「諸君は日本帝国海軍のストである」

 

きのう新越谷で、絵画の会「俊青会」の仲間たちと4人(男性2人、女性2人)で会った。会の代表で主催者である高橋俊景画伯は、急に無口になり、みんなの話をじっと聴いていた。

で、ぼくはいま取り組んでいる小説のプロットについて話しはじめると、隣りに座っていたKさんが突然しゃべりはじめた。

「わたしは、田中さんが小学校から帰ると、毎日、ホヤつきランプのホヤを磨くのが日課となり、ふだんは5分芯の明かりで暮らしていて、来客があると、明るさを全開にして、いつも何かがはじまるのです。子守りのナターシャの言いつけで街の鍛冶屋さんまで馬の蹄(ひづめ)処理のお代を支払いに出かけたりします。鍛冶屋のおじさんとの会話が素敵。

ある日、目がさめて、ぐずぐずしていたら遅刻してしまった。泣きながらわーわーいっていたら、父が言った。

「ついてこい!」――父は馬に鞍をつけ、じぶんを前に載せると、しっかりつかまっておれ!といって、馬を走らせます。……そんな小説が好き」といった。

じぶんは、そういう過去のじぶんの書いた小説群をすっかり忘れていました。

「北海道時代の田中さんの家族との暮らしや、数々の夫婦喧嘩のてんまつ、大学生になってからの田中さん、そして青春時代から東京・虎ノ門の一等地に会社を設立、その苦闘の展開がおもしろいとおもいます。そして、地域医療計画を策定した国の予算を確保して、日本初のリースによる病院を建てて成功なさったこと。そんな小説をもう一度読んでみたいとおもいます」といった。

――さて、「日本の軍国主義には、目を見張るものがある」と、友人はいった。――その話をしてみたい。

言論弾圧と中国大陸への侵攻、政府の予想を超えて軍部のなかば強圧的な作戦で、日本は、中国大陸への野望へと奔っていた。さて、太平洋戦争はいつはじまったのか?

そういう質問に、多くの人は、昭和16年12月7日(日本時間)、日本がパールハーバーの爆撃をもって、太平洋戦争の火ぶたが切られたとおもわれている。

日本軍は千島列島の北端に海軍基地と飛行場を設け、本土防衛の最前線基地とした。太平洋戦争はハワイの真珠湾攻撃からはじまったといわれている。

日本の空母艦隊が出撃拠点にしたのは、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)だった。日本軍はさらに、アメリカの領土であるアリューシャン列島のキスカ島、アッツ島を占領して守備隊を送り込んだ。アリューシャン列島をすすめばアラスカ本土に到達することができる。

日本軍は、北太平洋の洋上に弧を描いて連なるアリューシャン列島、千島列島を島伝いにたどる作戦を敷いたのである。

ところが、ホノルルに落とされた爆弾が、世界規模の戦争の幕開けを告げたのではなかった。日本はその前に、マラヤ東岸のコタバルにすでに上陸を開始し、そして香港を攻撃していたのである。日本は、アメリカ本土よりも、イギリスを先に攻撃している。

そういうことから、じつは太平洋戦争は、日英戦争であったと論ずる人もいる。それはロンドン大学のアントニー・ベストという教授で、彼の専門は日英関係史である。「British Intelligence and Japanese in Asia, 1914-1941」に詳しく書かれている。

そして、近年発表され、訳出された「大英帝国の親日派」(武田知己訳、中央公論新社、2015年)という本にも書かれている。

アントニー・ベストは、この現代史を、人物中心に読み解こうという試みをおこない、生きた歴史としてまとめていることに、ぼくはたいへん気に入った。太平洋戦争を、イギリス側から眺めた良書として、たいへんインパクトがあった。日英相克の関係史は、じつにおもしろいとおもう。

日中戦争は、イギリスは中国をひとつの近代国家として成長し、イギリス貿易と金融にたいして有望な市場となるだろうと期待した戦争であったのに対して、日本は帝国主義国家として、政治的にも、経済的にも支配することができるような弱い中国を望んでいたのである。

日本は、中国の門戸開放など、少しものぞんではいなかった。不幸なことに、イギリスは、中国と満州における門戸開放が、日本によって蹂躙されるのを見逃していた。

ヨーロッパ戦線でのドイツ軍の侵略は、イギリスを孤立へと押いやる結果を招き、極東問題に国力を集中させる余裕がなくなっていた。その結果、両国はしだいに政策的相違点がひろがっていった。

1937年ごろのイギリスは、日中戦争がはじまると、外務省の方針は、中国の対日抵抗運動を目立ないように支援する動きに転じた。そのため、イギリスはアジアの拠点で勢力を失いながらも、日本と妥協しておれば、リスクの大きい二面戦争に突入することが回避できると考えるようになった。

ドイツと同盟を結んでいる日本。――

イギリスはそのドイツと戦争している。日本を第2のドイツにしたくはなかった。そのために、日本との宥和論がイギリス外務省を中心に沸き起こった、というのである。そうすれば、へたをすれば、イギリスはアメリカという同盟国を失いかねない。

戦争初期のころは、イギリス海軍は日本海軍の勢力に太刀打ちできなかった。アントニー・ベスト教授の研究は、イギリスは、なぜ日本宥和をとろうとしたか? という研究である。

日本の満州国運営に少なからず、イギリスは同情していた。植民地支配にかけては、イギリスの右に出る国はなかったにもかかわらず、1940年代は、イギリスの発言は、もはや正統性を見失っていた。

けっきょくイギリス政府を動かしていたネヴィル・チェンバレンの政策、――対日宥和政策――は、これも実をむすぶことはなかったのである。

そして、日本は戦争にやぶれ、憲法で「戦争」を放棄した。この180度転換のおかけで、戦後70年間、平和国家として、1坪の領土も奪わず、ひとりの兵士も失わず、だれからも蹂躙(じゅうりん)されることなく、何はともあれ、55年体制を維持して、望んでもいなかった驚異の高度経済成長を成し遂げ、戦争の話は、もはや昔話にさえならなくなった。

それは確かなことではあるけれど、戦時中のイギリス外交の真実は、われわれ日本人にはわからなかったのである。

余談になるが、イギリス人に、真に武士道を熟知している男がいた。

「武士道とは、……」といって語りはじめたのは、元大英帝国海軍士官のサムエル・フォール氏だった。名前はたんに「サム」とも呼ばれる。

フォール卿の自伝「私の幸福な人生(Sam Falle, My Lucky Life)」という本はすばらしく、邦訳は「ありがとう武士道」(麗澤大学出版会)とタイトルがつけられて、2011年に出版されている。ぼくはそれを読んでたいへん感動した。

自伝では、フォール卿自身の人生が回想され、自伝を書くのが大好きなイギリス人なら、どこにでもあるような、ありふれた本のように見える。

ところが、そのなかで語られる、第2次世界大戦でのイギリス海軍と日本海軍との海戦のもようには、目を見張るものがある。

時は、大戦がはじまって間もない、昭和17年2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島スラヴァヤ沖で、考えられないような出来事が起こった。日本艦隊と英米蘭の連合艦隊との激突だ。

とうじの戦況は日本艦隊が圧倒的に優位で、連合艦隊の何隻かは日本軍の猛攻をうけて沈没した。

そのなかにイギリス海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」があった。彼らの母船が沈没して、乗組員422名は海上に漂流していた。

流出した油で、彼らの目は見えなくなり、サメにやられるなどして、ボートにつかまって援軍がくるのを待ちつづけていた。そんな状況で、2日間も飲まず食わずで漂流。

フォール卿もそのひとりだった。

時間の経過とともに海のなかに消えていく者もいた。もう生存の限界を超えていた。そのとき、海にあらわれたのが日本海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」だった。駆逐艦が漂流する敵兵に向かってきたのである。

フォール卿は、日本人は非情な国民だ、とおもっていた。

われわれは全員殺される。

日本軍の機銃掃射をうけ、ここにいる仲間は全員海の藻屑と消えることを覚悟した。いよいよわれわれは最期を迎えると。

ところが、目のまえにあらわれた巨体のマストには、「救難活動中」という国際信号旗がかかっているのが見えた。信じられないような旗である。

それからは、彼らの救助が開始された。

そこに漂流している人間だけでなく、遠くでひとり海に浮かんでいる人を認めると、そっちのほうまで救助に向かった。漂流者全員で422名に達した。駆逐艦の乗組員の2倍に達した。

工藤俊作艦長は、士官以上の者をあつめて甲板で演説した。

「諸君は、名誉あるわが艦のゲストである」と。

しかも流暢な英語で演説した。

それを聴いたフォール卿は、いままでの日本人像を切り捨て、なんてすばらしい武士道だろうと考えたそうだ。

戦うときには精一杯に戦う。だが、闘いがおわればお互いに健闘したことを称え合い、敗者になってダメージを受けている者は救わねばならない。武士道が教えるフェアな戦いが、どんなにすばらしいかを身をもっておもい知らされたという話である。日本海軍だけは、戦時中もだれでも英語を勉強し、英語が話せた。

フォール卿は、つぎのように書いている。

「私は、緑のシャツとカーキー色の半ズボンと運動靴を支給された。それから艦内中央のひろい空間に案内され、すわり心地のよい籐椅子に座るよう慇懃(いんぎん)にいわれた。

ホットミルク、缶詰の牛肉、ビスケットをふるまわれた。

しばらくすると駆逐艦の艦長が艦橋から降りてきて、敬礼をし、英語で挨拶した。《諸君は果敢に戦かわれた。いま、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客(ゲスト)である、私は英国海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実に愚かである。》と。――この話は、フォール卿の本を読むまでだれも知らなかったのである。