■ハリウッド映画。――
イングリッド・バーグマンの時代
イングリッド・バーグマン
ぼくは、7つ年上のロッキーと会わなくなって4年になろうとしている。ロッキーは、都内港区の某病院に入院中である。認知症を患っているので、たばこを持たせていないそうだ。火が危険だといっている。
そりゃあそうだけれど、あれほど好きなたばこを取り上げるなんて、家族のやることではない! とおもう。いっしょにいるときぐらい、たばこを吸わせることを家族のだれも考えてあげないというわけだ。
以来、ぼくとの面会も拒絶されている。ぼくはただ、ロッキーに会って、映画の話でもしたいなとおもっているに過ぎない。
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ヴィヴィアン・リー、キャサリン ・ヘップバーン、マレーネ・ディートリッヒ、――映画の世界で、それぞれ奔放な恋愛を追い求めた女優たち。イングリッド・バーグマンもそうだった。
先年、げんきなころ、草加にやってきたロッキーは、なかでもイングリッド・バーグマンの大ファンで、彼女にかんする資料をけっこうあつめていることがわかった。あつめているだけでなく、彼女の出る映画のほとんどをよく覚えていて、セリフまで諳んじている。
「そのセリフは何ですか?」ときくと、
「ほら、映画《カサブランカ》ですよ」という。
映画「カサブランカ」。左からラズロ、イルザ、リック。――イングリッド・バーグマンは身長175センチ、ハンフリー・ボガートは173センチだった。
「ガス燈」は1940年の映画だ。「カサブランカ」は1942年。この年ぼくが生まれた。
「誰(た)がために鐘は鳴る」は翌年の43年公開。
「聖メリーの鐘」は45年公開。
矢継ぎ早にヒット作を世に送り出し、彼女は若くしてスターダムへの階段を駆けのぼった。
彼女のそばにはヘミングウェイがいた。ヘミングウェイと親しかった戦場のカメラマン、ロバート・キャパとも深い恋愛関係にあった。イングリッドがキャパに出会ったのは1945年、終戦間もないころのことで、カメラを手に戦場を駆けめぐった男に、彼女は惹きつけられていく。
そして人生の転機を迎える。
1949年、イングリッドが人気の頂点にいたとき、彼女はハリウッドを離れてイタリアに渡った。イタリア人監督のロベルト・ロッセリーニとの不倫が原因だった。それ以来、イングリッドはアメリカの多くのファンから非難を浴び、ながいあいだ、アメリカへの入国を禁じられた。
そのあたりのことはぼくはくわしくないので、よくはわからないけれど、「外国人がこの国にいたければ、モラルに従え」という根強いアメリカ式モラルを持ち出して、彼女を叩いたのはほんとうらしい。
それから7年後だったか、彼女は奇跡のカムバックを遂げた。
「ロッキー、この件はどうおもいますか?」ときくと、
「アメリカってさ、古いモラルを持ち出す国民だからねェ」という。「スウェーデンからやってきて、ハリウッドの大スターになったことへのやっかみもあったんでしょうな」という。
それにしても、イングリッドに魅せられたファンは、いっぱいいたようだ。
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彼女の自伝「マイ・ストーリー」、――ほとんど晩年に書かれた本だが、これには、いろいろ書かれている。「女優にとって、愛と仕事は分かちようがない」などといっている。
それから時代はくだって、1978年、「秋のソナタ」が公開される。これはスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督の映画だ。この映画もよかった。彼女はそのころ病いにかかっていたが、それを押して取り組んだ映画だ。
このベルイマン監督とのやりとりは見もので、あとで知ったことだけれど、ベルイマン監督のいいなりにはなっていなかった。娘役を演じたスウェーデンの女優リヴ・ウルマンは、撮影中に監督とイングリッドの衝突する場面を目撃しているという話が伝わっている。
「ふたりはドアの向こうで激しく怒鳴り合っていた。映画はもう終わりだとおもったわ」(井上篤夫「永遠のヒロイン」NHK取材班、NHK出版、2011年)という証言がある。
イングマール・ベルイマン監督といえば、20世紀のスウェーデンを代表する芸術家のひとりである。彼の「野いちご」(1957年)をぼくは学生のころに見て、大きなショックを受けた。はじめはよくわからなかった。
これは老人の夢想を描いた映画で、手法があまりにも斬新で、なにか惹きつけられて、ぼくは何回か見ている。ある人の話では、ベルイマン監督は妥協をいっさいゆるさない厳しい監督だったというけれど、「秋のソナタ」を撮るイングリッドにはかなり手こずったようだ。べつの人はイングリッドの映画のなかで最高の演技を見たといっている。
ある女流ピアニストが、長年訪れることのなかった娘を訪ねるシーンからその物語がはじまる。
家庭というものを顧みることのなかったピアニストの母は、そのことを恨みにおもう娘と、たがいにわかり合おうとするのだが、とうとうわかり合うことができないという断絶が、この映画の主題である。
ぼくが見るかぎり、イングリッド(当時62歳)の演技は、これまでの役柄にはなかった凄みがあり、そのクライマックスのシーンをめぐって、監督と衝突するという話である。
「つまらないストーリーだわ。もっとウィットを利かせるべきね。イングマール、あなたは楽しい人なのに、書くときはつまらないのね」という、イングリッドのことばが残されている。
ベルイマン「これがいいづらいかい?」
イングリッド「だって……寝ているなんて……」
ベルイマン「私のことをバカな脚本家だと思っているんだろうね?」
ベルイマンのいいたかったことは、ピアニストというのは、ほぼ間違いなく腰痛を抱えており、そのために床に寝転ぶことを好むものだ、ということをいいたかったのだろう。
イングリッド「変よ、イングマール。シリアスなシーンなのに寝転がるなんて、いやよ、観客に笑われちゃうわ」
まわりのスタッフは、固唾をのんで、ふたりのやりとりを聴いている。しかしこのシーンでは、イングリッドが床に寝そべってセリフをいっている。「いいわ。床に寝そべればいいのね」といいながら、彼女は床に寝そべったのである。
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だからといって、ぼくはイングリッドが、ことあるごとに監督に「説明してください」とか、つぎつぎに質問をする、そういう女優だとはおもってはいない。彼女はのちに書いているように、イングリッドはこの映画をよく理解していなかったのである。
「ぼくもそうおもうよ。《秋のソナタ》はすごい映画だよ。彼女にしか演じられない凄みがある」とロッキーはいっていた。
「それにしてもロッキー、イングリッドの映画のなかで、やっぱり《カサブランカ》が最高ですか?」と質問してみた。
「そりゃあそうだよ。あれは、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの映画さ。彼らのどちらかひとりを抜きにしては、ぜったいに成り立たない映画だね」という。
この映画を最初に企画されたとき、男はハンフリー・ボガードじゃなくて、ロナルド・レーガンだった。相手の女はアン・シェリダンという女優だった。このふたりによる共演で「カサブランカ」を撮っていたら、もしかしたら、あの名画はなかったかもしれない。ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンは最高のふたりだ、といまさらながらおもう。
「映画の最後がいいねえ、……」とロッキーがいった。
映画では、イルザ・ランドだけ飛行機に乗る。リックもいっしょに乗るはずだったが、べつの紳士を乗せる。
「ロッキー、そのべつの紳士のことですが、これにはモデルがいるんです。ご存知ですか?」
「いや、知らないね」といった。
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵である。
青山光子の息子。
父はオーストリア=ハンガリー帝国駐日特命全権大使だったハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵。母は、東京牛込出身の日本人青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー・光子)。
1923年に出版された彼の「パン・ヨーロッパ」によって、華々しくヨーロッパ文壇にデビューしたその男である。
彼はみずから政治活動に乗りだし、そのパン・ヨーロッパ運動の盛り上がりで、ヨーロッパ統合運動は、現在では、EUの父のひとりともいわれている人物で、1938年、ナチス・ドイツによってオーストリアは併合され、ウィーンのパン・ヨーロッパ事務局は占拠されて、伯爵は、逃避行のすえスイスに逃れる。
さらにナチス・ドイツの攻勢が強まると、1940年には米国への亡命を余儀なくされ、映画では、カサブランカから米国への脱出をはかったとされている人物なのである。
彼は危ういところで、リックに助けられて、米国への亡命に成功する。そういう筋書きの映画だった。