本周五郎が嫌った志賀直哉の「僧の神様」

 山本周五郎

 

日本のふるい小説にも、いいものがたくさんあります。

山本周五郎自身も、質屋の徒弟でした。その「山本周五郎」という筆名も、じつは質屋のあるじの名前なのです。こっそり盗んでしまったのか? 

記録によれば、そうではなく、23歳のときに「文藝春秋」に処女作「須磨すま寺附近」の原稿を投函します。そのとき、住所氏名欄に「木挽町(こびきちょう)山本周五郎方、清水三十六」と書いたところ、係の編集者が間違って、作者山本周五郎と印刷してしまったというのです。以後訂正せず、そのまま筆名にしてしまいます。

さいきんなつかしい「雨あがる」とか、短編をいくつか読み返しています。

 

 「山本周五郎名品館Ⅰ おたふく」(沢木耕太郎編、文春文庫)

 

――むかしの小説を読むと、徒弟(とてい)の話がよく出てきます。徒弟として遇されるのはいいほうで、社風に合って、適性があり、だんなさまに認められると、やがて手代となり、番頭となり、のれん分けしてもらって店のあるじとなって出世していく。

 

志賀直哉「小僧の神様・城の崎にて」、(新潮文庫)

 

これは江戸期に成熟した商業資本主義が生んだ制度でしたが、戦後、マッカーサーによる農地改革がおこなわれるまでは、農家も、このシステムにのっとって分家をする風習がずっとつづきました。日本の商業資本主義が、北海道のいなかの農家にもおよんでいました。

三越も三井家も、住友家も、そうして分社して大きな企業に成長していきます。こののれん分けという制度は、1960年ごろまでつづいたとおもいます。

作家山本周五郎は、本名を清水三十六(さとむ)といい、明治36年(1903年)に生まれています。イギリスのヴィクトリア女王が亡くなって1年後のことで、夏目漱石がロンドン大学に留学し、その女王の崩御を目にします。

世界は世紀の大きな変革を見せているころです。

山本周五郎は、山梨県の初狩(はつかり)というところの貧乏長屋に生まれ、横浜の小学校を出てから、東京・木挽町の質屋の小僧となります。木挽町というところは、むかしは銀座のはずれの海のそばで、人力車が通るイキな商人の街でした。大正5年のことです。

ぼくの父は大正3年の生まれですから、時代はそのころです。

学問のない人は、丁稚奉公の小僧から身を立てます。志賀直哉という小説家は大正8年に名作「小僧の神様」を書いています。1919年です。

この「小僧の神様」はどのような小説なのか、読んだ人はわかるでしょうが、一貫のにぎり寿司を食べたいとして、勇気を振り絞って寿司屋に入る、どこにでもいそうな小僧として描かれています。小説の中身はこの小僧の話しか描かれていませんが、この小説は、そういう時代の変革をうまく描いた傑作になっています。若い貴族議員がそのころ流行した立ち食いの寿司屋でトロの値段を見誤って、ただ一貫の寿司が食べられない小僧を見詰めます。

小僧の名前は仙吉といいます。

仙吉と神田の秤屋(はかりや)に幼な子のために「体重秤」を買いにきて、そこで偶然出会った議員が、事情を知らないまま仙吉に寿司を思う存分食べさせてやろうとする話です。たかが寿司一貫の話なのですが、小僧にしてみれば、たかが寿司一貫ですが、とっても魅力的な話です。食べると、さぞうまいだろうなと想像します。一貫でいいから食べてみたいと思います。

ふつう寿司一貫をオーダーすると、にぎりは2つになって出てきます。この2つで一貫というわけです。

2つあるのになぜ一貫と呼ばれるのかについては諸説あり、たいがいの本には、もともと2つのにぎりを合わせた大きさだったことから、2つを1つにして一貫というと書かれています。

むかしから両国には国技館があり、相撲を見物して食べる寿司が流行します。寿司を食べながら、きょうの取り組みをおしゃべりするわけですね。

華屋与兵衛という寿司職人は考えました。ある日、客の要望に応じて寿司を2つにして、ひと口で食べやすいようにして出してみます。これが大いに当たって、寿司といえば華屋与兵衛と相場が決まるわけです。

それ以来一貫には、にぎりがふたつ出すというならわしができました。

華屋与兵衛は、もともと寿司職人でした。そういうわけなので、一貫にはにぎりが2つ出る。その一貫が、つい先日まで4銭でした。ところが、小僧が行った日は値上がりして6銭になっています。その話が書かれています。

そこで大事なのは、この小説が書かれた1919年という年です。

第一次世界大戦は1918年11月11日に休戦となり、1919年のはじめからパリ講和会議がはじまります。1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦という戦争の世紀の幕開けとなり、ようやっと1920年になって20世紀がはじまりました。

20年遅れで新しい世紀の幕が切って落とされたのです。

片道の市街電車を倹約して、4銭で食えるはずの寿司が、あてがはずれて、急激なインフレで値上がりし、小僧の手のとどかないものになっている話が描かれています。作家志賀直哉は、そういう経済情勢をさりげなく描出しています。

未曽有の大不況、バブルのなかで報われない階層としての小僧が描かれています。それが仙吉の見た世の中です。

仙吉というのは、いったい何者でしょうか? 話は先にもどって、将来はやがて手代になり、番頭になり、のれん分けしてもらって店のあるじとして出世することを夢想する、どこにでもいるふつうの小僧です。つまり、われわれ庶民の一小僧として描かれているわけです。

それは、のちに作家となる山本周五郎その人の人物像と重なっていきます。

志賀直哉が「小僧の神様」を書いていたころ、山本周五郎は神田美土代町あたりの秤屋ではないけれど、境遇はまさに仙吉とおなじ丁稚奉公をしていました。仙吉は14、5歳と書かれています。そのとき周五郎は16歳でした。

あわれに思う小僧を見て、議員さんは小僧に腹いっぱいの寿司を振る舞おうとします。この議員さんのことを、当時丁稚奉公をしていた周五郎から見ると、成熟した貨幣経済のなかで、議員さんのおごり昂ぶる行為に、捨て置くことのできない憤りをおぼえ、毒にはなっても、クスリにはならない純粋贈与の話を持ち出した志賀直哉を憎みます。

こういうことは、あってはならないと心に誓います。

ぼくは、志賀直哉の「小僧の神様」を、その一面だけで評価するものではありませんけれど、20世紀の商業資本主義を真っ向から描いた「小僧の神様」を、ひとつの問題提起として読みました。関東大震災で、周五郎の勤めていた質屋は休業に追い込まれ、それを機に彼は質屋を辞めます。作家として身を立てるという決意をします。それ相当の覚悟があったものと思われます。

周五郎は、ある年の暮れ、朝日新聞に彼の文章を載せます。12月31日の朝刊でした。大新聞に随筆を書くというのは、たいへん名誉なことです。しかもその年の大晦日の新聞です。

大晦日と元旦は特別号です。

山本周五郎の書いた随筆は、貧乏の話でした。

いっぽう、元旦号に書いた志賀直哉の随筆は、俗に正月作家と呼ばれるくらい華やいだものだったそうです。この両者の対比はおもしろいと思います。

しかしどうでしょうか、「小僧の神様」の仙吉のような人が、昭和という未曽有の激動の時代をつくっていったのではないでしょうか? 

山本周五郎は終生貧乏を描きつづけた作家です。

あの伊達騒動を描いた「樅の木は残った」は、山本周五郎にしか描けない作品です。挫折する良質のエリートを描いたのは、司馬遼太郎さんだけでなく、山本周五郎でもありました。小僧山本周五郎にあっては、利発な彼のことですから、質屋の小僧として、いろいろ不満をかこっていたのでしょう。食禄100石以下という下級武士を描いた「ながい坂」を、もう一度読み返してみたくなります。