豊饒なムライのとば

 

きょうは勤務が終わってから、電車にのって新越谷に行き、サクラを観てから、またもや図書館に顔を出しました。きょうは時代物の小説本を数冊借りて、駅前の3階の紳士売り場をのぞき、ぶらぶらしながら駅中にあるコーヒーショップでほとんどブラックといっていいほどの苦いコーヒーを飲みながら本を読みました。

それがまた、藤沢周平の本なのです。

――といいますか、ぼくはときどき時代小説を読みます。おもしろいから読むのですが、そこにつづられていることば、たとえば藤沢周平の小説を読んでいると、

「ぜひもない」とか、「やくたいもない」とか、「曲げて……」、「かまえて」、「ひらに」、「一つまいろう」、「過ごされよ(パーッといきましょう)」、「異なこと」、「これはしたり」、「念にはおよばない」、「卒爾ながら」、「びろうな話」など、もう使われなくなったサムライのことばがふんだんと出てきます。

「家中」、「出府」、「手がつく」ということばもあり、時代小説ファンでなくても、読んでいて嬉しくなります。なかでも「ご新造さま」ということば。

 

 「服部のご新造」

 追いついて傘をさしかけると、助十郎はひと息に言った。

 「この傘、お使いくだされ」

 (藤沢周平「好色剣流水」より)

 

平サムライの三谷助十郎が「ご新造」と呼んだのは、24歳の人妻。若くても、若くなくても、武家の妻のことを「ご新造」というわけですね。

幕府の直臣の妻のことを「奥方」、「奥様」と呼ぶのにたいして、江戸中期以降は、そのような人たち、または上流の町人の妻を呼ぶときも「ご新造」といったようです。発音は「ごしんぞ」、「ごしんぞさん」といい、のちに丁寧に「ごしんぞさま」というようになったようです。

「内儀」ということばもあります。他人の妻を敬っていう語で、とくに町家の妻、ときには農家の妻に対しても用いられました。

「ご新造」ということば自体に、おんなの色気がふんぷんと匂わせていました。

「出府」でおもい出すのは、江戸時代、地方から江戸に行くことを「出府」といいます。幕府の所在地である江戸に行くという意味。

そのころ天皇は京都に住んでおられたので、関西から江戸にくることを「下る」といい、その逆は「上る」といい、人も物資も、江戸へはいろいろなものが「下って」きました。下らないのは、だれも買わないつまらない品、というわけで、「くだらない」といいました。「そんなの、くだらないよ」というのは、そこから来ていることばです。

さてさて、ぼくはこんなふうにして、藤沢周平の小説を読んで楽しみ、道を歩いていて、「鈴をはったような目」(藤沢周平「嘘」。丸くてぱっちりした瞳)の女に出くわすと、「ご新造、急ぐか?」とききたくなりますね。

「いいえ、……」と答えれば、

「ちと、話がござる」というかもしれません。

「では、どこぞの木陰にでも」と女は応じてくれれば幸いです。まあ、そこは藤沢周平にははるかにおよびませんけれど、そんなことをひとり空想したりします。

「大江戸ものしり図鑑」(花咲一男監修、主婦と生活社)とか、「考証 江戸おもしろ覚え帖」(稲垣史生、コンパニオン出版)、「使ってみたい武士の日本語」(野火迅、朝日文庫)などを読みますと、江戸時代のサムライことばがくわしく解説されています。

なかには、現在、間違って使われていることばなどもあり、これはもう、小説以上にぼくにはおもしろい本です。

いまから200年ほどむかしに、髷を結って袴をはき、腰には刀を帯びたサムライたちが往来を闊歩していたなんて想像もできませんが、その姿かたち、生き方、ことば遣いは、いまの日本とはまるで違った世界だったなんて、映画やテレビドラマで多少はなじみはあるものの、そういう世界で一度も暮らしたことはなく、ただ想像するだけです。

600年におよぶサムライの時代は、もはや遠い存在になりましたが、彼らが使っていたことばはいまもちゃんと残っていて、それらは時代小説に再現されています。ある人は、2008年ごろから「サムライ語ブーム」が起こったといいます。そうかもしれません。武士の身分、作法、身なりは失われましたが、武士のことばだけは残りました。

「手もと不如意」。――ちょっと当座の持ち合わせがなく……という意味ですが、「このところ手もと不如意にござる」と武士がいったとすれば、思いのままにならないという武士の気位の高さからくるいい訳です。「不如意」の頭に「手もと」をくっつけます。「手もと」には、「身のまわり」という意味があります。

 

 「おごりか」

 「むろん、勘定はおれが持つ」

 「それではおともするか。このところ、手もと不如意でな、酒も飲んではおられん」

  (藤沢周平「悲運剣芦刈り」より)

 

「これはしたり」。――「したり!」といえば、「よくやったぞ!」という意味もあります。が、計略がまんまと図に当たったときなどに、「これはしたり」といいます。

これがのちに、計略が180度ひっくり返ってしまったとき、「これは驚いた」と言う意味で「これはしたり」といったりします。

「しまった! やりそこなった」という意味です。

たとえば藤沢周平の「逆軍の旗」に出てくる会話。

 

 「これはしたり」森は千坂に膝を向け変えた。森の顔からは微笑が消えて、刺すような視線が千

 坂にあてられている。

 (藤沢周平「逆軍の旗」より)

 

藩政をほしいままにしてきた執政が、反対勢力から謀反の疑いを突きつけられて、そのような身に覚えのないことをいわれるとは、「驚きだのう」と居直るシーンです。

「小太刀(こたち)」。――小説「たそがれ清兵衛」に登場する清兵衛の小太刀ですが、彼こそは小太刀の遣い手。けれども、小太刀ながら、ここではけっしてあなどれない武器となります。

でもふしぎです。なぜ大刀をもちいる剣法にたいして、わざわざ刀身の短い小太刀で向かったのでしょうか? 小説に出てくる心極流というのは、実在した小太刀術の流派です。

この流派については、別の本にはこう書かれています。

刀を小さくする意味は、刀を持たずして刀に打ち勝つことを究極の技法として鍛錬することであると書かれています。そうなると、刀など持つ必要がない、というわけです。

その流れでいいますと、小太刀の遣い手は「無腰(むこし)」も同様となります。

無腰というのは、武器を身につけていない素手という意味。柳生新陰流の「無刀(むとう)取り」がまさにそうです。「無刀(むとう)取り」というのは、真剣をかまえた相手に素手で対峙することです。斬りかかる相手の腕をとらえて勝負を制するわけです。

そんなことが果たしてできたのだろうかとおもわれますが、清兵衛の小太刀の意味は、柳生新陰流の「無刀(むとう)取り」にも通じるわけでしょう。

映画では、彼は棒切れなどで対応しました。

「たまぎる」。――すなわち魂が消えるほど驚くこと。

そいつはたまげた! というときの「たま」は、魂のことです。漢字では「魂消る」と書きます。

この「魂消る」は、たまに週刊誌で使われているようです。

「たまげる」はもともと「魂が消えるほど驚く」ことだったわけです。ぎょっとすることばですね。

「相対死(あいたいじ)に」。――つまり、いまでいうところの心中のことですが、情を通じ合う男女が、愛の証拠として相手の名前を腕に彫ったり、誓紙を交したりすることで、これを「心中立て」といいました。

「心中」とは、おたがいの愛を証拠立てるための最後の手段、というわけです。

現世ではおもいを遂げることができない男女、――多くは不倫の男女――が、道連れの情死を遂げました。当時の幕府は、「心中」というはやりことばを禁止し、「相対死(あいたいじ)に」と称したことから、このことばが定着したようです。

「出合茶屋(であいちゃや)」。――わけありカップルの出会いの場所。むかしもそういうところがあったようです。藤沢周平の「隠し剣 秋風抄」に登場します。

当時、密通は女に夫があるばあいは、とくに罪が重く、男女ともに死罪に処せられました。もしもその現場に、夫がやってきてふたりを斬り殺しても罪には問われませんでした。

もしも町人ならば、その密通事件は示談となり、慰謝料も5両、7両という値段で処理されたようですが、武家のばあいは、そうはいきません。面目の大きい武家は、不倫が発覚した妻は即座に斬り捨てられ、その相手には果し合いを申し入れるのが武士の筋道となります。

「出合茶屋」を利用するのも命がけ。

そこを利用する男女は、別々におとずれ、時間差をもうけて別々に帰ります。

周囲の目を周到にくらますわけですが、その苦心のほどはいかばかりか、想像するしかありません。藤沢周平の「隠し剣 秋風抄」にそのもようが描かれています。

「髪結いの亭主」。――これはもう、そうありたいという男の夢です。というのは、江戸時代、女の髪型は時代とともにどんどん増えていったようです。

武家の娘の髪型といえば島田髷(まげ)ですが、それだけでも数10以上あり、すべての髪型をあげれば200を越えたと書かれています。

そんな多くの髪型を商う髪結いは、職業としてりっぱに成り立ったわけですが、その亭主はといえば、何もしなくても髪結いの女房を持ったために、日々の暮らしはのらりくらり。一向に働かなくてもいいわけです。女髪結いは女房の仕事。

朝から晩まで人さまの髪を結いあげるわけです。

ただし「女髪結い」は店を持つことをゆるされず、「まわり髪結い」と呼ばれ、出張営業でした。藤沢周平の「春秋の檻」には、その話が描かれています。

藤沢周平の「証拠人」は、無類におもしろい。――七内は寝ている内儀のことをちらっと思いだします。顔は日に焼けて黒いが、目鼻がととのい、子供をふたり産んだからだとは思えないくらい、腰のまわりにも贅肉がないのです。

彼女の亭主は、戦(いくさ)のキズがたたって死んでしまったが、内儀はまだ若い。内儀にいい寄る村の若衆は多い。子供も上が7つになったばかり。これから内儀はどう生きるのだろうかとおもいます。

「そうか、……そういう考えもあるな」と、七内は考え直します。彼はひらめいたのだ。島田重太夫の後釜になるのも悪くない。いや、悪くないばかりか、願ってもないことだと考えます。

自分は妻を娶ったことはないが、あの内儀となら、これからやっていけそうだとおもいます。「……まあ、いいか。内儀が知っていよう」と。

これまで自分は、仕官することばかり考えて、百姓になることなど一度も考えたことはなかった。戦のない平和の田園の暮らしは、さぞ、人間らしい暮らしになろうとおもいます。

それにしても、さーて、内儀に果してどう話してよいやら、見当もつかない。

「拙者は、島田重太夫殿とは昵懇の間柄ではなかった。訳あって、仕官の道に入るにつけ、どうあっても、島田重太夫殿の勲功の証言がぜひとも要ることになった。で、ここまで島田重太夫殿を訪ねてまいったというしだいでござる。……」といいます。

「ただ、それだけで、まいられたのでございますか?」

「さよう」

「佐分利殿も、ご苦労なさいましたね。……それにしても、こうしてはるばるお越しくだされたとあっては、死んだ島田も、さぞ喜んでいることと思います。どうぞ、ごゆるりとなさいませ」といって、内儀がこころからねぎらいます。そしてその夜、村の夜這いと遭遇したわけです。夜這いかあ……、とおもう。

七内は宮遣いの城下の宿にいても、一度も夜這いなどしたことがない。ここはいなかの一軒家。島田が死んで、遺された家族は、村の目ざとい好奇の目にさらされることになったわけだ。これは、なんとしても、あの家族を守らねばならない。そうこころに決めて、七内は夜警の番を買って出ることにします。

そのあとの文章を引用します。

 

 七内にはどこにも、目指して行く場所はなかった。だが全くないわけではないと七内は思い直した。温かく、豊穣(ほうじょう)なものが、あるいは迎えてくれるかも知れない。よろめいて立ち上がると、七内は着物の埃をはらい、家の中に入った。家の中は闇だった。闇の奥に進んだ。「夜這いじゃ」七内は囁いた。

 やさしい含み笑いがし、闇の中から伸びた二本の腕が、七内をすばやく抱き取った。

 (藤沢周平「証拠人」より)

 

小説は、ここで終わっているのですが、すばらしい物語です。

男の仕官の一途な思い入れと、その夢が絶たれた絶望と、人間の不幸と背中合わせになって訪れるとつぜんの幸せについての物語です。藤沢周平の小説には、このようなカタルシスがいっぱいあります。どの小説も、吟味に吟味を重ねて創作された小説。

――齢(よわい)40にして、この男はやっと幸せを手に入れたわけです。

小説は、終わり方で良し悪しが決まるといってもいいでしょう。それからふたりは、どうなったか、読者は自分の想像力だけで、じゅうぶんに物語のその後を堪能することができるようになっています。