田中幸光、2018年夏

 

 

書の愉しさをえられた日

 

あともう少しで4月は去っていきます。

ぼくはこれまで、ユゴー、スタンダール、バルザックの小説について、いろいろ書いてきました。読むたびに、また考えが少し変わります。

変わったかと思うと、また反転したみたいにふたたび変わるのです。80年生きてきて、ぼくはこの3人の作家たちから多くの変化する人生の愉しみをいただきました。

そういうこれまでの小説の流れに、急ブレーキをかけ、客観存在としての小説世界を打ち立てた人がふたりいます。ジェームズ・ジョイスと、プルーストです。

ジェームズ・ジョイスについてはすでにのべたので、きょうはプルーストについて少し考えてみたいと思います。

そのきっかけをつくってくれたのが、その後新訳された高遠弘美さん(明治大学名誉教授)訳の「失われた時を求めて」(光文社古典新訳文庫)という本です。雑誌「ふらんす」に掲載された高遠弘美さんの文章を読み、もう一度読まなくちゃ、という気分にさせてくれました。

「失われた時を求めて」は、これまで幾度も挑戦し、読みはじめるのですが、最後まで読みつづける苦痛をしのいだことはありませんでした。プルーストって、そういうやつなのか、と長いあいだそんな疑念を抱きながら、プルーストをあきらめていました。そして、ぼくはある日、高遠弘美さんの訳文を手に入れたのです。すらすら読めます。

 

 

 

 

すらすら読めるばかりでなく、訳文がとても美しい日本語なのです。ドストエフスキーやバルザック、フォークナーにも負けない、息の長い、長文のコンテクスト。

たいていの読者は、あまりに長々とつづられる文章に辟易して、途中で投げ出してしまいますが、高遠弘美さんの文章に触れて、ぼくは驚きました。このような翻訳文を読んだことがなかったからです。プルーストの魅力が、ページいっぱいにあふれ、ページの余白の余韻まで翻訳されているかのように美しくて、視覚的にも心地よい気分にさせてくれます。10ページほど読んで、ぼくはふたたび冒頭の文章から読み直しました。ぼくには、こんな経験はありませんでした。

ロジャー・パルバースさん(作家、劇作家、演出家であり、東京工業大学名誉教授)が書いた「ぼくはそのために生まれた(I was made for them.)」と題された文章を思い出しました。彼はぼくとおなじ世代の、宮沢賢治の翻訳者だそうです。

その「英語で読む 宮沢賢治詩集」(ちくま文庫)という本のあることは知りませんでしたが、賢治の「風がおもてで呼んでいる」という詩のすばらしさに触れています。

これを英語に翻訳するのが彼の仕事なのだそうですが、パルバースさんは、最後のシンプルな2行をたいへん美しいと思われ、つぎのように英訳されました。

 

 繰り返し繰り返し

 風がおもてで叫んでいる

 The winds continue their screaming

 Not letting up for an instant

 

で、これについてロジャー・パルバースさん自身がお書きになった文章が、とてもおもしろいので、引用させていただきます。

 

ロジャー・パルバースさん

 

「すぐれた詩は、どれも必ず驚きを与えてくれる。ふっと突然ことばが現われて、ぼくらに不意打ちを食らわせて、ぼくらの想像力を掻き立てる。この、《風がおもてで呼んでいる》の最後の2行がまさにそうだ。最後の行に、詩題の《風がおもてで呼んでいる》ではなく、《風がおもてで叫んでいる》と視覚的に似ているものの、少し異なる表現が使われている。似ているが異なる表現が使われることで、その違いがむしろ強調されて、それによって読者はすっと賢治の世界に移動(トランスポート)してしまう。風が、死の前兆が、まさに家の入口の前で叫んでいるのだ。

詩に使われることばが単純になればなるほど、その場合、辞書はますます頼りのないものになってしまう。

《おもて》は何を意味し、どうしてひらがなで書かれているのか? 

賢治がこのようにひらがなで表記することで、このことばに一種の詩的神秘性が与えられる。賢治は実際、《家の外から》という意味でこの語を使っているのだと思う。生命の蝋燭(ろうそく)の炎をふっと吹き消すために、涅槃(ねはん)から風が吹いてきて、それが《家の外で》詩人を呼んでいる。そして、《おれたちのなかのひとりと約束通り結婚しろ》と大声で叫ぶ。

しかし、この詩の最後の2行を一体どう訳したらいいだろう? 

《繰り返し》は、もちろんrepeatingであるから、ここではこれにagain and againを補って訳すことはできるかもしれない。

しかし、これはあまりにも工夫がない。

この2行には、風が強く訴えている感じが表れていると思うし、家の玄関の外で叫ぶその風の大きさがまさに聞こえてくるように感じられる」と述べられている。「Not letting up for instantという英語は、この詩のリズムに合っているように思った」とのべられています。

さて、プルーストの文章を考えるとき、ぼくは、パルバースさんのこの文章を思い出しました。

中身は違っても、プルーストの原文を、できるだけ忠実に、その語感や気分まで翻訳されていることに、ぼくはじつに驚いたわけです。

文章を読む、それだけではこの「失われた時を求めて」のすばらしさを感じることはできないと思います。

ひとつの名詞にたいしてひとつの形容詞、この基本の上に立って、動詞をからめていく。そして、息継ぎをして、またその上に別の気分を上塗りします。そういう文章で成り立っているのがプルーストの文章、そういえるかと思います。絵画の上塗りや、つけ足しや、イメージの補足、飛翔、回生と転位、そのように論評する人もいます。

しかし、これを日本語に移し替えるのは、たいへんなことです。

高遠弘美訳「失われた時を求めて」(光文社古典新訳文庫、2011年)

 

 

そういうわけで、ぼくは長いあいだ、「失われた時を求めて」を読まずにいました。1900年を軸にして、世界の文学が大きく変わり、その先兵になった作品が「失われた時を求めて」であるとしたら、どうあっても、読まないではすまされません。

なんだか憂鬱な気分だったのですが、高遠弘美氏の目のさめるような訳文に接し、吟味しながら読むたのしさを教わりました。

 

《長い間、私はまだ早い時間から床に就いた。ときどき、蠟燭(ろうそく)が消えたか消えぬうちに「ああこれで眠るんだ」と思う間もなく急に瞼(まぶた)がふさがってしまうこともあった。そして、半時もすると今度は、眠らなければという考えが私の目を覚まさせる。私はまだ手に持っていると思っていた書物を置き、蠟燭を吹き消そうとする。眠りながらも私はいましがた読んだばかりの書物のテーマについてあれこれ思いをめぐらすことは続けていたのだ。ただ、その思いはすこし奇妙な形をとっていて、本に書かれていたもの、たとえば教会や四重奏曲やフランソワ一世とカール五世の抗争そのものが私自身と一体化してしまったような気がするのである。そうした思い込みは目が覚めても少しの間は残ったままだ。それは私の理性を混乱させることはないが、鱗(うろこ)のように目に覆いかぶさるので、燭台の灯がもう消えているかどうかを確かめることはできない。だが、かような思い込みはしだいに意味不明なものに変わってゆく、あたかも輪廻転生を経たあとの前世の思考のように。書物のテーマは私から離れ、それをさらに追うか否かは私の裁量に任される。と、ただちに私は視力を回復し、自分のまわりが暗闇であることに気がついて愕然(がくぜん)とする。その闇は目に優しく、目の疲れを癒(いや)してくれるが、私の精神にとってはおそらくもっと優しく、癒しに満ちたものだ。私の精神からすると、暗闇ははっきりとした理由もなく存在する人知を超えた、まさしく曖昧(あいまい)模糊(もこ)としたものに思われる。いったい何時になったのだろうと私は考える。汽車の汽笛が聞こえてくる。それは近く、また遠くから聞こえ、ちょうど、森のなかで一羽の鳥が鳴いたときのように、あいだに横たわる距離を際立たせ、旅人が近くの小駅に急ぎ足で歩いてゆく荒涼とした平原の広がりを私に感じさせた。はじめての場所、慣れぬ振る舞い、つい最前までしていたおしゃべり、夜の静寂のなかでいまなお後ろから聞こえてくるような気がする、我が家ならぬ灯のもとで交わされた別れの言葉、帰路につくと思うとゆくりなくもこみ上げてくる喜び……こうしたことで昂(たか)ぶる胸の思いは、旅人がたどる細い田舎道をくっきりとその記憶のうちに刻むだろう。》

 

これは、第一篇「スワン家のほうへ Ⅰ」の第一章冒頭の文章です。

ご覧いただくように、たいへんこなれた訳文になっていて、美しい日本語なのです。「……ゆくりなくもこみ上げてくる」というような表現が、じつは本文のいたるところに出てきます。

文庫本では、一ページ38字×15行で組まれ、本文は平均して一ページ570字になっています。うち、漢字は平均148字。漢字の占める割合は38パーセント。

たとえば三島由紀夫の「潮騒」の場合は、漢字の占める割合は30パーセントといわれています。

それからすると、ちょっと漢語が多いのですが、それは、ゆったりした組版(くみはん)の文字構成ではきゅうくつに感じません。

そればかりか、センテンスの緊張感が、ずーっと持続することができ、ふしぎな字面になって見えます。むかしの文庫本は、42字×18行で、いまのような大きな活字ではなかったので、とても窮屈でした。

さらに「瞼」という漢字は、あるページでは「まぶた」と書かれています。漢字と漢字が接近するばあいは、このように一本調子に漢字にしないで、「まぶた」とひらがなでつづられています。

1行の文字の構成にまで気を遣って翻訳されていることにぼくは着目しました。そういうことも、日本語としての美しさが醸成された背景になっていると思われます。これはだれもがやるふつうのことではなくて、ほとんど稀有のことです。谷崎潤一郎や、川端康成、中村真一郎の文章が美しいのは、そうやっているからでしょうか。

 

左が高遠弘美先生。自分の母校明治大学の教授になられました。

高遠弘美さんのさいきんのお話では、

「好きなものがあったらとことん突き詰めることも教えられました。翻訳の仕事の上でも、回数を重ねれば重ねるほど、フランス語の辞書を調べるようになってきています。それはより精度の高い文章をつくるためです。そして、どんな仕事でも面白がって楽しんでやること。これまで訳してきた仕事はすべてがそうです。自分で面白いなと思って、とことん楽しんでやっています。その結果が、編集者や読者にも伝わるのかもしれません。」

――とおっしゃっています(高遠教授 談)。

 

高遠先生から個人的にいただいたメールは、すべて旧送り、旧仮名遣いの文章です。先生は旧来の日本語に、とてもこだわりを持っておられる方のようです。吟味する日本語というものを教わりました。

さて、20世紀を迎えて、世界の文学の流れが急変しました。

これまでの物語小説から、ドキュメンタリーのような同時代性の文学というものが、生まれました。スタンダールがその先鞭をつけた同時代性ですが、物語としての同時代性ではなくて、客観存在としての同時代性です。ブルトンやロブ=グリエらのヌーヴォーロマン、そうした系譜につらなる新境地をひらいた最初の作家がプルーストだったわけです。

 

――今朝、急におもいたって、先生の訳された本を手にとり、リュックサックのなかに放り込みました。なぜ? これから都内に出て人に会い、それから行きつけのマッサージ店に寄り、それがおわると一日中、自由だからです。

そういうときこそ、ぼくはプルーストになれる! とまあ、そんな気がしたからです。