■ある青年に送る手紙。――

Oh Marie(マリー)

(ひとみ)閉じて、……4

 

この「無益」ということばで、ひとつ思い出すことがあります。

無益であることを知りながら、その労働をつづけられるものだろうか、ということです。――むかしロシアの刑罰に死刑よりも重い刑罰がありました。

死刑にしないかわりに、受刑者を生かしながら、死ぬまで労働させるという刑です。それはいいのですが、何をさせるかというと、砂山の砂を、何キロも離れたところへ運ばせます。彼は10年以上もかかって、砂山の砂を運び終えます。

すると、こんどはその砂山を、もとのところに戻すという労働を命じられます。

それを聞いた受刑者は、いままで自分がやってきた労働に何の価値もなかったことに思いいたります。

無益な労働であることに彼は打ちのめされ、たちまち気が狂って倒れ込んでしまいます。――人は狂います。労働に意味がなければ生きてはいけませんね。労働がまったく報われないからです。これほど悲しいことはないでしょう。

人間の、ひたぶるにはたらく意欲は、報われるものがあるからはたらけるわけです。報われるのは、けっして自分だけじゃない。多くの人びとが報われると思えば、ますます労働に意欲が出てきます。意欲があるのにはたらけない。そういうとき、人間はますますそのハードルを越えたいと思いはじめます。

からだが悪くてはたらけないのならば、からだを治そうとするでしょうし、それもダメならば、たとえば正岡子規ならば、病臥しながらでも世の中のために写生文芸という形式を考えるでしょう。

それが、わが国の近代俳句のスタートとなりました。なんの才能のない人でも、りっぱな人はゴマンといます。そういう人は、こころが健康です。かんぜんにクリアーです。それに輝いています。

――先日は、女流数学者コワレススカヤの「コワレススカヤ定理」や、ゲーデルの「不完全定理」、インドのラマルジャンの話などをしたと思います。

「コワレススカヤ定理」は、ある条件を加えれば将来が計算できるという定理です。それから、「ピュタゴラスの定理」をめぐって、永遠を計算する「フエルマーの最終定理」の話をしたと思います。

人類は、もう「永遠」を計算できるようになりました。

コンピュータでさえ計算できない数論を確立しました。これを「アンドリュー・ワイルズの定理」といいます。なんと22500年間の叡智の結集です。

しかし、それでも人間にはまだまだ分からないことのほうが、ずっと多いんです。それを「無知の知」というわけです。知らないということを知るわけです。たった17個の素粒子を発見するのに、80年もかかっています。

しかし世界はひろい。宇宙はもっとひろい。

ぼくらのいる地球は太陽系に位置し、太陽系宇宙は、銀河系宇宙の端っこにあるいわれます。太陽が銀河系宇宙をひとまわりするのに、光の速さで2億年もかかるといわれます。

地球から月まで、光速で1秒かかります。太陽までは8分かかります。

そのことから考えますと、2億光年というのは、とんでもない時間で、想像もできない巨大な宇宙といえます。――宇宙学者たちは、その2億光年という時間を「1宇宙年」としています。

この2億年を1年にたとえた学者がいます。

それによれば、地球上に原始的な生命があらわれたのが6年まえで、1年まえには恐竜が歩きまわっていたと書かれています。

最初の人間があらわれたのは、つい昨日のことになります。

人間が進化しておしゃべりするようになったのは、4時間まえ。文明を築いたのは1時間とすこしまえ。イエス・キリストが生まれたのは5分15秒ほどまえで、ナポレオンが退位したのは25秒まえ。日蓮が亡くなったのは1分50秒ほどまえということになりそうです。

ついさっき、日蓮さんがお庭を散歩されていた、そういってもいいでしょうね。

すると、視野をもたない現代人は、なんと狭いところで狭い考えに囚われているか、ということですね。

自分のことしか考えず、自分の視野しか信用しない。自分のいのちは、自分のものだと思ってしまう。形のある財産も自分のものならば、形のないものも自分の所有物にしたがります。

自分のものと思うので、それは自由になると思ってしまいます。

 いのちがなくなるとき、人は自由に意のままにならないので、悩んだり恐れたりします。そうじゃないでしょうか。所有物として自分に報われたくてはたらくのではなく、人びと(仏教では衆生といいます)のために報われるからはたらくわけです。

「お父さん、どうか生きていてください」という娘のために、フランクルはナチスのつくった収容所からの生還を果たしました。自分のためじゃないんです。彼は実存的精神医学を確立させた人で、「夜と霧」の作者です。実体のない恐怖感と絶望感で、いのちをなくしていくユダヤ人を見てきたフランクルは、人間のこころがいかに病めるものであるかを考えました。キルケゴールという人は「死にいたる病い」を書いた哲学者ですが、「死にいたる病い」とは、絶望のことであると書かれています。

でも、自分が死ぬことを知っていると述べた人もいます。ご存じのように「レ・パンセ」を書いたパスカルです。

で、有名な「考える葦」の文章には、こう綴られています。

日本人は「人間は考える葦である」と多くの人が記憶していると思いますが、ほんとうは違うんです。原文をまっすぐ訳せば、つぎのようになります。

 

 人間は一本の弱い葦にすぎない。

 自然のなかで一番弱いもの。だか、考える葦である。

 (そして、次がすごい!)

 これを押しつぶすには、全宇宙は何も武装する必要がない。

 一吹きの蒸気、一滴の水でもこれを殺すには充分である。

 しかし宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより

 尊いであろう。人間は自然が死ぬこと、宇宙が自分よりまさっ

 ていることを知っているからである。

 宇宙はそんなことは、何も知らない。

 だから、わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。

 

これは「マタイによる福音書」12章21節の「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」から取ってきた「葦」のこととされています。

ブレーズ・パスカルは、人が死の直前に読むことのできる稀な作家のひとりといわれます。――そういったのは、J・シェヴァリエという人です。

親鸞にも通ずる他力本願の思想でしょうか。

「人間は考える葦である。……」などとはパスカルはいっていないのです。文意としては「人間は考える葦」といっているように聞こえますが、「自然のなかで一番弱いもの」といい、これは「傷ついた葦を折らず」の聖句の一解釈を示す文章となっています。

ですから、小林秀雄氏は、そのような洒落て読む日本人の、洒落にもならないフレーズを鵜呑みにする読解は、良薬にもならないといっています。彼の「様々なる衣裳」だったでしょうか。

三木清氏は、そのデビュー作「パスカルにおける人間の研究」のなかで、もっと詳しく、情熱的にのべています。

三木が29歳のとき、これをドイツで書いています。

岩波書店の岩波茂雄社主にその原稿を送り、彼のデビュー作となります。そして、岩波文庫の最後のページにある「読書子に寄す」という一文は、三木の筆によって書かれました。

ぼくは「三木清全集」(全20巻)を学生時代に苦労して買い求め、それで読みました。つまり、人間は考えることによって、自分の身の処し方を決断することができるけれど、動物は、そうはいかない。しかし、たいていの人間は、溺れそうになると、動物のように死ぬ。そういうことはわかっていても、虚しく懸命にもがく。もがいて、もがいて、もがき苦しみの果てに死んでいくだろう。

それはなぜだろうか? ――「人間は考える葦である」というけれど、「葦」になれずに「考える」こともせず、気晴らしに耽って一生を終えるからだというんです。

パスカルは、衆生を観想する哲学者でした。

自分が死ぬことを知る人でした。人が死ぬことを知る人でした。人間の死において、希望を綴っているわけです。こころ安らかに死ぬことを教えています。

つい、余計なことをながながと書いてしまいました。

科学もビジネスも、じつは人間研究なんだとぼくは思います。

ですから、ぼくは小説を書かずにはおれないんです。どんな人でも自分の物語をもっているものです。人は物語を語らずにはおれないんです。

息子が、ちょっとばかし元気をなくしているとき、あるいは、何かに迷っているとき、ちょっと何かいいたくなるものですが、そういう気持ちで、この手紙を綴りました。貴兄と会って、かつての自分に出会ったような気分になりました。――いつかまた、どこかでお会いしましょう。

……何か、聞こえてきますね。

 

 不生亦不滅 不常亦不断

 不一亦不異 不来亦不去

 能説是因縁 善滅諸戯論

 我稽首礼仏 諸説中第一

 

羅什訳を書きくだせば、つぎのようになります。

 

 生ずることなく滅することなく、常ならず断ならず、

 一ならず異ならず、来ることなく去ることなし。

 よくこの因縁を説き、善くもろもろの戯論を滅したる、

 説者中の第一人者たるブッダに我は稽首す。

 

 Oh Marie(マリー)瞳(ひとみ)閉じて 覚えているかい あのころを

 傷ついても

 おれを信じてくれた

 なけなしの愛で 夢を買ったよ

 おまえだけが ささえてくれた

 もう迷いはしないぜ いつまでもおまえだけを

 この腕ひろげて 守りたいのさ 抱きしめてあげよう

 Oh Marie Thank You for My Angel

 おまえに会えてよかったぜ

 やさしいこの人 すべて出会いのままさ

 たとえこの街 消えうせても

 心はひとつ 変わらぬふたり