼ばれることに誇りを感じていた。泰子の人生のなかで、この人の占める大きさを思うと、泣けてきた。

中原中也の告別式が終わって、鎌倉の駅前の牛丼屋で、小林秀雄と幾人かの仲間たちといっしょにお酒を酌み交わした。終わってみれば、中原中也のいうように、「しらじらと雨に洗はれ」た気分で、みんなゆるせるような気持ちがしてきた。

小林は葬儀の席上で、中原中也の書いた詩「在りし日の歌」を朗読した。これは中原中也が死ぬ前に、小林に託した詩の原稿で、まるで遺言みたいな詩だった。

中原が死んで、雑誌「文學界」で追悼号を出そうということになり、泰子は、「酵母の詩」という詩を載せた。そして、泰子の主人の肝入りで、「中原中也賞」というのを創設する。

だが、中垣の事業がうまくいかなくなり、「中原中也賞」は3回ほどつづいて挫折した。

そして、昭和20年8月15日を迎え、終戦。

翌年の2月、新円切り替えで、預けてあった銀行預金はすべて封鎖され、いっぺんに貧乏のどん底に落とされる。

その年の5月から、新日本国憲法が施行となり、極東裁判にA級戦犯28人が出廷。「米よこせ」のデモ行進がつづくなど、世情がきゅうにあわただしくなる。マッカーサーのゼネスト中止命令が出され、不満分子が一掃された。

マッカーサーから吉田茂首相に、国旗「日の丸」の返還がおこなわれ、政府の自治権が与えられる。泰子夫婦は、1ヶ月あたり、国で定められた500円の生活に落とされた。

田園調布にあった大邸宅を売り払い、住むところもなくなった彼女は春樹とともに、住み慣れた鎌倉に移り住む。中垣は東京での事業に忙殺され、会社のなかに寝泊りして、ときどき鎌倉にお金をとどけにやってきた。

そのころ、中原中也がもうこの世にいないというのに、世間では、彼の詩が評判になり、中央公論社から、中原中也全集の企画が泰子のところに持ち込まれたが、紙の統制がきびしく、出版も思うようにならなかった。

中原中也のもとを去っていった女として、泰子は世間では悪女と呼ばれるようになった。自分は、実業界の男と結婚し、いい暮らしをしたい放題にやっているのを嫉み、ストーカーまがいの事件が持ちあがった。脅迫状はいつものことで、いざ警官につかまえられてみれば、相手は、ただ純粋なだけの学生だった。

長谷川泰子は、その後、中垣竹之助が亡くなって、財産を処分すれば、莫大にあった銀行預金は、戦後、跡形もなく幻想の彼方へと消えていき、あれはいったい何だったのだろうとおもう。

泰子の生きてきた足跡は、多くの男たちの人生を織り成すひと駒の彩りに過ぎず、彼女は、57歳にして、日本橋のあるビルの管理人として、ほそぼそと暮らしはじめる。

そのころは、あとを追うようにして、いままで親しかった文学仲間がつぎつぎに亡くなり、彼女は、いま自分が生きるために、人さまの情けにすがるより方法がなくなった。

それでも、泰子はあの中原中也の愛人、小林秀雄の愛人としての誇りを持ち、彼女の昭和は、ずっとつづき、彼女は生き抜く。

そして、昭和49年、70歳のとき、「ゆきてかへらぬ中原中也との愛」を講談社から出版する。昭和51年、72歳で、映画「眠れ蜜」に出演した。女優名は「陸(くが)礼子」と名乗った。

長谷川泰子が亡くなったのは、平成5年4月、湯河原の老人ホームでだった。享年88。中原中也は昭和12年、わずか30歳の若さで亡くなっている。

 

 これが私の古里(ふるさと)だ

 さやかに風が吹いてゐる

 心置なく泣かれよと

 年増婦(としまふ)の低い声もする

 ああ おまへはなにをして来たのだと……

 吹き来る風が私に云ふ

 (中原中也「帰郷」)