■アメリカ文学。――

シャーウッド・ンダーソンの

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 シャーウッド・アンダーソン(1876―1941年)

 

フィンランドは、隣国ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、長年の国策を大きく転換させたことは、予想されたこととはいえ、ぼくには驚きだった。北大西洋条約機構(「NATO」は英語圏では「ネイトー」と発音しています)への加盟を目指している。

他の欧州連合(EU)加盟国とおなじく、フィンランドは隣国ロシアからの観光目的の入国を大幅に制限した。

そんななか、マリン首相はこれまでも、仲間とクラブに通ったり、音楽フェスティバルに行ってみたりと、自分の趣味の活動について明らかにしてきたものの、「パーティー好きの首相」として批判する声が、国内の一部からも出ていた。

パーティー動画の流出事件で問題になったフィンランド首相、そして薬物検査では陰性とはいえ、こんどは「騒がしく踊るパーティー動画」が流出したりして、野党が批判。

 

ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長とマリン首相(左)

 

マリン首相の少し前の出来事。――首相公邸でのパーティーに参加した女性客2人がトップレス姿で写真を撮ったことについて、謝罪したという話があった。

このほどぼくは、堀内都喜子氏の「フィンランド 幸せのメソッド」(集英社新書、2022年)という本を読みはじめたばかりだった。そして、とつぜんだったけれど、彼女は閣僚を連れて、日本にもやってきた。マリン首相は母乳を与えるようすなどをSNSに投稿するいっぽうで、率直なメッセージを発信しているという。彼女があるスーパーのレジ係だったことは事実だけれど、エストニアのある大臣が彼女のことを「レジ係でも首相になれる」といってひんしゅくを買ったりした。

そういう国を羨望してのことかもしれない。

首相の就任直後のことだった。ツイッターで「フィンランドを誇りに思う。貧しい家庭の子でも十分な教育が受けられ、店のレジ係でも首相になれるのだから」と投稿した。

これに対して、マリン首相は

「私たちは普通の政府です。女子更衣室で雑談しているのではありません」と返した。

それ以来、ぼくはマリン首相を応援したくなった。それと、ぼくは個人的にはフィンランドがむかしから大好きなのだ。あの「フィンランディアFinlandia」は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスによって作曲された交響詩である。

シベリウスを産んだ偉大な国なのだから。そして、世界一むずかしいフィン語を話す国民を、ぼくはこころから尊敬している。

 

(シャーウッド・アンダーソン「ワインズバーグ・オハイオ」、上岡伸雄訳、新潮文庫、2018年)

さて、先日の日曜日、31歳の友人と会って、久しぶりにコーヒーなどを飲みながら、そんな話もした。

そして、1924年ごろの米国社会と、 作家シャーウッド・アンダーソンの話をした。

ぼくも若いころは、「短編小説」も「長編小説」も、これといって区別しないで、ことさら長短で選ぶこともせず、手当りしだいに読んできた過去を持っている。大筋にはいまも変わらない。

通常、英語では前者をshort storiesと呼び、後者をnovelsと呼ばれているのだが、アメリカにかぎっていえば、ショート・ストーリーなる分野が盛んになったのは南北戦争以降のことで、これを文学史的には」アメリカン・リアリズム」といってきた。

それ以前の散文による短いフィクションはtalesと呼ばれるのがふつうで、テールは、ショート・ストーリーとは区別したほうがいい場合がある。早い話、ポーの「アッシャー家の崩壊」や、N・ホーソンの「若いグッドマン・ブラウン」も短編だが、ずっとテールと呼ばれてきた。

そのころの長編の散文小説はromancesと呼ばれる時代があった。いっぽう19世紀のイギリスは、いずれの場合も区別せずnovelsと呼ばれてきた。

短編小説がアメリカで流行した背景には商業ジャーナリズムの勃興があった。

商業ジャーナリズムの勃興は、イギリスの産業革命と当時にはじまった。しかし、じっさいには海を渡った大西洋の対岸、アメリカで実現したものだった。雑誌の誌面をにぎわすショート・ストーリーの需要がイギリスより多かったことにもよるだろう。その源流は、なんといってもマーク・トウェインである。

そしてその直系がシャーウッド・アンダーソンということになる。

アンダーソンこそが「われわれの世代の父親である」といったのはウィリアム・フォークナーだった。ヘミングウェイの場合は、父はシャーウッド・アンダーソンであり、母はガートルード・スタイン女史だったといっていい。このふたりの出会いの成功が、のちのヘミングウェイの作品に魅力たっぷりに結実していることは間違いない。

そのアンダーソンも、文体は開拓民に伝承されたストーリーテーラーの語り口と、前衛作家ガートルード・スタイン女史に学んだ散文詩的な語りの入り交ざった口語体だった。ぼくはそういう彼の覚めた文体にあこがれた。心理描写のない文章をつらぬいた。

夕べ、アンダーソンの短編「つかなかった嘘(The Untold Lie)」を久しぶりに読んでみた。

 

「お前さん、おれにお説教しに来たんだろ? え?」と彼は言った。「うん! そりゃもういいんだ。おれは卑怯者じゃねえよ。もう腹は決めてるんだ」そう言って、彼はまたひとしきり笑うと、溝を跳び越えた。

「ネルは馬鹿じゃねえ」と彼は言った。「あいつは、結婚してくれなんて言わなかった。おれが、あいつと結婚したいんだ。ぼつぼつ身を固めて、餓鬼を持ちたいんだよ」

シャーウッド・アンダーソン「つかなかった嘘」より

 

この文章だけを読むと、フォークナーとそっくり。

ガートルード・スタイン女史に学んだ散文詩的な語りの入り交じった口語体の見本のようだ。そういうわけで、ぼくは思いっきり、シャーウッド・アンダーソンのファンになった。

ヘミングウェイが「ぼくにとって最も重要な作家はAndersonだ」と語っていることからもわかるように、その影響はどれほどだったか、ヘミングウェイの「われらの時代(In Our Time, 1924年)」を読めばわかる。

なにしろ、文章がいい。読めば、たちどころに文章の起伏が見え、多くの示唆を投げかけている。

ヘミングウェイがパリを目指すとき、彼からスタイン女史宛ての紹介文を書いてもらっている。アンダーソンは、そのころウィリアム・フォークナーの小説を認め、出版の世話をしている。アメリカの代表的な作家ふたりを世に送り出した功績はひじょうに大きい。アンダーソンは「アメリカ現代文学の父」と呼ばれるようになったのは当然だろう。

シャーウッド・アンダーソン(Sherwood Anderson, 1876年-1941年)は、オハイオ州キャムデン(Camden)というところで生まれた。――キャムデンといえば、南北戦争時代は南部の砦として、「キャムデンの戦い」では多くの戦死者を出したところである。

「多くの死者」といってわからなければ、10数万人の死者といえばいいだろうか。いまのウクライナどころの規模ではない。そこだけで、20万人に迫る人の死を見ているだろう。

彼は高校を中退したのち、1年あまりの軍隊生活をし、その後、さまざまな職業を転々とし、1908年に、塗装会社を設立して事業をはじめたものの、1912年11月、執務中にとつぜん会社から姿をくらまし、4日後に朦朧となって発見されるという謎の失踪事件をおこしている。

父は南北戦争に騎兵として従軍したことから、小さな馬具商をいとなむが、迫りくる時代の機械化で、たちまち一家は破産し、夜逃げ同然の状態でキャムデンを逃げ出す。

アンダーソンが8歳のときだった。

父はいたって楽天家で、貧乏を苦にするようなタイプではなく、南北戦争時代の自分の勇姿を語り、そういう誇りもあって、ペンキ屋稼業をはじめたが、彼はまじめに働こうとせず、気の向かない仕事には目もくれず、むずかしい仕事はいっさい引き受けようとしない。

おまけに、度し難いほどの浪費グセがあり、どこかから馬を見つけてくると、こんどは「冒険」と称して、家を留守にすることは毎度のことで、商売もあがったりになる。

馬に乗って遠出をするので、いつ家に帰ってくるかわからない。

しかし、この父親の語る南北戦争時代の「ホラ話」は、のちの作家アンダーソンに大きな小説の構想へと発展していく。

アンダーソンの書いた自伝「A Story Teller's Story」を読むと、その父親のことを「偉大な語り手」と呼んでいる。少年には、どこまでが真実なのか、どこまでが空想なのか、わからなかったものの、その「A Story Teller's Story」は、小説のようだとおもったにちがいない。

シャーウッド・アンダーソンという作家が生まれたのは、そのような父親の話のなかから生まれたといっていいかもしれない。――ぼくの父も、ぼくが子どものころ、軍隊の話を持ち出して、よく「軍隊では、……」といっていたものだ。

父は旭川の第7師団から中国戦線に出征した機関銃兵だった。

それは父にとっては、大きな体験だったにちがいない。

語らずにはおられなかったわけだ。父は作家にはならなかったが、じぶんの前では、大いにおしゃべり作家だった。野営、野営の任務がおわり、駐屯部に帰還してきた70名ほどの兵士を整列させると、上官はいった。

「今夜は、これから貴様らに褒美の女を遣わす。これから女を抱いてこい! ただし、明日の午前8時までには戻ること! いいか、忘れるな! 行ってこい!」

父は嬉しそうに、子供だった自分に語ってくれた。

しかし、小学5、6年生の自分には、その意味はわからなかった。

シャーウッド・アンダーソンの自伝には、――8、9歳のころとおもわれるころのことだが、家にはなまけ者の父と、愛情ゆたかな母、そして7人の子どもたちがいて、不平ひととついわずに他家に奉公に出たりして、いろいろと家計を助けている。

たいていの賃仕事は、他家での洗濯で、賃仕事をして、彼なりに経済感覚をみがいていったものとおもわれる。

これじゃいけない、とおもったのか、母親の献身と愛情の深さに目覚めるが、その母の死は、大きな出来事となった。

のちに作家になってからも、

「Chekhovのような筆力で、母親の臨終を書くことができたら、……」と書いている。アントン・チェーホフは、短編作家として大きな存在だった。「Mother」や「Death in the Woods」という名作は、こうして生まれた。

ある日、単身シカゴに移ったアンダーソンは、セオドア・ドライサーらの知遇を得て、執筆活動をはじめる。彼の豊富な体験と父ゆずりの話術だけで小説を書いたわけではない。

シカゴの街は、ワインズバーグの片田舎とは大違いで、そのころ、小さな文学的ルネサンス時代を迎えていて、バルザック、チェーホフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、ヘンリー・アダムズ、ガートルード・スタイン女史といった作家たちの作品が読まれ、都会的な創作環境ができあがっていった。

で、1919年、オハイオ州の小さな田舎町を舞台にした短編集「ワインズバーグ・オハイオ」が評判を呼び、一躍有名作家になる。

その後も、私生活では結婚・離婚を繰り返しながら、「卵の勝利」、「暗い笑い」など、数かずの優れた短編集を発表するが、1941年、南アメリカへの旅行中、腹膜炎にかかって死亡。享年64。

――まあ、かんたんにいえば、アメリカ的な土着性とヨーロッパ的モダニズムとの複合を試みたアンダーソンということができる。そのアメリカ文学史上に占める位置はたいへん大きく、後進作家のシンボルとなった。

彼の文章スタイルの影響を強く受けた作家は、前述のフォークナー、アーネスト・ヘミングウェイのほかに、ジョン・スタインベックや、トーマス・ウルフ、さいきんではレイモンド・カーヴァーなどの名があげられるだろう。

しかし、彼が作家になるまで、それは想像もできないほど苦難の道を歩いてきた。話はもどるが、母親が亡くなると、放浪癖のある父親は、子どもたちを放り出して行方をくらます。

一家は離散となる。

それからは彼は、さまざまな職業につき、畑の番人とか、ペンキ屋の助手、尋ね人の手伝い、工員、――これはどういう工員なのかはわからないが、そのうちに、自分を試すために、シカゴへ行きたいとおもうようになり、シカゴに行ってからも、倉庫でドラム缶を転がす仕事にありつく。

しかし、彼はほんとうは画家を志望していたから、こんな悲惨な仕事はもうたくさんだとおもい、みずから志願して米西戦争に従軍し、帰国後はこんどは広告代理店で働くことになり、裕福な家庭の娘O Nelia Laneと出会い、ふたりは結婚する。

Laneはふたつの大学を出たインテリ娘で、さいわいなことに、アンダーソンは、彼女のもっている文学書を借りて読み、そればかりか、彼女からはフランス語の手ほどきを受けていた。

――さて、自伝によれば、そのように書かれているのだが、そういうインテリ女性が、田舎者のアンダーソンのどこに惚れたのか、結婚をあっさりと承諾しているのである。そればかりか、彼にさまざまなことを教えている。

たとえば、文章の文法上の誤りや、誤字、いいまわしの難を指摘してくれたりして、いつの間にかふたりに子供ができ、結婚することになったように書かれている。

彼の作家になるまでの半生には、ここでは書ききれないほどぎっしり詰まった濃密な物語がたくさんあって、まるで小説を地でゆくような人生を歩いている。「自伝」ではなく、表紙を変えれば、それはそれで小説といっていいかもしれない。

さて、彼の代表作「Winesburg, Ohio」、――ちゃんと書けば、「Winesburg, Ohio: A Group of Tales of Ohio Small-Town Life、」ということになる。これを彼は「短編小説群(short story cycle)」といったそうだ。

この作品は、主人公のジョージ・ウィラードが子供のころから独立して、若い男となって、最終的に故郷を去るまでの半生を描いたストーリーに構成されている。

物語の舞台は、著者がオハイオ州クライドで過ごした子供時代の思い出に基づいている。それは、オハイオ州の架空の町ワインズバーグに設定されている。

作品は、主に1915年後半から1916年初頭に執筆され、出版の直前にいくつかのストーリーが完成し、「...ひとつのコミュニティの背景を中心に、全体の補完的な部分として考えられた」らしいことがわかっている。

1802年、フランスのシャトーヴリアンは「キリスト教精髄(Génie du christianisme)」という短編を統合して一冊の聖書のような本にして出版した。これが当たって、フランス革命時、そして革命後の荒廃したパリの人心を建てなおすのに大いに貢献したとされてる。

実は、「手(Hands)」の一部をここでご紹介するつもりだったが、紙幅がなくなりそうなので、かんたんに触れておきたい。

 

オハイオ州ワインズバーグの町にほど近い山間の崖、そのすぐそばに小さな木造の家が建っていて、その壊れかかったベランダの上を、太った小柄な老人が、せわしなく歩きまわっていた。クローバーの種を蒔いておいても、野生のからし菜ばかりが生えてしまう細長い畑の向こうに、畑から帰ってくる苺積みの人びとをいっぱいに乗せた荷馬車が通る街道を見ることができた。若い男や女の苺積みたちは、騒々しく笑ったり、怒鳴ったりしているのだった。

Upon the half decayed veranda of a small frame house that stood near the edge of a ravine near the town of Winesburg, Ohio, a fat little old man walked nervously up and down.Across a long field that has been seeded for clover but that had produced only a dense crop of yellow mustard weeds, he could see the public highway along which went as wagon filled with berry pickers returning from the fields.The berry pickers, youths and maidens, laughed and shouted boisterously.

 

frame house=木造住宅。

Seeded for clover=「クローバーの種を蒔く」。

とりたててむずかしい語はないけれども、文章の流れに余計な描写がなく、とっても映像的だ。ぼくは原文をいつもkindleにダウンロードして読んでいる。原文は現在、フリーで読める。文章に興味のある方は、いちど原文を読まれることをおすすめしたい。すばらしい英文である。