映画「たそがれ清兵衛」ができるまで。

 

映画「たそがれ清兵衛」ができるまで。

 

 

■藤沢周平文学の映画化。――

そがれ清兵衛」を

前回も、前々回も書いたが、水野晴郎さんじゃないけれど、「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」といいたくなる。

おなじ作家、藤沢周平の小説群から、ぼくは抜け出すことができなかった。これは映画のおかげかもしれない。

ぼくの読書は気まぐれで、眠りにつくほんのひととき、そばにあった本をひっぱり出してきて読む。長編もいいけれど、短編もいい。

短編の名手といえば、日本ではやっぱり藤沢周平だろうとおもう。手にした本は、やはり村上豊が選んだ藤沢周平の「たそがれ清兵衛」(新潮文庫)だった。

この本は、まだまっさらだ。おなじ本がほかにも2冊ある。先年、旅先で手に入れたものである。

ぼくはそのなかの、巻頭にある「たそがれ清兵衛」と、巻末にある「祝い人助八」の2作を読んだ。この本では、その2作がぼくのお気に入りである。この2作をつないでできたのが映画「たそがれ清兵衛」である。

映画を見た方は、短編をふたつつないで構成されているなんておもわないかもしれない。黒澤明の「羅生門」もそうだ。芥川龍之介の小説「羅生門」と「藪の中」をいっしょにした映画なのだ。橋本忍と黒澤明が脚色し、黒澤がメガホンを取った名作。ヴェネチア映画祭の50周年記念映画グランプリも受賞している。

もちろん、小説「たそがれ清兵衛」は傑作である。なぜ傑作なのか? 

労がいで寝たきりの妻のめんどうをみるために、清兵衛は城下の太鼓が鳴ると、さっさと帰宅する。ある日、彼は上意討ちを命ぜられた。しかし、筆頭家老を討ちとる段になっても、彼はやってこない。

「一藩の危機と、女房の尿(しし)の始末と、どちらを大事に思っているのだ?」とみんなをやきもきさせる。物語の結末で、妻に向かって清兵衛のいう「ひとりで歩けたのか?」といういたわりのことばが、この短編のクライマックスなのだ。

清兵衛にとって、藩の危機などよりも、妻の喫緊のめんどうをみることのほうが上なのだ。そんなことはひと言も書いてはいないが、作家・藤沢周平は、清兵衛の会話をとおしてそれをいっている。

これは映画にもなった。映画のほうも見ているが、中味がまるで違っている。

その話に入るまえに、小説のほうをすこし吟味してみたい。小説のほうは、下っ端役人である井口清兵衛は、わずか26石という家禄の男で、夕刻になると、勤務を終えてさっさと城から帰ってくる。

妻が労がいにかかって臥(ふせ)っているからだ。おしっこも自分ではできないくらい、布団のうえで寝たきりになっている。彼は、たそがれどきになると、妻の面倒をみるためにさっさと家に帰ってしまうので、いつの間にか、「たそがれ清兵衛」とあざ名され、揶揄(やゆ)されるようになった。

ある日、藩の要職にある者から、家老たちの会議の席に出るよう申し付かる。それはできないと、彼はいう。しかし、これは藩命であるとして、しかたなく出向くことになる。

清兵衛の剣の力に頼る話だった。彼はさいきん、剣術の稽古などやっていない。やってはいないが、藩内で、彼の腕前は知られている。会議の席に出てみると、主席家老のやましい事件が発覚したばかり。

「証拠はあるのか!」と、怒鳴り声をあげている。

そこに、たそがれ清兵衛がやってきて、つかつかっと、怒鳴っている主席家老の背後にぴたりと座った。

「こやつ、何者!」と思う間もなく、

「証拠はござる。……これは、上意でござる!」と、糾弾する家老の声があがり、手には「上意」と書かれた密書をかかげている。一同青くなって、かまえる。

「なにを、たわけたことを!」と、座から抜け出そうとする。そこへ清兵衛の太刀が走り、一刀のもとに斬りつけるという上意討ちがおこなわれた。

そこで、主席家老は息絶えて、もとの平和な藩に戻る。たそがれ清兵衛が家に戻ると、玄関さきに、病んでいる妻が立っているのが見える。

「だいじょうぶか?」と声をかけると、

「あなたこそ、だいじょうぶでござりましたか?」と妻はいう。

仲良く玄関を入っていくところで、物語は終わっている。

――ところが、映画では中味がまるで違っている。

たそがれ清兵衛には妻は死んでもういないが、年老いてもうろくした母がおり、小さな子供が3人もいる。

幼な友だちの友人が何くれとなく、清兵衛の家にやってくる。友人には、いちど嫁いだが離縁されて舞い戻ってきている妹がおり、妹の将来を案じて、清兵衛の嫁にさせてくれないかと持ちかけるが、清兵衛の返事はいつものらりくらりしている。ある日、藩命を受け、ある男を斬ってほしいという。

「やつの相手になれるのは、おまえしかおらぬ」といわれる。藩命にそむくことはできない。3日間の猶予を願い出る。その間、いろいろ考える。子供の将来、ボケた母親のこと、おれが死ねば、家は絶えてしまうだろうとおもう。

が、けっきょく天誅(てんちゅう)をくだす役目を果たすことになる。

どうあっても、清兵衛は死ぬわけにはいかない。彼は、ひそかに居住まいをただし、正座して母に別れをいう。母は、

「おめえさまは、どなたさまでありんすか?」と尋ねる。

「そなたの息子の清兵衛でござる」という。

「ああ、そうであったか」という。貧乏所帯につかえる坊主を呼ぶ。

「あかね姉さんを、呼んできておくれ」という。

「わけは、来てから申すと伝えよ。あい分かったか?」

「へぇ、分かり申した」

「いますぐ、行ってこい!」

「へぇ、……」といって、坊主は玄関をうろうろしながら出て行く。やがてやってきたのは、友人の妹あかねである。何事なのという顔をしている。

彼はいう。

「これから、藩命にしたがい、人を誅(ちゅう)するために出かける。が、これこのとおり、髪を整えられぬ。そなたの助けを借りとうてお呼び申した」という。あかねは、びっくりする。

彼とは幼な馴染みで、器量よしの女性だが、彼女は、このたび離縁されて家にもどり、居候をしている。女は、清兵衛の髪を結いあげ、衣服を着せ、身ぎれいにしてやる。

「世話になった」といって清兵衛は立ち上がり、たたきに降りると、振り返っていう。

「拙者はこれから、人を斬りに出かける。……自分がもしも、生きて帰ることができたら、そなたを嫁にしたいと思っておりまする。とつぜんだが、時間がない。……返事を聞かせてはくれぬか?」という。

「――ああ、わたくしにとりましては、ほんとうにありがたいお話ではござりますども。……過日、別の人と縁あって、とつぐことにあいなり申したども、……」という。

「あっ、そうであったか。そうであったか。……この話は忘れてほしい。……きょうは、そのような多忙なところ、手前のために、よう駆けつけてくれはり申した。どうぞ、あかね殿、お幸せを祈り申し上げまする」といって、清兵衛がお辞儀をすると、彼は出ていった。

――この話は、小説「祝い人助八」の助八の物語である。

相手の女は波津である。男を斬って、清兵衛が家にもどると、子供たちが声をあげて飛びついてきた。父親が生きて帰ってきたことを家族全員が喜んでいる。彼は腕に包帯を巻いて、杖をついている。彼も斬られたのだろう。

そこへ、あかねが、家から出てくる。そしていう。

「ご無事でぇ、……よーござり申した」という。

「ああ、あかね殿、……」といったきり、清兵衛は声が出ない。

そこで、ナレーターの声が流れる。

その声の主は、末っ子の娘だった。

《父親は、たそがれ清兵衛といわれましたが、あかねさんといっしょになってからは、だれからもいわれなくなりました。たそがれどきに帰ることをしなくなったからです。父は、政務に励み、あかねさんと幸せな暮らしをつづけました。その後、関ヶ原の戦いに敗れ、父は亡くなりましたが、あかねさんは、85歳まで生き延び、父ひとりを愛しつづけました》というのである。

これが、映画のあら筋である。

監督は山田洋次。――小説では政変を扱った物語になっているが、映画では、政変は物語の裏にかくれ、もっぱら井口清兵衛とあかねの物語にしぼって脚色されている。

このように脚色されてはいるが、作家・藤沢周平の創作の意図を大きく踏み外してはいない。映画芸術として、りっぱに完結しているとおもった。これは映画のほうがいいとか、小説のほうがいいとか、軽々にはいえないだろう。映画芸術としては、べつのものだからだ。読み終わって、ぼくはあかねの姿をおもい浮かべて眠りに入った。

ぼくは藤沢周平の小説を好んで読んできた。いつもこころ惹かれる。

藤沢周平。――本名を小菅留治(とめじ)という。彼の生まれ故郷は、山形県鶴岡市である。山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下、――現在の鶴岡市高坂である。

実家は農家で、藤沢自身も幼少のころから家の手伝いを通して農業にかかわり、この経験から後年農村を舞台にした小説や、農業をめぐる随筆を数多く発表している。郷里の庄内とならんで、「農」は、作家藤沢周平を考える上で欠くことのできない条件だろう。

ぼく自身、北海道の農家の長男として生まれたことと無関係でないかもしれない。彼は小学校時代から小説や雑誌類を濫読し、登下校のときも、本を手放さなかったという。この時期のことは自伝「半生の記」にくわしく書かれている。

1949年に山形師範学校を出て、山形県内の中学校の国語と社会の教師をしている。1951年、肺結核をわずらい、休職を余儀なくされ、右肺上葉の切除という大手術をし、療養生活に明け暮れる日々を過ごし、ある句会に参加した。それが雑誌「海坂」の同人会である。

藤沢が生まれた庄内藩を、物語では「海坂藩」として登場する。その「海坂」という名前は、この同人雑誌から取られたものだ。

それからおよそ8年後、とうとう教員生活を送ることを断念し、東京・練馬区に下宿して業界新聞の記者となり、そこも倒産すると、職場を転々として生活は苦しかったが、1959年に8歳年下の、おなじ郷里出身の三浦悦子と結婚する。1960年に日本食品経済社に入社し、そこの新聞記者となる。

しかし文学への情熱やみがたく、勤めのかたわら、コツコツと小説を書きつづけた。彼は当時、純文学を志していた。しかし、幸せはつかの間で、長女展子が生まれるとすぐ、妻悦子が死んだ。

これに衝撃を受けた藤沢は、救いのない暗いヒロインの悲劇を書きはじめる。このころからペンネームを「藤沢周平」とした。それから10年後の1969年、高澤和子と再婚し、家族は3人になる。

1971年にはついに「冥い海」が第38回「オール読物新人賞」を受賞し、直木賞候補となり、翌年「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞する。新進の時代小説作家として認められるようになる。この最初の作品集「暗殺の年輪」を出版すると、新聞社を退社し、本格的な作家生活に入る。

彼は書いている。

「わたし自身、当時の小説を読み返すと、少々、苦痛を感じるほど暗い仕上がりのものが多い。男女の愛は別離で終わるし、武士が死んで物語が終わるといったふうだった。ハッピーエンドが書けなかった」といっている。

そのなかでも、こころに残る作品が多い。

「竹光始末」はこころに残る小説である。――「竹光」というのは、本物の刀ではなくて、竹を割って刀に見せかけたまがい物の刀のことである。武士は経済的に窮すると、武士の魂である刀を質入れして生活をまかなう。

下級サムライの金のやり繰りは、人生悲哀がつねにつきまとう。

しかし、この小説に出てくる男は、藩命により、討手(うって)を差し向けて脱藩した者を斬り殺すわけである。この小説の主人公は、藩命により討手となるが、彼の刀は質入れしていて、ほんものの刀を所持していない。それで仕方なく、彼はまがいものの竹光を腰に差して討手となるという、とんでもない男の話である。だからこそ、おもしろい。

「おぬしに、討手を命ずる」という藩命がいったん下ると、断ることはできない。ところが、彼は、竹光で戦って相手を倒し、勝つのである。

それがこの物語のヤマ場である。

興味のある人は、ぜひ読んでほしいとおもう。主人公の小黒丹十郎という人物、じつによく丹念に描かれている。