ジャン・コクトーの見た東洋のニッポン?
ジャン・コクトーは、パリの夕刊紙「パリ・ソワールParis-Soir」が企画した世界一周旅行の途上で日本を訪問している。47歳のときである。きょうは、その話をしてみたい。
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ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン・コクトー (Jean Maurice Eugène Clément Cocteau 1889年-1963年10月11日。彼の名前をちゃんと書けば、そんなふうになる。1963年の秋、フランスで亡くなっている。そのあたりの消息を伝える本を読むと、堀口大學がいろいろと通訳をかねて骨を折っていることがわかる。
堀口大學が書いた「コクトウの見た日本」や、近年でた西川正也氏の「コクトー、1936年の日本を歩く」(中央公論新社、2004年)という本が出て、いろいろ参考にさせてもらった。
そのころ、本国フランスでは、コクトーはあまり知られているとはいえなかった。むしろ日本のほうが知られていたらしい。
堀口大學がなぜコクトーの翻訳をし、精力的な紹介文を書いたのかはよくわからないが、ちょうどそのころ、堀辰雄がコクトーの詩の翻訳などをしており、日本の作家たちにも、わりあい知られるようになっていたようだ。
私の耳は貝のから(殻)
海の響(ひびき)をなつかしむ (堀口大學訳)
Mon oreille rst un coquillage
Qui aime le bruit de la mer
この詩はよく知られている。
大正末期から現在にいたるまで、多くの翻訳がなされ、日本の読者にも愛されてきた。
ところが堀辰雄は、コクトーが日本にやってきたというのに、彼に会っていない。あれほどコクトーに傾倒していた堀辰雄は、どうしたわけか、会っていないのである。
若いころの堀辰雄は、ジャン・コクトー一辺倒だった。ぼくにはふしぎだ。
コクトーは、この二・二六事件によって、「天皇のための死」という観念に強く触れている。「日本はいまだに戒厳令下にあり、軍部の若い指導者たちはファシズムの独裁者を擁立しようとしている」と書いている。
ジャン・コクトー
ジャン・コクトーの名言
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その話はともかく、コクトーは昭和11年5月16日に神戸に入港し、それから一週間の滞在中に、いろいろな人と会っている。
堀口大學と会ったのは、18日、横浜駅に着いてからだった。
ただちに東京へゆき、明治神宮を訪問し、日本ペンクラブの招宴に応じ、その夜は歌舞伎を見物している。――ということは、日本ペンクラブの会長だった島崎藤村とも会っているということだろう。
彼は日本土産にいろいろなものをカバンの中に詰め込んだ。
その多くはじぶんの作品の日本語の翻訳本だったという。なかにはアメリカ人の婦人から贈られたという一匹のクツワムシもあったと書かれている(西川正也「コクトー、1936年の日本を歩く」、中央公論新社、2004年)。
彼は「世界一周」の本のなかで、それを「コオロギ」と書いている。
「(秘書の)キルがこれをミクロビュスと命名する。ミクロビュスは夜になると籠を出る。魔法瓶の上で眠り、身体の一部をなしている緑色の長いギターをうっとりと弾きこなす」と書いている。
この虫をコクトーは「コオロギcricri」と書いているが、そのとき通訳をしていた堀口大學は「くつわ虫」であったと書いている。
クツワムシはフランスにはいないので、「鳴く虫」という意味でコオロギとしたのかもしれない。
それにしてもコクトーは、日本の「鳴く虫」に特別の興味を示した。
ある日本の作家が、著名なアメリカ人を自宅に招待したところ、スズムシの鳴き声を聞いて、「あのノイズは、いったい何だ?」とたずねている。虫が、――しかも、バッタ目コオロギ科の昆虫が鳴くなんて知らない人にとっては、びっくりしたことだろう。それとも、ただの「ノイズ」にしか聞こえなかったのかもしれない。
しかしコクトーはちがった。
彼は、日本の風呂敷に興味をもった。京都で手に入れた。モノを包むものとしてではなく、クビに巻いて、オーバーコートの襟元をカラフルに装ったのだある。
それに見惚れた紳士たちは、みんな彼のマネをしたようだ。スカーフ(scarf)は、古ノルウェイ語でskreppaといって「巡礼の小袋」のことをいったらしい。日本は、明治期にすでにスカーフが、ことばとともにやってきた。1550年代から、絹の長方形の布を、肩からななめに掛けたり腰に巻いたりすることが、兵士などのあいだで流行したそうだ。
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Comme l'oreille écoute au coquillage
une rumeur héréditaire
l'oeil
contre un presse-papier de cristal
voit
le carrousel des silences
耳が貝殻に
遺伝のざわめきを聴くように目は
水晶の文鎮に見る
沈黙の 回転木馬を
当時は、山田宏一さんの評言ひとつでコクトーの評価がきまったといっていい。
山田宏一さんはつぎのようにいう。
ジャン・コクトーの「美女と野獣」は、私が見たはじめてのフランス映画だった。あまりの美しさに目がくらんだ。フィルムそのものがきらめき、かがやいているように見えた。
美女の涙の滴がダイヤモンドになってこぼれ落ちる。歌舞伎の鏡獅子にヒントを得たという野獣のメークが仮面ではないことにおどろく。暗い魔法の森を抜けて白馬が美女を乗せて野獣の館にみちびく。白い大きなカーテンがゆらめき、はためく長い廊下をすべるように音もなく美女が進んでくる。
「私はあなたのドアです」とドアが人間の言葉で挨拶をして、ひとりでに開き、美女を迎え入れる。鏡もやさしく美女に語りかける──「私はあなたの鏡です。美女よ、あなたの考えていることを映して見せましょう」。
『ブローニュの森の貴婦人たち』Les Dames du bois de Boulogne まるで、いや、これこそまさに、オトギの国、不思議の国の物語だ。鏡を通り抜けて時空を行ったり来たりするなんて。そして、もちろん、「むかし、むかし、あるところに…」ではじまる映画である。
フランス映画に熱中した私はのちにフランス語を学び、メルヴェイユ(merveille)──驚異の魅惑あるいは魅惑の驚異、とでも訳すべきか──という表現がジャン・コクトーの映画のためにあるのだとすら思ったものである。
スローモーションなど、字義どおりの「のろい動き」でなく、ジャン・コクトーの手にかかると、驚異的な魅惑の映画技法になった。醜悪な野獣が美しい王子さまに変身して、美女と手に手を取って飛び立つ一瞬の、水が渦巻く響動(どよもし)のようなスローモーション──空高く雲のように王子と王女は浮かび上がる。あるいは『オルフェ』の黄泉(よみ)の国から現世へ帰還するときの果てしなく深く長いスローモーション──あの世とこの世の間にうごめく泡のような、影のような、物売りの声まで聞こえたような気がする。
石の彫像が呼吸し、必殺の矢を放ち、死の使徒がオートバイに乗ってやってくる。閉じられた瞼には大きく見開かれた眼が描かれて永遠に眠ることのないきびしく美貌の死神。映画とは「活動中の死」を描くことだと詩人は誇らかに言うのだ。
――と、ここまで書いたところで、人がやってきた。Kさんだ。
「コオロギの話ですか。……え? コクトー? 知らないねぇ」とKさんはいう。
「じゃ、キリギリスの耳は、どこにあるか知ってますか?」とぼくはたずねた。そばにいたSさんも首をかしげている。
「キリギリス? 耳だって?」
「キリギリスになじみのある日本人でも、キリギリスの耳については、知らない人が多いようですね。ぼくもさいきん知ったばかりですよ」
「そいつは、どこにあるの?」
「ほら、ここ」そういって、ぼくはじぶんで描いたキリギリスの絵を見せた。キリギリスの耳は、2本の前脚の膝小僧のやや下にあるといった。
そんなところに!
そんなところにあるのだ。
人間の耳とおなじように、音をあつめ、変換し、その周波数を分析しているというのである。ごりっぱ。図鑑にはそう書かれている。
「ほんとですか。田中さんは、こういう本も読むのかい?」
「図鑑? ときどきね。……。ところでコクトーだけど、彼は《芸術は肉をつけた科学だ》といったんですよ」
「なんですか、それは?」
「ぼくはね、彼の小説より、こういうことばが好きですねぇ。芸術は肉をつけた科学だって! そういわれてみれば、そうおもいませんか?」
SさんもKさんも、きょとんとしている。
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さっきのクツワムシにしても、彼が日本を離れ、アメリカの船に乗り込むときも、コクトーは虫を入れた籠を他人にまかせず、じぶんの膝の上に抱えて持ち歩いたといわれている。おなじ船に乗り合わせたチャーリー・チャプリンの船室にたびたび籠の虫を見せにやってきたそうだ。
「なかなか賢いやつでね。わたしが声をかけると、かならず鳴くんだよ」
ウソみたいな話が伝わっている。
それからサンフランシスコへ着いたとき、チャプリンはコクトーを誘っていっしょにクルマでロサンゼルスまでドライブした。ドライブの途中で、虫はよく鳴いたそうだ。そのとき、「緑色の長いギターをうっとりと弾きこなす」というフレーズがおもい浮かんだそうだ。のちに、チャプリンの「自伝」には、こう書かれている。
「なかなか賢い奴でね」と彼(コクトー)は言った。
「わたしが声をかけると、必ず鳴くんだよ」あまり彼が夢中になるので、とうとうわたしたちの話題になってしまった。
「どうです、今朝のピルゥちゃん(クツワムシのこと)のごきげんは?」と、わたしはいつも訊くことにした。
「どうもよくなくてね」と、彼は大真面目に答える。
「いま食餌療法をやってるところですよ」
(チャプリン「自伝」の「コクトー日本を去る」より、中野好夫訳)
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コクトーの「自伝」は、この旅行から30年ちかくたって出版されたけれどおもしろい。アメリカにはスズムシなどいないからだ。
で、「虫の音」ということばが、どれほど日本の風流な文化をつくってきたかなどについて話したらしい。しかし、日本人はふだん辞典など引いたりしないものだ。
第一、どの家庭にも辞典と名のつく書籍があるという前提はそもそも成り立たない。何もないところで、定義らしい定義もないのに、多くの日本人は「虫の音」を聞いて、夏のひとときを過ごしてきたのだ。
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イギリスのウィリアム・ウォーバートンという英国国教会の主教だった彼は、かつて「わが国には文法も辞書もなく、この広大な言葉の海をわたるための海図も羅針盤もない」といった。
満足な辞典がないという意味である。
日本人が英文を読むということは、つまり、英語辞典をたよりにして読むということだろう。現代英語で書かれた本はべつとしても、それより古い英語で書かれた詩などを読むときは必要になる。彼らがどういう意味で書いたのかではなく、どういう暮らしをしていたかを知るために。
翻訳家のすぐれた訳文に接するまで待てないときは、英文をそのまま読む。
むかし中国から入ってきた漢文でつづられた本を見て、日本人は日本語にしようなんて誰も考えなかった。彼らはそのまま読んだ。漢籍の素養はそうしてみがかれた。
仏典の多くは、――いや、ほとんどすべて、日本人はそれを日本語に翻訳しないで、そのまま飲み込んできた。しかし、それで消化不良を起こしたという話は聞かない。とうじの日本の知識人は、漢文というものを白文のまま読めたからだ。
そればかりではない。それから日本は、やおら100年間にわたって、日本のやまとことばを追放し、公式言語は漢文に置き換わってしまった。これは稀有のことである。
日本は、唐の文化を仕入れようとして、遣唐使をおくり、戦争で国土を支配されたイギリスと違って、みずから唐へ出向き、言語や文化を好き放題に仕入れてきた。世界の歴史のなかで、このような文化摂取にはげんだのは、日本以外にない。
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ノルマンディー公ウィリアムが支配したイギリスとは大ちがいで、日本は、異国のことばを支配語として取り入れなかった。だがイギリスは違った。
それ以来、イギリスにはフランス語が大挙してやってきた。軍事、司法、料理、ファッションなどなど、ヨーロッパ大陸をわたってきた多くの複雑な言語、――ギリシア・ラテンの古層のなかに埋もれるようにしてやってきた語なのだが、好むと好まざるとにかかわらず、否応なくイギリスになだれ込んだ。
フランスや、イタリアには辞典があるというのに、イギリスにはそれがないとして、サミュエル・ジョンソンは英語辞典をつくった。
とうぜんの話とはいえ、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの順で近代国家にのし上がっていったのだが、国の文化を代表することばの辞典だけは、ずっと立ちおくれ、イギリスは後進国としての辛酸をなめざるを得なかった。
その物語の主人公を書いた「サミュエル・ジョンソン伝」(The Life of Samuel Jhoson ジェイムズ・ボズウェル、中野好之訳)は、知られているように「ジョンソン伝」としては充実しており、また、それがジョンソン像を、いつの間にか固定化してしまったようだ。
このような話は、いま取り上げたヘンリー・ヒッチングスの「世界文学を読めば何が変わる?」という本にはすこしも書かれていないけれど、彼の「ジョンソン博士の《英語辞典》」にはたっぷりと書かれていて、ぼくにはおもしろかった。
そればかりでなく、ジェイムズ・ボズウェルの書いたジョンソン像をすっかり塗り替えているところが、なんとも鮮やかである。
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Voici les companons d'Ulysse
prenz garde pauvres sirénes
ils rapportent des mers lointaines
des tristesses des siphilis
ユリシーズの仲間たちがやって来る
気をつけろ 哀れなセイレーネスたちよ
彼らは彼方の海から
シフィリスの悲しみを持って来るのだ
註釈がある。――
ユリシーズ=オデュッセウスが、みずからの身体を帆柱に縛りつけ、仲間たちの耳をふさいで想う。セイレーネス、つまりフランス語のsiéneは、もちろん《人魚》という意味であり、その誘惑を振り切って航海をつづけたという物語「オデュッセイア」は有名だけれど、コクトーは、それを受けて書いている。
「ユリシーズの仲間たちles companons d'Ulysse」というのは、船乗りのことで、「哀れなセイレーネスたちpauvres sirénes」というのは、彼らを誘惑する娼婦らのことをいっている。このあたりは、アメリカの詩人・作家アラン・ポーの「ヘレンに」という詩によく似ている。
Helen, thy beauty is to me
Like those Nicean barks of yore,
That gently, o’er a perfumed sea,
The weary, way-worn wanderer bore
To his own native shore.
ヘレン、あなたの美しさは、
いにしえのニケーアの舟に似る。
かぐわしい海を渡って、ゆるゆると、
やつれ果て、旅に疲れたさまよい人を
故郷の岸辺に連れ戻した、あの舟に。
――さて、さっきの白水社の宣伝に取り上げた文章のなかに、こんなことが書かれていた。
「『ジョンソン伝』はたしかに偉大な、きわめて偉大な著作である。伝記作家の第一人者としてのボズウェルに比べれば、ホメーロスも英雄叙事詩のたしかな第一人者ではありえず、シェークスピアも劇作家のたしかな第一人者ではありえず、デモステネスも雄弁家のたしかな第一人者ではありえない。彼に続く者はいない。……名馬エクリプスが第一着、あとは何処にも姿が見えない」(T・B・マコーリー)という文章が引用されている。
多くのファンをもつボズウェルだが、ぼくにはそこまではいえない。
けれども、すごい、とおもわせるにはじゅうぶんなパワーを持っている。その後、OEDという英英辞典の金字塔ができたというのに、そのジェームズ・マレーの話よりも、依然としていまも、ジョンソンの辞典の話が話題になる。