浜松市にお住いの小杉春見先生の水彩画作品。古作富士子さまからご紹介

いただいた絵の一枚。――ここでいうテニスンとは関係はありません。けれども、す

ばらしい絵です。どうやって描いたのだろうとおもいます。《愛》という

言葉を絵にしたら、このような絵になるのでしょうか。

 

 

して

「愛して失うことは、愛した経験のないことにまさる」(Tis better to have loved and lost than never to have loved at all.)」そういった男がいる。アルフレッド・テニソン(Alfred Tennyson,  1809年-1892年)である。

 

アルフレッド・テニソン

彼はヴィクトリア朝時代の桂冠詩人だった。偉い詩人なのだが、ぼくにはあまりに時代がかって見え、ほとんど彼の詩を読まなかったけれど、「In Memoriam」だけは読んでいる。このことばは、そこに出てくる。

急逝した友人の死を悼み、愛の喪失とその苦悩を歌いあげた詩だった。

ぼくはまだ20代で、ある企業のクリエーティブセンターというところで、コマーシャル企画に従事していた。

ぼくの直属の上司は、38歳くらいの女性チーフだった。

彼女は仕事にはとても情熱的だった。彼女は企画の責任者をしていて、ぼくらのチームリーダーである。ぼくが考えた企画は、たいがいはダメ押しされた。それでも、ぼくはがんばった。

ひとつはTOTOのシステムキッチンのカタログ企画だった。

ある日、ぼくは彼女に、「こんな企画はどうでしょうか?」と提案した。

カタログなのに、「創刊準備号」と書かれている。住まいの雑誌風にしたのだった。

ほとんどが記事で、巻末にTOTOのシステムキッチンのカタログを配した。そして、婦人雑誌「主婦と生活」の付録としても考えていた。

「おもしろいじゃないの? 田中くん、ひとりで考えたの?」ときく。

「でもきいていい? これって、毎月だすの?」

「ええ、毎月だしたいです。《主婦と生活》も毎月でますから、……」

「あいてに、もう話したの?」

「いいえ、まだですけど、……」

縣京子さんは、うーん、といってから、「考えさせてね」といった。

「でも、田中さんて、touch and goね」と彼女はいった。

「飛行機、ですか?」

「……まさか!」といった。

それから1週間がすぎた。べつのメーカーの450ページにおよぶ照明器具総合カタログ、その事実上の編集兼クリエーティブ・ディレクターをしているぼくは、けっこう多忙だった。飯島取締役局長のひと声で、編集責任者にぼくが抜擢された。社内スタッフと、外部スタッフの約30名ほどの仲間たちで動いていた。

地下のスタジオに入って、トビラの写真撮影にずっとたち合っていた。アート・ディレクターやデザイナーたちとの打ち合わせは、ときどき深夜におよんだ。

そのとき、スタジオに縣さんがやってきた。

そしていった。

「このプレゼンだけど、ОKよ! やって!」といった。

飯島局長のオーソライズをうけたらしかった。

そして、そのまま彼女はデスクのほうにもどっていった。ぼくは夜食を手に入れるために外に出た。銀座の夜空に大きな月がかかっていた。

社にもどると、5階に行き、縣さんに「これ、食べてください、ぼくからの差し入れです」といって手渡した。ドーナツパンと温かい缶コーヒーだった。

「あら、田中くん、いいの? ありがとう」

そういって、ぼくの隣りのデスクで、彼女は食べた。そのフロアには、ぼくらだけしかいない。もう2時をまわっている。

仮眠室はあるけれど、彼女もぼくも、あまり眠りたくになかった。

このまま仕事をしていると、どうなるのだろう、とおもった。

それからしばらくして、彼女はぼくのディスクの衝立てにもたれかかるようにして、「いま、何やっているの?」ときいてきた。

ぼくは、住まいの間取り図なんか見ているときだった。スタジオに家を建てる計画だ。

そして、チーフは、ぐーんと接近してきて、ぼくの頬に彼女の長いヘアがかかると、縣さんはスタンドのスイッチをオフにした。そして、ぼくのアゴをぎゅっと持ち上げると、そっとキスをした。とても優しかった。

そしてぼくの胸に手のひらをはわせ、こんどは、はげしくキスをもとめた。ぼくはおもわず、キューンとなって立ち上がった。ゴミが箱がひっくり返った音がして、定規も鉛筆も床に落ちた音がした。

ひろいフロアのほとんどは真っ暗で、とても静まり返っていた。

その一部のリノリュームの床が月明かりで光って見えた。ぼくらは突っ立ったまま、キスをつづけていた。彼女の舌がぎゅーっと押し入ってきた。そして縣さんは大きくわめいた。――それからのことは、ただじっと抱き合ったままだった。

そのころ、縣京子チーフから借りて読んでいる、ちょっと粋で、ちょっとダンディな感じの作家、スコット・フィッツジェラルドの「楽園のこちら側」(The Side of Paradise)という初期の小説が素晴らしいとおもった。

 

彼はなぜもがき苦しむことに価値があるのか、なぜ自分自身や、出会った人々から受け継いだ遺産を最大限に使おうと決めたのか、わからなかった。彼は明るく輝く空に両手を差し出して叫んだ。

「僕は自分自身がわかった。でもただそれだけのことだ」

And he could not tell why the stuggle was worth while,why he had determined to use to the utmost himself and heritage from the personalities he had passed……

He stretched out his arms to the crystalline, radiant sky.

"I know myself, "  he cried, "but that is all" 

 

作家スコット・フィッツジェラルドは、ジャズ・エイジの若者のスポークスマンとして旧世界の殻を打ち破り、ヴィクトリア時代の重苦しい因習を解き放ったといえるかもしれない。

昭和55年ごろは、赤字で苦しむ主要先進国のなかで、ひとり日本だけが黒字をつづけて円高相場をもたらした。

いっぽう、映画スクリーンをにぎわしたのは「家族の肖像」「グッバイガール」「愛と喝采の日々」がロングラン上映された。歌は「UFO(レコード大賞)」「与作」「サウスポー(歌謡大賞)」などが流行した。

それ以来、ぼくらは深夜になると、なんとなく縣京子チーフとキスを交わしていた。

でも、セックスはしなかった。ぼくが誘っても、縣さんは、「しよう」とはいってくれなかった。それから1年半ぐらい、だれもいないところで、いつもキスをしていた。ぼくはときどき我慢できなかった。

ある夜、彼女はいった。

「いまのアメリカのvice presidentも、bisexualなの。しってた?」ときいた。そのころ、両性愛者という言葉がぼくには馴染めなかった。「もしかして、縣さんも?」ときいてみたが、彼女は軽く笑みを浮かべただけで、何もいわなかった。

ある日、ぼくは上席部長に呼ばれ、いってみると、

「田中くん、いままでがんばってくれた。苦労さん。こんど京都に欠員ができた。田中くん、制作部の主任として行ってくれないか」といわれた。異動の話だった。

7年間を東京本社ですごしたじぶんは、やがてこうなることは予想していた。縣京子さんと別れるのは悲しかった。

「京都はいいわよ、いつでも会えるじゃない。田中くん、京都へ行きなさい」と彼女はいった。京都支局は、行ってみると、おもしろかった。

「恋人? 恋人なんていてません」と、20代の女の子は明るくいった。

「田中さんは、独身?」ときかれ、

「そうです」といった。

北海道には、いいなずけがいた。だが、ぼくは何もしゃべらなかった。

それからぼくは、その子に夢中になった。和服を着せると、完全に京都の女に見えた。けれども、身は離れても、年上の縣さんのことをときどき想いだしていた。彼女の乳房は、やわらかく、美しかった。ぼくは年上の女性にあこがれた。

ぼくは北海道で子ども時代をすごした。ぼくは、ナターシャというロシア女に育てられた。彼女はぼくより8つ年上だった。彼女が23歳のとき、ぼくは15歳だった。

子守りの女の子としてわが家に8年間雇われた彼女だったけれど、母親よりもきびしく、ぼくら兄弟3人を育ててくれた。

寒い冬、ぼくらはナターシャとわいわいいいながら一緒に風呂に入っていた。湯気で、ホヤつきランプの灯りも薄ぼんやり曇ってしまい、何も見えなかった。

でも、ナターシャの大きくて、まっ白なお尻が湯を浴びて光って見えた。

ぼくが15歳のとき、ナターシャはわが家を去った。彼女と別れる辛さをおもい知らされた。

ぼくは縣さんに手紙を書いた。きのうも、きょうも書いた。

それでも足りなくて、一日に3通も、5通も書いたりした。そのうちに、縣さんから何もいってこなくなった。クリスマスにはとっておきのプレゼントをおくったけれど、彼女から何も送られてこなかった。

 

ぼくのディスク。裸の女の子の写真が貼ってある(昭和42年、25歳の自分)

ある日、鷲津という男から電話がきた。――やあ、先輩、おげんきですか? 

という。そのときはもう2年もたっていた。

なつかしいやつからの、なつかしい話を聞いた。そして、本社で会議があって、東京に出向くと、縣さんの姿が消えていた。

「縣さんのこと、聴いてる?」と鷲津にたずねた。

「ああ、先輩。……ちょっとコーヒーでも飲みましょうか?」といって、鷲津はぼくをいつものコーヒー店に誘った。

「縣さんのことですが、ぼくら、結婚しました」といった。

「なに! 結婚だって?」

ぼくは、とてもおおきな衝撃を受けた。――そして、あのときの縣さんのキスシーンを想いだし、情()れない話の顛末を聞かされたのだった。その衝撃に、じぶんが立ち直るのに、3年半もかかった。

3年半たって、ぼくは北海道のいいなづけの女性と結婚した。つき合ったこともない女だった。それから、ぼくら夫婦は、少しずつ好きになりはじめ、それから3年後に子どもが生まれた。

それから53年たって、秘密の書棚のひきだしの中から、縣京子さんの写真が出てきた。一瞬、どきっとして、切り裂こうとしたが、それはできなかった。

そのころ読んでいたS・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の本のページに栞のように挟んで、もとの書棚のひきだしのなかにそっとしまいこんだ。