水盆にらず】

 

神山幹夫先生のメールのお便りのなかで考えた日本語の魅力について何か突然書きたくなりました。日本語ブームが巻き起こったのは2010年(平成22年)ごろでしょうか。リルケの「マルテの手記」。ああ、なつかしいですね。

ぼくも大山定一先生の訳でいろいろ読ませていただきました。

ぼくは大学では、中世英語、中世仏語、ラテン語を勉強しましたが、ドイツ語は単位を取っただけです。イエスペルセンの英文法を学び、それに刺激されて、1066年から300年間、イギリスの公用語になった仏語についてちょっと勉強したことがあります。

先生にいうと、

「学部生には、ちょっとムリだよ」といわれ、大学院にいってやりなさい、といわれたことがあります。まあ、なんといいますか、めまぐるしく変わる英語の変遷について勉強しますと、時代とともに英語がいじめられ、むりやり仏語が英語になっていく過程を思い知らされます。

いまごろになって、ぼくなりの英語変遷史みたいな記事や、英語辞典の発達史みたいなものを好き勝手に書いたりしております。

ぼくはときどき道をまちがえたのではないか、とおもうことがあります。ビジネスをしながら、ぼくのカバンのなかにはそういう本が入っていました。それが楽しかったのをおぼえております。でも、ぼくの英文学は、タカが知れています。

たとえば、英詩、――ぼくはよく詩を読みます。――高校生の娘が英語がよくわからないというものですから、むかし娘のために、「19世紀・アメリカの詩人たち」と題して、いくつかの詩の読み方を書いたり、もしもじぶんが英語の先生ならば、生徒にはこのように教えたい、という話を書いたりしました。

でも、シェイクスピアがわかっても、エミリー・ブロンテはわからない、ということがあります。それもまた、ぼくにとって楽しいわけです。

たとば、英語にはpluck a rose(薔薇を摘む)ということばがあります。英和辞典には「薔薇を摘む」、転じて「(女性が)外でのんびり、息抜きをする」と載っているとおもいますが、英語成句のほんらいの意味は、「用をたす」という意味。

「薔薇を摘んでくる」といって、じつは「用を足して」くるわけです。日本語では古来「勘定する、勘定してくる」といって、外で用を足します。しかし別に勘定してくるわけじゃない。それと似ていることばですね。

「憚(はばか)り」なんていうことばも、人目をはばかる所というわけで、トイレのことを、むかしの人はそういいます。彼女たちも、外で薔薇を摘んでくるわけじゃない。

それに日本もイギリスも、用をたす場所は、母屋から離れた庭にあったからで、いまでは「薔薇を摘んでくる」などといってトイレにはいかないでしょうけれど、ことばにはそれぞれ、つくられた時代がちゃんと反映されていて、そこがおもしろいはずなのに、どうして日本の英和辞典はちゃん解説しないのでしょうか。ちゃんと書かないので、そのまま訳して「薔薇を摘んでくる」と理解してしまいます。フィールディングやダニエル・ディフォーのあたりの文章には、そういうことばが堂々と顔を出します。

リルケの詩は、日本では読まれたほうだとおもいます。

これは大山定一先生の功績ですね。トーマス・マンの「詐欺師フェリックル・クルルの告白」。ぼくは残念ながら読んでおりません。というより、トーマス・マンはほとんど読みませんでした。

でも、神山幹夫先生のお便りによれば「大山先生は、デブ、チビ、ハゲと3拍子そろっておられ、ステテコ姿で朝顔に水をやってるような風貌でしたが、……」という、じつに魅力的な先生だったのですね。

そういう先生に高校時代にドイツ語を学ばれたというのは、神山先生は、とても幸運に恵まれたわけですね。で、東京大学の入試にはドイツ語で受験されたわけですね。高校時代のぼくには、ひとり漢文の柴田強先生がおられ、後に、先生は吉林大学の教授になり、中国で3年間、日本文学を教えられました。いまでも漢文が読めるのは、先生のおかげです。

神山先生の長文のお便りのなかに、「嵐が丘」の話が出てまいります。――《「嵐が丘」といえば、パリにいたころ、1973年にオックスフォードで小さなコンファレンスがあり、会の後に一人で「嵐吹きすさぶ」ヨークシャーにいく計画を立てていました。そしたら、オーストラリアの同業者がロンドンに来ていて、会いたいという連絡が入り、予定を変更してロンドンに戻りました。それで、Wuthering Heights  は見ずじまいになりました。残念でした。》と書かれております。

ぼくも、ロンドン大学にいたときも、Wuthering Heightsを見る機会がありませんでした。

《一般に流布している"Wuthering Heights" は姉のシャーロットが手を入れた第2版ですが、去年11月、Penguin Classics から1847年の初版本が出たというので買いましたがまだ読んでいません。》とありますが、そんな本があるのですね。ぼくは知りませんでした。

水村美苗さんの本といえば、ぼくは「本格小説」しか読んでいません。「嵐が丘」を下敷きにして書かれたというので、読んでみました。ははーんとおもいました。きれいな文章を書かれるので、好きになりました。

この方は日本語について、いろいろ論説風の記事を書かれていたとおもいます。水村美苗さんの文章は、エミリー・ブロンテ同様に、ごつごつした岩肌を描くときは、ごつごつした日本語を持ってきます。

すばらしい文章です。

 

田中幸光 顕正会本部にて

 

でも、水村美苗さんのお書きになった「日本語が滅びるとき――英語の世紀の中で」(筑摩書房、2008年)という本にはがっかりさせられました。インターネットを追い風に、強まる英語の覇権から「日本語をいかに護るか」を訴えた憂国の書だと尾崎真理子さんという人の書評欄には解説されていましたが、じっさいに読んでみますと、そんな感じは微塵もありません。

なぜ日本語ブームなのかを見てみますと、

 

 「自然や庭園などが美しい」

 「街並みなどが清潔」

 「人が親切で優しい」

 「交通が便利」

 

それらの印象はアメリカの「タイム」という有力雑誌が毎年公表している「世界最高の国ランキング世界20カ国の好感度」調査結果にちゃんと裏付けられています。

第1回目の世界20カ国の好感度上位5カ国をながめてみますと、一位が日本(77%)、二位がドイツ(72%)、三位がシンガポール(71%)とつづき、四位がまた7%下がって米国(64%)、五位が中国(62%)の順でした。

日本の評判のよさは、外国語としての日本語の魅力に深くかかわっていることはじゅうぶん認められるでしょう。さいきんは日本は三位になっています。世界のなかでの第三位もりっぱです。経済大国としての第三位でもあります。

この「嵐が丘」には、荒地の岩塊に刻んだ「巨大な、陰鬱な、なかば彫像であり、なかば岩である」と書きしるしておりまして、それはけだし名言ですね。

ぼくが見るところ、さらに、登場人物のロックウッド(Lockwood=Rockwood)は、「岩盤」であるとともに「留め金」であり、野島秀勝氏の説によれば、アラビア神話にでてくる「怪鳥」であり、荒涼としたヒースの森の出来事を記録する「木版」でもあることに気づかされます。

「嵐が丘」の文章をもっとも研究したのは、アメリカの作家N・ホーソンではなかったでしょうか。ホーソンの「緋文字」。――N・ホーソンの「スカーレット・レター(緋文字)」のへスター・プリンが牧師と姦通し、胸に「恥の姦通(Adultery)」を意味する頭文字の「A」を縫い付けられたように、「嵐が丘」のキャサリンのそれと同質かもしれません。

ただちょっと違うのは、へスター・プリンの場合は、むしろそれを誇りにし、「A」を最後まで胸に堂々と縫い付けて歩き、いつしか、周囲のものたちも彼女に同情を寄せ、徐々に近代的な自我を身につけていき、社会もそれを赦すようになっていくところでしょうか。

ホーソンがイタリアで受けたベアトリーチェ・チェンチ事件の衝撃を、この「緋文字」に生かした、とぼくにはおもえます。

もとより、へスター・プリンの姦通罪は、現在では姦通罪ではなく、彼女は前夫とは離婚がすでに成立しております。ニュー・イングランドの当時の風潮は、もっともっと宗教的なもので厳しく、元妻の自由さえなかったとおもわれます。そこにホーソンが書こうとした主題があったのではないでしょうか。

コロンビア大学に「ドナルド・キーン・センター」というのがあるのですね。のぞいてみたくなります。いま、日本時間午後0時40分です。いろいろ書いていただき、ありがとうございます。

ぼくの学生時代は、明治大学文学部に籍をおき、評論研究で、中村光夫、平野謙、本多秋吾、唐木順三といった先生方の講義を聴いておりました。平野謙さんは、いつもむずかしい顔をしておられましたが、ある日、先生がテキストを忘れてきて、学生にテキストを借りようとしたのですが、40人ほどの学生もまた、テキストを持っていなくて、ぼくだけ持っていて、先生に貸して差し上げたことがあります。

もしもだれも持っていなかったら、先生はむくれたことでしょう。

そのテキストは、平野謙先生の「昭和文学史」(筑摩叢書)という本で、あちこちに、棒線を引っ張ったり、じぶんの意見を書きこんだりしていて、とても恥ずかしいものでした。

講義がおわって、「きみ、名前は?」とききます。

田中ですといいますと、「時間あるか?」とたずねます。ありますと答えると、「コーヒーでも飲もう」とおっしゃって、神田駿河台下のコーヒー店に入りました。何をいわれるのだろうと思っていましたら、松本清張の「天城越え」の話でした。

先生の本の余白に、ぼくは松本清張さんの小説「天城越え」のことを書き込んでいました。くわしいことは忘れましたが、先生の講義は退屈で、ぼくはテキストに、勉強とは関係ないことを書いていたとおもいます。

それを先生に見つかってしまったわけです。

それが縁で、ぼくは平野謙先生とはぐーんと親しくなりました。先生が、松本清張さんの本を読んでいるなんて、ぜんぜん知りませんでしたから。

のちに、平野謙は、新潮文庫に、松本清張の《点と線》や《ゼロの焦点》の解説を書きます。

ぼくは明大マンドリン倶楽部で、古賀政男さん指導のもとで、マンドリンを弾いていましたので、先生、よかったらぼくらのマンドリンを聴いてほしいと頼みました。

たしか、「じゃ、きみの顔を立てて、一度だけだよ」とおっしゃって、しぶしぶ会場に引っ張りこみました。いっしょに作家の高橋和巳さんもやってきて、――高橋和巳先生は、やがて文学部の助教授になられる人です。――平野謙さんと高橋和巳、このおもしろい取り合わせに、ぼくはびっくりしました。そして、舞台の演出家・菅井幸雄教授にも声をかけ、きてくれました。菅井教授は、大木直太郎教授の推薦で、近代演劇の講座をもつことになったばかりのころでした。

なかでも平野謙さんは、――文芸評論家の顔と、ミステリー好きのおじさんの顔をもつ評論家で、このふたつの顔を持っておられた方のことが忘れられません。批評文を書くことをぼくに指導してくださった先生です。

先生からは、高見順の話をたびたび聴いていました。戦後、昭和20年代、坂口安吾は芥川賞の選考委員でもありました。この人は、松本清張の作品を高く買った人です。

この人がもしもいなかったら、昭和26年、松本清張は芥川賞を受賞したかどうか分かりません。松本清張と高見順との選考のやり取りがおもしろかったとおもいます。この論争シーンは、「芥川賞全集」に載っています。戦後の文学論争では、作家広津和郎と評論家の中村光夫との「《異邦人》論争」は有名で、中村光夫は、明大文学部のフランス文学の教授です。

「こんなムルソーの物語は、小説じゃない! アラビア人を殺したのは、太陽のせいだって? こんなのは、小説じゃない」といったのは、広津和郎です。カミュの「異邦人(L,Etranger)」は、1942年に発表されましたが、不条理の哲学から出発し、政治における暴力を否定し、ヒューマニズムを追及したノーベル賞作家でもあります。カミュは自動車事故で47歳で不慮の死を遂げました。

高見順という作家が亡くなったのは、昭和40年でした。

彼は膨大な「高見順日記」を書いています。むろん、「闘病日記」(上下2巻)も書いています。

彼の人生の大部分は、日記にちゃんと書かれているようです。56歳で食道がんになり、それから1年10ヶ月あまりの闘病期間の日記が、のちに「闘病日記」と銘打たれて刊行され、ぼくは読みました。

この人は、がんに倒れてからすばらしい作品を書いたとおもいます。それは「詩集 死の淵より」と題された作品です。

「日記を書くのは、自分との会話のゆえである」と書かれております。

小説や詩などの創作的な表現とはちがい、自分ひとりで考えたことを、そのまま筆にしているだけなのであって、生きたいからそうしたのだと彼はいっています。彼はもっと生きたかったのです。……つまり、死ぬことは、生きることなのだ、そうもいっています。

ぼくもそうおもいました。彼は日記のなかで、痛みと苦しみについて、繰り返し繰り返し生々しく書いていて、最後の文章は、つぎのように書かれています。

 

死の問題はわたしにとって人生の、今までわたしの生きてきた人生の問題である。死の問題という、それだけ切り離して考えられる問題ではない。それは、わたしがこの人生を捧げた文学の問題でもあるということだ。

(高見順「闘病日記」より

 

これが彼の絶筆となりました。

高見順といえば、第1回「高見順賞」を受賞なさった飯島耕一さん、やがて明大教授になられる方の詩集「ゴヤのファーストネームは?」の出版記念パーティに呼んでくれたのは、じぶんの上司・飯島實さんでした。耕一さんは飯島實さんの甥にあたられる方で、耕一さんとははじめてお目にかかりました。

そして、飯島實さんの葬儀会場で、二度目にお会いしました。

飯島耕一さんがあんなにすばらしい方だとは知りませんでした。亡くなられてその大きさを思い知らされます。

「高見がガンになり、死の床で見舞いに来た平野謙に、泣きながら「共産党員として死にたかった」と語ったという話は、うっすらとおぼえております。高見は平野に「僕にはムッター(母)はいるけど、ファーター(父)はいないだろう。だから、共産党は僕のファーターみたいなもんだったんだ」というエピソード、神山幹夫先生の文章を読むまで、ぼくは知りませんでした。ありがとうございます。

それから、桑原武夫さんのお話。ぼくはこの方のことは、ほとんど知りません。次女の行子ちゃんのお話は、ほのぼのとして見えます。

ぼくが雑誌編集をしていたころ、TBSの待合室で、ぐうぜん大家壮一さんとお目にかかり、「マッチを借りたい」といわれたことだけを覚えています。何か、話をすればよかったとおもいました。ふたりとも黙ってたばこを吸っていました。ぼくは24歳、若すぎました。

たばこといえば、――近年、30人ぐらいの現代文化会議の席で、講演者の西部邁氏が、だれかたばこを恵んでくれないか、といい、ぼくのでもよかったらといって、Sevn Starsのたばこを差し出すと、「それは何ミリ?」ときくので、「14ミリ」と答えると、「そんな強いたばこ、肺がんになる!」といいます。

「3ミリ、3ミリでなきゃ、死ぬぞ!」っていうんです。けっきょく、だれもたばこを持っていなくて、しぶしぶ14ミリのSevn Starsを1本吸うことになりました。彼は「ありがとう」ともいいませんでした。

その日の西部邁さんの話は、きょくたんにむずかしかった。

演題の「prosaic」は、もちろん「散文的」という意味なのでしょうが、西部邁氏のいう散文的というのは、イギリス風の「散文的健全性」という意味を持っているらしいのです。ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの順で近代国家が誕生しましたが、日本はずっとあとになってその仲間入りを果たしました。

福沢諭吉や中江兆民の思想は、かんたんにいうと、まやかしであるが、そういうヨーロッパの真似をするな、という思想であったというのです。

福沢諭吉は、理想主義者であったが、いちども現実主義者であったことはない。中江兆民もおなじだといいます。

そういう西部邁氏じしん、共産党党員から転向しています。

そのことにふれ、「転向(conversion)」という語は、もともとは下劣な底辺にいる人間が、神に目覚めるといういい意味を持っているのだから、悪い意味は少しもない、といいます。そこにおいて、「保守の思想は、prosaic(散文的)にしか表現できない」といいます。科学のように、因―果におさめられるような、「こうすれば、ああなる」という単純なものではない、という話でした。

西部邁氏は、札幌南高校のじぶんの先輩にあたる方で、親しみを感じていたのですが、たばこの一件で、おつきあいしたいとはおもわなくなりましたが、西部邁さんの自死は、残念でなりません。