■なんでもありの21世紀音楽。――
ジュゼッペ・シノーポリ
ジュゼッペ・シノーポリ
ぼくはまだ、やめられない。
ぼくはなぜ、音楽のことを考えるのだろう、とおもう。最もパッショネートな季節は、音楽の季節だ! とおもってしまう。――たとえば、ワーグナーやブラームスといった、偉大な音楽家たちが闊歩した19世紀ロマン主義のあとにやってきたのは、なんだとおもう? キラ星のような、なんでもありの20世紀だったのだ。
ぼくはまだ、やめられない。音楽の形式や、そのあり方、楽器やオーケストラ編成にも、もうタブーなんかなくなったかに見えた時代だ。響きの美しさを最大限に発揮したドビュッシーは、ジャワやインドの音楽に大いにカルチャーショックを受け、パンドラの箱を開けたかのような音楽をつくった。
それは、彼だけじゃない。
シェーンベルクの弟子のベルクも、偉大な先輩たちの思惑などどこ吹く風と、新手法で豊かなウィーンの音を響かせたし、そんなウィーンに背を向け、田舎で民族音楽の探求に忙しかったバルトークも、本気でシリアスな音楽と取り組んだ。
そのころパリを出奔したストラヴィンスキーは、そんなロマン主義音楽はもう終わったと宣言し、バロックやジャズから得体の知れないものを紡ぎ出し、パロディ三昧の音楽をつくった。そして革命ロシアでは、社会の混乱のさなか、若きショスタコーヴィッチはドライな雄叫びをあげ、声高に時代の物語を語った。
――まずそこに、耳を傾けようではないか!
ジュゼッペ・シノーポリ
♪
ふだん、ぼくはたいてい、ドビュッシーの「月の光」をまわして聴いている。
そう、手紙を書くとき、原稿を書くときはなおさらだ。
すると、フランスの「印象派」という新しい絵画の出現と同時に、その音楽がはじまったことを嫌でもおもい知らされる。それはどういうものだったか、ラヴェルの音楽と同時にはじまった印象派音楽に、絵画同様の芸術性を感じないではいられない。
このふたりの印象派の巨匠の作品のなかでも、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は忘れがたい音楽になって聴こえてくる。
この一曲で、これまでの作曲家たちが使ってきた音楽語法というものが、根本から変えられたことを知る。ドビュッシーやラヴェルの東洋的なオリエンタリズムは、これまでの音の流れを目覚めさせ、パリ万博における日本の雅楽や、ジャワ、東南アジアの音楽を汲みとった彼らの耳殻はすばらしいとおもう。
耳殻の礫石(れきせき)、扁平石、星状石と個々のかたちは違っても、音を聴くという行為、――夜半の、あるいは暁闇のなかの、しぐれの音でもあり、地球のあげぼのでもあり、風のゆくえかもしれないその音。
詩人みたいなことを云々してもはじまらない。まずは、この音楽を聴こうではないか。
ドビュッシーにとって、音楽とは、個人的な感動の物語ではなく、イマジネーション豊かな「夢の領域」を指向するものだった。感覚的な印象を描くことに心血をそそいだ。
ドビュッシーは若いころ、フォン・メック夫人の子供たちのピアノの先生を務めたこともあり、彼女は、チャイコフスキーに年金を送って、陰ながら経済的な支援をした女性としても知られている。このふたりはふしぎなことに、一度も会うことはなかった。
チャイコフスキーのネヴァ河への投身自殺は、みずからを救った。チャイコフスキーは死ぬつもりだったが、それがかえって、真の音楽的開眼を彼にもたらした。向う見ずな、彼の度胸試しには、グーのネも出ない。一度も会わない人と結婚しようなどというのは、まずもって、音楽家のやることじゃない!
チャイコフスキーよ、あなたは雀が食べる草sparrow's grass を、だれかにそそのかされて、もしかして食べたのではあるまい?
聡明なチャイコフスキーが。――しかし、そうとしか考えられない。生きていてくれて、人類はあなたに感謝している。
ぼくは現代音楽というものを、知っているわけではないけれど、ポール・グリフィスのことばを借りれば、「現代音楽にはっきりした始まりがあるといえるなら、それはドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》冒頭の、フルートの旋律が示している」といえるかもしれないなとおもう。そうおもって、ドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》冒頭のフルートの旋律を何回も聴いたけれど、ぼくにはついにわからなかった。
英国人には分かるまい! そういって噛みついた男がいた。
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イギリスのジョン・ブル(John Bull)ポスター。志願兵募集。
きのう4月6日土曜日の新聞、台湾地震600人救助つづくの見出しがつづく。
だが、ジョン・ブル(John Bull)は、擬人化されたイギリスの国家像、もしくは擬人化された典型的イギリス人像のことだが、「ブル」は雄牛で、これはもともとスコットランド人のジョン・アーバスノットとかいう風刺画家が1712年にイギリス人の戯画的典型としてつくった一人物像であった。
ほんとうは「ジョン・ブル物語」という作の主役で、オランダ人の典型ニック・フロッグや、フランス人の典型ルイ・バブーンなどが脇役で登場する。バブーンbaboonというのは狒々(ひひ)で、つまりここでは野蛮な人という意味になる。ジョン・ブルが英国人の呼称として確立したその背景には、彼らは、それほど牛肉が好きだったという話である。
イギリス人のクラブ好きは昔からだ。ビフテキ協会というのが結成されたが、作家フィールディングは加入しなかったが、その集会では、「ロースト・ビーフ・オブ・オールド・イングランド」の唄が合唱された。
この協会は、10月から翌年の6月まで毎日曜日に開かれ、供されるものは牛肉だけで、それにマスタード、ホースラディッシュ、ベイクト・ポテト、オニオンなどが添えてあって、多量のポーター(黒ビール)、ポート、パンチなどが出たといわれる。
そしてぼくは今朝、音楽について考えてみた。
つぎつぎに脳裏に浮かぶ音楽は、みんな思い出深い音楽だったなとおもう。それはオーケストラや指揮者にもよるだろう。
ぼくは8歳でヴァイオリンを弾いた。ぼくの人生に音楽があったことを幸せにおもっている。イェーツという詩人は音楽のことを少しも書いていない。少しは音楽に触れていたことだろうに。
ジェームズ・ジョイスとは違うのだ。
ジョイスはアイルランドの舞台に立って、オペラのアリアを歌うほどの実力を持っていたが、それはともかく、ぼくには忘れがたい指揮者が何人かいる。いや、何人もいる。
現代の名指揮者ランキングというのがあって、さいきんの発表――30人の批評家が選んだ指揮者ランキングなのだが、――それを見ると、第1位はサイモン・ラトル、第2位はマリス・ヤンソンス、飛んで、第6位にヴァレリー・ゲルギェフ、リッカルド・ムーティ、エサ=ペッカ・サロネンとつづく。――圧倒的にサイモン・ラトルの人気が高い。
ここ数年というか、10年間はサイモン・ラトルの黄金時代がつづいている。それは認めよう。たしかにサイモン・ラトル指揮による音楽は、どこか聴くたびに新鮮な感じがするし、わくわくする。聴きなれた音楽が、いつも新鮮なのだ。
むかしはカール・ベームの時代があり、カラヤンの時代があり、短かったがレナード・バースタインの時代があった。それは過去のランキングだ。それでもぼくの耳は保守的で、少なくとも、カール・ベームやレナード・バースタインの音楽が依然すてきだとおもいつづけている。
それでもいいじゃないか、とおもっている。
もっともポピュラーな「ウェストサイド・ストーリー」の音楽。
そして、彼の作曲による「キャンディード序曲」など、レナード・バーンスタインの音楽はとても刺激的だ。タイン・ショスタコーヴィチの「交響曲5番」ロンドン交響楽団指揮は、1966年の名曲といっていいだろう。彼の若いころの指揮ぶりが映像としていま見ることができる。そしてマーラーの「交響曲第5番」へとつづく。
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ぼくの過去は、音楽とともにあったし、いまもそうだ。
なのに、ぼくは音楽家を目指そうと一度もおもわなかった。
数学にあこがれたが、数学者を目指そうとは一度もおもわなかった。
小説を読みつづけたけれど、小説家になろうなんて、一度もおもわなかった。
写真を見つづけたけれど、写真家になろうなんて一度もおもわなかった。
いったい、どうして?
読んだり、聴いたりする喜びを知ってしまったからである。
これはひとつの才能かもしれないぞ! とおもう。
小説を書いて、おもしろく読んでもらわないことには忘れられる。だが、忘れられている作品や、誤解されている作品を引っ張り出してきて、再評価することにぼくは情熱を燃やした。いまふり返って、シェーンベルクや彼の弟子だったベルクの音楽に、もう一度耳を傾け、バルトークのシリアスな音楽にも耳を傾け、そのころパリを出奔したストラヴィンスキーの音楽にも、ふたたび時代の指揮者たちによる音楽に耳を傾けて、聴き直すのもわるくない、そうおもっている。
いまは、偉大な先人たちの思惑などどこ吹く風と、つぎつぎと新しい音楽の担い手たちがあらわれている。
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だが、21世紀の光を見て間もなく急逝したジュゼッペ・シノーポリはどうだろう。ジュゼッペ・シノーポリ。――2001年4月20日、ベルリン・ドイツ・オペラでヴェルディの歌劇「アイーダ」を指揮中、第3幕のところで心筋梗塞で倒れ、急逝した指揮者だ。享年54。
彼は博士号をもつ精神科医でもあり、哲学にも通じた真のインテリ指揮者だった。考古学の博士号も持っている。そして現代音楽の教授であり、作曲家としてもオペラ「ルー・サロメ」を成功させた。
1983年からサンタ・チェチーリア国立音楽院管弦楽団常任指揮者となり、1984年、フィルハーモニア管弦楽団常任指揮者(1987年からは音楽監督)を歴任し、1992年にドレスデン国立歌劇場管弦楽団の首席指揮者に就任し、2003年からは同歌劇場の音楽監督就任が決まっていた。――日本には何回もきた。何回もやってきて、「イタリアとドイツ、医学と音楽。相反するものが、わたしの中で共存している」と語っていた。
ダスターコートに黒いソフト帽をかぶり、マーラーそっくりの縁なしメガネをかけて、1992年の秋、日本にやってきて、日本の聴衆を熱狂させた。NHKホールで聴いた彼の「マノン・レスコー」はすごかった。歌劇場ではオーケストラ・ピットに入ると、聴衆の熱気でたちまち温度があがる。NHKホールのばあいも、幕ごとに確実に温度があがったと書かれている。
ゲオルク・ショルティ。1912-1997年。彼の録音は膨大であり、そのほとんどが専属契約を結んでいたデッカ(Decca)レーベルの録音である。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」以降の10大オペラをすべてスタジオ録音した数少ない指揮者のひとりである。
「日本にきて、聴衆の質の高さにおどろきました」とシノーポリはいっている。
シノーポリの指揮には特長がある。音楽に酩酊したような安直な振りではなく、それは、体の中から迸るリズムの加速的表現なのだと、じぶんで説明している。
よくいわれることに、シノーポリはいろいろな音楽家に似ているといわれている。音楽の作り方ではフルトヴェングラーに似ていると。聴衆を熱狂させるという点ではクライバーに似ていると。そして作曲家で指揮者としてはマーラーに似ているといわれた。
しかし、いくら似ていても、ぼくにとってジュゼッペ・シノーポリは、あくまでもジュゼッペ・シノーポリなである。
ジュゼッペ・シノーポリは、日本でこんなことをいっている。
「チャイコフスキーは、19世紀末から21世紀への終わり目の作曲家だからです。マーラーと同時代に生きた、ひじょうに重要な作曲家だとおもいます。わたしは、この世紀の変わり目という時代に興味があるのです。この世紀末は、カタストロフィ(変革)の時代で、そこに生きたチャイコフスキーは、達成できないような不可能を夢見た、ユートピアにあこがれる人だった。わたしはそこに惹かれるのです」(石戸谷結子「マエストロに乾杯」共同通信社、1994年)
「引退は惜しまれるうちにしたい」と、ゲオルグ・ショルティはよくいっていた。
彼は78歳という高齢にもかかわらず、鷹のような鋭い目つきと精悍な姿はむかしのままだったが、54歳で急逝したジュゼッペ・シノーポリこそ、その死が惜しまれた。