■ドヴォルザークを聴く。――

世界より」が生した日

 

ドヴォルザークの音楽は、ぼくの1960年代の青春時代とともにあった。アメリカ合衆国の子供たちに音楽を教えるドヴォルザークは、大きく台頭する巨大国家の息吹を見つめ、その国を音楽で描くことに成功した。交響曲第9番「新世界より」は、ドヴォルザークの最高傑作といわれた。

ぼくにとって、あの1960年代の銀座時代がなつかしい。

 

Dvořák: 9. Sinfonie (»Aus der Neuen Welt«) ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Andrés Orozco-Estrada.

 

ドヴォルザーク(1841~1904年)一家がプラハをあとにして、汽船ザーレ号でニューヨークに着いたのは、1892年(明治25年)の9月だった。そのころマンハッタンには現在のような超高層ビルはなく、自由の女神像があるだけだった。

一家は東マンハッタン17番街にある、5室もある大きな3階建ての家に移り住んだ。音楽院に行くのもそこから数分で行ける距離にあり、ドヴォルザークは週3日、午前中だけ出向いて作曲法を教えた。

受け持ちの生徒は8人。なかには黒人が数人いた。

たった8ヶ月の講義にたいする謝礼が1万5000ドルで、そのうえ、彼の曲で演奏会を10回開くという条件だった。その破格の報酬は、プラハではおよそ3万グルテンにも相当した。彼はプラハの音楽院から支給される給料は年間わずか1200グルテンだったことを考えれば、天にものぼる心地だったろう。

妻の強い意向で、この申し出を受け入れたのだが、最初は、それでも断り状を送った。ドヴォルザークを招聘したのは大金持ちの女性、ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者ジャネット・サーバー夫人(1852~1946年)という、当時40歳の未知の女性だった。彼女のつくった音楽院は、理想には燃えていたが、ヨーロッパから見れば音楽的にははるか辺境の地で、知名度も低く、ぱっとしなかった。

そのころのドヴォルザークはすでにプラハ音楽院の作曲科教授であり、皇帝からは勲章をいただき、イギリスのケンブリッジ大学からは名誉博士号を授けられていた。

ヨーロッパから権威ある音楽家を招いて、彼女の音楽院の知名度を少しでもあげたいと考えていた。ドヴォルザークからの断り状を受け取っても、彼女は頑としてあきらめなかった。サーバー夫人の熱意にドヴォルザークもついに折れ、ニューヨークのナショナル・コンサーヴァトリー・オブ・ミュージック・オブ・アメリカの院長としての契約にサインした。そうして彼は、プラハ音楽院から休暇をたまわり、合衆国入りを果たしたのだった。

サーバー夫人のはからいで、音楽家には院長としての余計な雑務をさせまいとして有能な秘書をつけた。それからはいろいろな場面で、彼を驚かせることになる。

このアメリカでは、主人も召使も、呼びかけるときはお互いに「ミスター」と呼び、「親愛なるだんなさま」という敬語を使わないことに驚く。大金持ちであろうが、貧乏人であろうが、民主主義的な思想がいきとどくアメリカという国のふしぎな進歩思想に慣れてくると、ドヴォルザークは「もっとも自由な国」というイメージを持つようになった。

 

ドヴォルザーク

そういうことがあって、彼は8ヶ月どころか、滞在は2年半にもおよんだ。

ニューヨークといえば、アメリカの音楽界のまさに震源地だった。ニューヨーク・フィルはもとより、メトロポリタン歌劇場といった世紀の殿堂では、イタリア語、ドイツ語、フランス語によるオペラを上演し、ヨーロッパ世界の音楽家やスターたちが大挙してやってきた。それでも、アメリカ独自の水準と特性はまだなく、アメリカ音楽を標榜する芸術音楽に目覚めてはいなかった。

サーバー夫人は、たんに自分の音楽院の知名度をあげることだけを考えていたのではなく、このアメリカにドヴォルザークを招くにあたって、アメリカの音楽的気運を少しでもゆたかにしてくれることを期待していた。

しばらくして、ドヴォルザークは、アメリカの音楽というのは、いったい何だろうと考えるようになった。ボストン・フィルでは「テ・デウム」、ニューヨーク・フィルでは「交響曲第6番」が演奏され、絶賛されたものの、彼はアメリカの国民音楽とは何かをめぐる、いつ果てるとも知れない論争の渦中に投げ出されていく。

そして、彼は「ニューヨーク・ヘラルド」紙のインタビューに応じ、「この国の将来の音楽は《黒人メロディ》と呼ばれる歌をもとにして書かれることになるだろう。そのような音楽こそが、アメリカの本格的な《作曲学校》の基礎にならなくてはならない」と発言したのである。

これに対する反論は「われわれの自由な国にふさわしい作品であるためには、わが国の芸術にそのような異種文化があってはならない」というものだった。やがて、この話は大きな波紋をひろげた。

当時は、アメリカの台頭が目覚ましい時代にあって、ドヴォルザークはプラハでは考えられない夢孕む新世界を実見する。1878年からのおよそ20年間で、国中の工場が2培になり、そこで働くブルーカラーの賃金労働者の数も2倍に増え、国内総生産が3倍に増え、意気をあげる新生アメリカの熱意をいやでも目にすることになった。

「石油王」の偉名をとるロックフェラーや、「鉄鋼王」の偉名をとるカーネギー、鉄道業界を支配したスタンフォードやヒル、その名を冠した大財閥の開祖モーガンらは、ヨーロッパにはない新しい風を吹かせていた。

そのような世界を垣間見て、ドヴォルザークはアメリカにおける最初の作品に、人びとの関心を大きく惹きつけた。その新作は交響曲「新世界より(From the New World)」という、論争のなかであからさまに取りざたされた題名だった。これは、曲を書き終えてから急におもい立ったかのように譜面に書き込まれたものだった。

1893年12月16日。――カーネギーホールで、アントン・ザイドル指揮のニューヨーク・フィルによって初演された。初演は空前の大成功をおさめた。ドヴォルザーク最後の交響曲となった「交響曲第9番 ホ短調《新世界より》」は、彼の交響曲のなかでもっとも有名で、もっとも成功した作品となった。主題に「アメリカ的な色彩」が盛り込まれたのははじめてのことだったが、アメリカの音楽ファンを虜にした。

 

「家路」の音楽

 

ぼくには、イングリッシュホルンとアルト・オーボエの奏でる独奏シーンが忘れられない。

日本ではこの部分のメロディは「家路」という曲で知られている。感情惻々として聴く人のこころに迫り、おさえがたい郷愁がその主題を構成している。そして詠嘆ののちに、転調して嬰イ短調のエピソードがあらわれ、速度を速めてフルートとオーボエが3連音符ではじまる中間部の主題へと切り変わるのである。

ここが「新世界」の魅力である。「新世界」といえば、ラルゴ。ラルゴといえば「新世界」と相場が決まっているようだ。

平成4年、ぼくが札幌を出てふたたび上京し、それ以来ずっと持ちつづけているのは、このドボルザークの「交響曲第9番 新世界から」1曲だけである。ボストン交響楽団、小澤征爾さん指揮のもので、カラヤンでもなければ、オットー・クレンペラー、ブルノー・ワルター、カール・べームでもない。小澤征爾さんのラルゴがあまりにも素晴らしいのである。小澤征爾さんのボストンでの充実した仕事ぶりが伝わってくる。

五音音階のほかにも、短七度をひんぱんに使い、そのエキゾチックな哀愁をおびた旋律がドヴォルザーク独特の旋律になって聴こえた。ボヘミア風のシンコペーションとか、リズムは、ここではすべてがアメリカ風になって聴こえてくる。第一楽章の長―短―短―長―長というリズムがそうである。

ボヘミアの音階は、日本の音階とそっくりである。われわれ日本人がこのラルゴを聴いてこころ揺さぶられるのは、そうしたことも原因しているかも知れない。

若くしてブラームスに認められて支援を受け、晩年には、グスタフ・マーラーを感動させたドヴォルザークは、スメタナのなし得なかったチェコの国民的な音楽家であったといえる。帰国後しばらくして、またサーバー夫人から誘いの手紙を受け取った。ニューヨークで活躍してみませんか? という誘いだったが、彼はこれになんのためらいもなく断って創作に没頭した。「交響詩」の創作である。

1896年には、多くの「交響詩」を書き、この年はたてつづけに5曲もつくった。それらの曲は、リヒャルト・シュトラウスをほうふつさせるもので、ドヴォルザークの友人たちは、彼の不幸を懸念して、「やめたほうがいい」と忠告する者もいたが、もとよりドヴォルザークはそんなことには頓着せず、曲趣のおもむくまま書きまくっている。

交響詩「英雄の歌」に感動したマーラーは、交響詩「野鳩」とおなじくらいすっかり魅了されてしまったという手紙を送りつけた。晩年は、オペラの作曲に没頭した。

自分はオペラの作曲者として認められたいという強い希望を持っていた。オペラへの傾倒は、アメリカ滞在中に出会ったアントン・ザイドルの影響が少なからずあるだろう。彼はワーグナー派の流れをくむオペラに心酔していた。それとともに、スメタナの「売られた花嫁」がウィーンでセンセーショナルな成功を博し、全ヨーロッパで絶賛されたことにも関係していたかもしれない。

しかし、ドヴォルザークは生涯、台本作家に恵まれず、彼の最高傑作とされるオペラ「ルサルカ」は、日本ではほとんど馴染みがない。

それでも、1901年3月31日、プラハの国民劇場でこのオペラが初演され、ドヴォルザークはオペラ作曲家としての、いままで最高の、不動の栄誉を勝ち取った。資料によると、このオペラは1950年までに上演回数800回を数えたという。

元気だったドヴォルザークは、最後のオペラ「アルミダ」の初演に立ち会っていたが、途中で気分が悪くなり、帰宅して寝込んでしまった。それから少し気分がよくなり、食卓まで歩いて行って少しスープを口にしたところで急にむせて、寝室のベッドに運ばれたが、医者がやってきたときはもう手遅れだった。享年63だった。

いま、ブラームスのことばが甦ってくる。

「あの男は、われわれ仲間のだれよりも発想が豊かである。彼の捨てた素材をかき集めるだけで、主題をつなげていくことができる」と。

そしてぼくは、あらためてウィーン・フィルのカール・ベーム指揮による「交響曲第9番 ホ短調《新世界より》」を聴こうとおもった。だが、見当たらなかった。100年まえのアメリカ人を大いに熱狂させたという音楽を聴き直したかった。