某テレビ局時代の自分
 

「Jack and Jill」の歌は、もともとイギリスの伝承童話のなかで山に水を汲みに行く男の子と女の子を指しているのだが、Every Jack has his Jill. (どんな男にも似合いの女がいるものだ)とは「似た者どうし」、「似た者夫婦」ということことで、「どのジャックにも似合いのジルかいる」というわけである。

だが、その相棒はいつ現れるか、それはわからない。現れても、じぶんの相棒だと気づかずにいるかもしれない。気づかないということは悲しいことである。

ぼくは25年前、そんな話をするものだから、テレビ局の若い女性たちがいろいろすり寄ってきた。彼女たちはほとんど恋愛にやぶれ、こころはめちゃくちゃに傷ついていた。

どう慰めても彼女たちのこころは癒されない。

 

 折れた翼広げたまま 

 あなたの上に落ちて行きたい 

 海の底へ 沈んだら

 泣きたいだけ抱いてほしい

 (「難破船」歌・中森明菜、作詞作曲・加藤登紀子)

 

まあ、そんな感じだったかもしれない。

この歌をはじめて聴いたのは、たぶん昭和の終わりごろだったろうか。中森明菜の歌のなかで、唯一知っているのは、この「難破船」という曲だった。

ぼくはそのころ、上り坂にいて、あとからやってきた団塊の世代は、みんな闘いに疲れたみたいな顔をしていて、中島みゆきの「狼になりたい」なんか歌いながら、「ビールはまだかー!」とかいっていた。

彼女たちと三軒茶屋のスナックに行き、朝まで飲みながら、哀しい歌ばかり歌っていた。

ぼくは歌謡曲には詳しくないけれど、ときどきジュゼッペ・ディ・ステファーノや、マリオ・デル・モナコ、レナータ・ティバルディ、レナータ・スコットなどの得意とするアリアを歌いたくなる。みんなの歌を聴いていると、ときたまじぶんの知っている往年のヒット曲がかかる。

 

1966年9月18日、サルトルとボーブォワールが来日。

午後8時、台風が接近しつつあるなか羽田空港に2人は到着する。すぐに空港内のホールで記者会見が行われ、100人を超える記者やカメラマン、関係者で会場は埋め尽くされた。

記者会見の一問一答では次のような興味深い話も聞けたようだ。訪日の目的を訊ねられ、若い頃に教員として日本に来ることを願ったのだが採用されなかったこと、ようやく青年時代の夢がかなったことを打ち明けている。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは一貫してフェミニスムの立場をとった。その著書『第二の性』での「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という一行は有名であろう。自伝的小説『レ・マンダラン』はジェンダー論の基礎を作ったと評価され、また晩年には今日的なテーマである老後の問題を扱った大作『老い』がある。またゴシップ的な側面が強いが、サルトルとボーヴォワールの関係も「契約結婚」という内縁関係であることを公言していて、これも新しい夫婦のあり方として話題になっていた。

――慶應義塾大学法学部教授  朝吹 亮二氏が「三田評論」に発表(2016年)。

 

 

野呂が去っていた日のことは忘れない。野呂も歌えばよかったのだ。悲しいときには歌うといい。

「おれは、丸太の家を建てるつもりだ」と野呂がいった。

そういう計画を彼から聴いたことがなかった。――あのことがあってから、野呂は無口になった。黙々とはたらき、土と木の魂に祈りをささげ、天国に召された女の子の霊をなぐさめた。

荒野の果てに、きっと幸いをもたらすであろう冬の太陽がある。そう信じて、ここまでやってきた。

「やっと、神さんと暮らす気になったのかい?」

「そう思っている。……この冬は、暖かい新しい家で暮らそうと思う」

野呂はもう68歳になり、右耳が聞こえなくなり、目もかすんでいた。

「……バチがあたったんだよ」と彼はいった。彼は、4トンの大型トレーラーで、可愛い女の子を轢いてしまった。女の子の家族をどん底に突き落とした。あれから18年が過ぎた。まだ50歳だった野呂の髪は、たちまち白くなり、2キロの錘(おもり)をこころにしまって生きてきた。

「――こいつはセミの亡骸さ。……この土の中で7年間生きて、地上へ這い出てきた。羽ばたくのは、たったの1週間だよ。ほんの一瞬さ」と老人がいった。

「有楽町は都会だったよ。きのうヨーコと出かけたけれど、蝉はいなかったよ」

「そんなところに、いるわけないだろ!」と老人はいった。

「もしかして、いるかもしれないよ」とぼくがいった。

夜になっていた。都会のショーウインドーに、カルティエ・ブレッソンの写真みたいな額装された絵がかかっていた。それに気をとられていると、そばにいた老人の姿が消えた。

彼はきっと、家を建てるために、北海道のいなかに旅立ったのだ。

 

 

ジュゼッペ・ディ・ステファーノ「星は光りぬ」

 

いつだったか、

「ロシア語で《こんにちは》は、《ズロース一丁》といえば通じるんだよ」といったら、落ち込んでいた彼女たちが、

「いまどきズロースなんか、履かないわよね」とひとりがいった。

「履くわよ」と別の人がいった。

「へぇぇ、どんなズロース?」と、ぼくはきいてみた。

ボトムス(下衣)を表すいろいろな英単語とおなじく、drawersは複数形だが、ドロワーズ、ドロワース、ドロワともいうそうだ。

「ルーズフィットするので、とってもラクよ。入浴後なんか、ひとりビールを飲むとき、わたしは履いてますよ」と彼女はいっている。彼女はまだ23歳だ。契約社員だ。2年後の満期を迎えるまでに夫となる相手をどうあっても、見つけなくちゃならない。

「ははーん、ほんと! そうなんだね!」ぼくはたまげていった。

ズロースといえば、江戸時代からあったなと考えた。ぼくはむかし、ズロースを履いている女性のイラストを見たことがある。ただしそれは男女兼用タイプのもので、「ズボン風下ばき」とも呼ばれていたようだっただった。

「江戸時代? そのころ、わたしは生きていないので、知りません」と彼女はいった。ぼくもほとんど知らない。

「わたしのは、クレープズロースっていうのよ。ゆったりしてて、履き心地はいいわよ」といっている。フランス語のクレープ(crêpe)かと考えた。つまり、ちりめんみたいな布の表面に多くの小ジワを出しているやつだとおもう。

「いまも、男女兼用なの?」ときくと、

「そういうのは、ないわね。男が履いたりしたら、へんよね。でも履かせてみたいわね、ははははっ」といって、こっちの膝小僧をポンと叩いた。

「それって、ブルーマーとは違うの?」ときいてみた。

「そう、違うわね」という。ちょっと混同されそうだが、ブルーマーは、しらべてみると、ふたつの説があるようだ。

イギリスの貴婦人が考案したトルコ風ズボンを元にした丈の短いもので、ズロースとは別物であると書かれている例がある。それと19世紀のなかごろ、アメリカのブルーマー(Bloomer)というご夫人が女権のシンボルとして提唱した下ばきと書かれている。ほんとうはどっちなのだろうとおもってしまう。

「ブルーマーってね、人の名前だったの? だったら、その人が考案したのかもしれないわね」とだれかがいった。

「コンドームだってそうだよ」というと、

「何が?」

「人の名前だったってこと」

「ほんと? 信じられない。気の毒な名前ね」といっている。

イギリスのCondomという人が考案したとされて商標登録されたけれど、のちに一般名詞となり、世界中のだれでも無許可でネーミングに使うことができるようになった。「正露丸」みたいなものだろう。これも無許可で使われている。

「おもしろいのは、女性用のコンドームがあるって、知ってましたか?」ときいてみた。

「ふわーっ、そんなの聞いたことないわね。じっさいにあるの?」

「あるらしいですよ。膣内で使うものらしいですよ」

「そんなことしなくても、ピルのほうが便利よね」と別の女性がいった。

1954年といえば昭和29年、まだGHQによる占領時代で、そのころ日本は国連に復帰して間もなくだった。

その年、アメリカで口径避妊薬オーラルpillが、生理学者のピンカスらによって、世にもふしぎな避妊薬が開発されている。これは、人工合成の黄体ホルモンをおもな成分とする丸薬で、排卵をおさえる働きがあるという。

「ピルといえば、ぼくはイカれた女を想像してしまうよ」というと、「それって、《おバカさん》てことですか?」ときく。

「原発もなければピルもない。月へ行くロケットもない。そういう時代の女たちの不倫をおもい出しますよ」とぼくはいった。

「不倫といったら、熱海かしらね?」と別の女性がいった。

不倫でなくても、ワケあり関係のふたりを想像してしまう。「イカれた女って、《恋愛狂時代》とか、《ラブユー東京》の世界よね? もっと前かしら?」とだれかいっている。

「お父さん、ちょっときいていいですか?」ときかれた。

「――こういうところでは、わたしたちに田中さんのこと、《お父さん》と呼んでほしいといわれているけど、それはなぜかしら?」

「それはね、東京では《お父さん》になってくれてるからよ。そうでしょ?」と別の女がいう。

ぼくは、プライベートなシーンでは、みんなにぼくのことを「お父さん」と呼ぶようにといっている。こういうところで、「田中さん」といったら返事をしない。

「お父さん、お母さん」ということばは、むかし役所がつくったのだそうだ。明治のなかごろ、文部省の国定教科書を編纂するとき、執筆者が考案した新語だったそうだ。

それ以来、日本人は「お父さん、お母さん」とだれでもいうようになった。それでも手紙を書くときは、「お父上、お母上」と書いたそうだ。

「――そういえば、ここにいる人たちは、みんなに地方の出だよね。ぼくは北海道。歌にも《北》が歌われているよね。あなたは秋田だっけ? ……たいがいは、辛い恋を終わらせるために、女性たちが向かう旅先は、いつだって北だよね? 歌では《連絡船》が定番だし、……」とぼくがいうと、

「さっき歌った《北の宿から》。わたしは連絡船を知らない世代だけど、イメージできるわ」といっている。女たちは勝手に、グラスに水割りをつくって飲んでいる。

ひとりの女性は、ときどき赤く見えるメローイエローの指輪をはめている。光の加減で色がさまざまに変化する。

「あなたの指、きれいだね。指輪モデルになれそうだよ」というと、

「ええっ! お父さんにいわれると、わたし、その気になっちゃいそう」といっている。

「さあ、だれか《小指の想い出》、歌ってくれないかな」というと、

「わたし、歌います」といって、ひとりが立ち上がった。そのとき、テーブルが持ち上がって、グラスが数本ひっくり返った。

「ごめんなさい」濡れたのは先輩のH子だった。彼女の真っ白なスラックスは、その前の大事なところだけ、びしょ濡れに濡れた。

おしぼりで拭いたが、パンティまで透けて見える。

「やめてーよ!」といいながら拭いている。濡れてしまったものは、仕方がない。

「それ脱いで乾かせば。……だれも見やしないわよ。でもここのママ、親切よね。わたしたちを残して鍵をあずけて帰ってしまうなんて!」

「いつもそうよ。お父さんがいれば、お父さんに鍵あずけちゃうから。お父さんのおかげよね」といっている。この店には、世田谷警察署のめんめんがやってくる。

ワルはだれも寄りつかない。客はいつも常連さんだ。テレビ局の常連は、ここにいるみんなだ。朝まで歌っても、朝まで眠ってもいいスナックだ。女たちがハメを外したいときは、ぼくといっしょにやってくる。

この店は「楼蘭」という。

そう、あの楼蘭からとった。タクラマカン砂漠にあった小さな国だ。スウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見されるまで、世界のだれも知らなかった国。

もう午前2時をまわっている。眠りたい人は、店の隅っこのじゅうたんの上でもう眠っている。H子は、明日成田を発つので、起こしてあげなければならない。そんなことを考えながらぼくはみんなの顔を酔いながら見つめていた。

大急ぎで仕度をしてコンサートに出かけた。

午後3時開演の直前にホールの席に座った。まず最初はピアノ独奏からはじまった。演奏者の紹介があって、ステージにあらわれたのは、花嫁が着るようなピンク色のウエディングドレス風のコスチュームに身をつつんだそれは可愛い顔の、30代とおぼしき女性。

会場から「おーっ」という溜息が洩れた。お辞儀をすると、清楚な胸のふくらみが見え、どこか東京のサントリーホールにでもいるような気分になった。

名前をT育子さんという。

プログラムにあるように、「子供の領分」より3曲。「グラドウス・アド・パルナッスム博士」、「人形へのセレナーデ」、「ゴリウォークのケークウォーク」。――これは、ドビュッシーの作曲である。ドビュッシーの4歳になる娘のために作曲したという。とてもユーモラスな曲だ。ドビュッシーといえば、交響詩「海」、あるいは、「牧神の午後への前奏曲」が有名だ。

これがまたすばらしかった。終わってから、あまりのすばらしさに場内から喝采の拍手とともに、後ろの席から溜息が漏れた。後ろの席に70代ふうのおばあさんがふたりいた。

ふたりは、しきりに溜息をついている。

――ヨーコの話では、オペラのアリアが歌われるという。

なるほどプッチーニのオペラ「トスカ」より、第2幕で歌われる「歌に生き恋に生き」が歌われた。これはオペラの定番である。プッチーニが残してくれたオペラ「蝶々夫人」、「ラ・ボエーム」とともに、現代オペラにはなくてはならない優れた名曲である。

しかしこのアリアは、だれもが歌うけれど、けっしてあのレナータ・ティバルディのようには歌えない。彼女の声を一度でも耳にしているオペラ・ファンは、悲しいかな、ますますレナータ・ティバルディの声を聴きたくなるだけである。

聴き終わって、拍手をしたとき、このアリアをはじめて聴いた高校生のころのじぶんを想い出した。まだ自分は17歳だった。

ラジオから流れてくる荘重な趣きの歌声は、魂まで震撼されそうだった。おなじプッチーニの「トスカ」第3幕で歌われる「星も光りぬ」は、なかでも圧巻だ。

 星は輝き、大地はかぐわしい匂いに満ちていた。

 菜園の扉が軋み、

 そのあゆみは、軽く砂地を掠める。

 あの人が、かぐわしく、入ってきて、

 わたしの腕の中に倒れかかる……。

 おお、甘いくちづけ、おお、悩ましい愛撫!

 わたしは震えながら、あの人のヴェールを取り去り、

 その美しい姿をあらわにする。

 わたしの愛の夢は、永遠に消えてしまった。

 時はすぎゆき、……

 絶望のうちにわたしは死ぬのだ!

 今まで、わたしはこれほど命をいとおしんだことはない!

 E Iucevan le stele ed olezzava

 La terra, stridea l’uscio

 Dell’orto, e un passo sfiorava la rena ……

 Entrava, ella, fragrante, ……

 Mi cadea fra le braccia ……

 Oh, dolci baci, o languide earezze,

 Mentr’io fremente

 Le belle fome discioliea dai velit !

 Svani par sempre il sogno mio d’amore ……

 L'ora è fuggita……

 E muoio disperato !

 E non ho amato mai tanto la vita !

 

――というイタリア語の歌詞が耳にひびく。17歳だったじぶんは、このアリアを聴いて、なんともいえない心地になった。イタリアへ行こう! 咄嗟にそう思った。――そんなことを想い出しながら、ステージで歌う歌声に魅入っていた。

きょう帰宅して、レナータ・スコットのイメージを抱いて仮眠した。すると、ジュゼッペ・ディ・ステファーノの「星は光りぬ」の歌声が聞こえてきたではないか。

 

 おお、甘いくちづけ、おお、悩ましい愛撫!

 わたしは震えながら、あの人のヴェールを取り去り、

 その美しい姿をあらわにする。

 わたしの愛の夢は、永遠に消えてしまった。

去年の暮れ、クリスマスの日だった。

ぼくが都内に出かけた日、部屋に帰ると真っ暗で、ヨーコの書置きがテーブルの上にちょこんとのっていた。それには、こう書かれていた。《越谷まで出かけます。お父さんの好きな狂った果実、食べて》

「なに? 狂った果実だって?」

歌の文句じゃあるまいし、見れば、たかがアボカドじゃないか、とおもってくすくす笑っていたら、アボカドの下に敷いてあるもう一枚の紙に、「食べるまえに、よく考えて」と書かれている。何を考えろっていうのだろうとおもう。

テレビ局にいた女性から手紙を受け取った日のことをおもい出した。

その彼女から別便でアボカドが送られてきた。おいしかったが、

「晴子さんていうの? ……その人、どの程度つきあった女性なの?」とヨーコがきいた。彼女たちの先輩格にあたる、当時30歳の独身のH子だった。彼女とは7年間つきあったが、7年目にようやく恋人ができて結婚し、子供が生まれた。ひさしぶりの便りだった。写真は入っていなかったが、横浜で幸せに暮らしているようだ。

そういえば、いまおもい出したが、深夜、あのときコンビニエンスストアで、ぼくは何か買い物をして、ついでに男物のブリーフを買ったのだ。濡れたH子のパンティと履きかえたのだった。

ヨーコはそれ以来、アボカドを見ると、「好きになれない」といった。

H子とは何もなくても、「何かあるんでしょう? だからアボカドなんか、送ってきたんじゃないの」とヨーコはいっている。

いまさら誤解だよ、といってもはじまらない。

アボカド名は、ナワトル語で「睾丸」を意味していることは最近知った。

ものの本には、「古典ナワトル語で睾丸を指す語としては ātetl という語形のほうが一般的である」と書かれている。もしかしたら、ヨーコはその意味を知っているのだろうか?