グレアム・ウィフトのブッカー賞受賞「Waterland」を読む

 

 グレアム・スウィフト「ウォーターランド」(真野泰訳、新潮クレストブックス)

 

グレアム・スウィフトの小説「ウォーターランド」を読んでみたら、おもしろい発見がいっぱいあった。ふたたびその話をしてみたい。

もう一度小説のおもしろさ――という話を書いてみたいなとおもう。これまで歴史に寄りかかって書かれた小説は多いけれど、個人の側から、それが歴史になるという話を書いた作品は、ちょっと見ない。

いつだったか、批評家の評言はつまらないと書いたことがあるが、批評家の評言にはなんらの「未来性」も「予言性」もないからである。「これは小説じゃない」というくらいなら、だれだっていえる。おそらくはジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」がいま刊行されたばかりだとしたら、そういう彼らは何と論評するだろうかとおもって。

「ふざけている!」と、口を揃えていうかもしれない。

もしくは「これは文学以前だ!」というかもしれない。

文学の未来に有益な論評をするとはかぎらない。ロシアの近代をみちびいたベリンスキーはもういない。

小林秀雄のえらいところは、そういうロシア文学のあけぼのを日本に紹介したことだろう。それから100年以上たって、いま、世界文学の地平に新しいあけぼのが見えはじめた。その衝撃の一撃は、つぎのような文章で書かれている。

 

一九四〇年の七月、フレディ・パーによってメアリのズロースのなかに入れられたその一匹は、ヨーロッパにおける――うじゃうじゃしていても、――唯一の淡水種、すなわち学名Anguilla anguilla、通称ヨーロッパウナギの元気のいい見本だった。

さて、ウナギは好奇心について多くのことを教えてくれる――じつのところ、そちらのほうが、好奇心によって得られるウナギについての知識より多いくらいだ。驚くなかれ、ウナギの赤ん坊がどのようにして生まれるのかがわかったのは、つい最近、一九二〇年代に入ってからのことであったし、またこの蛇のようで魚のようで、食用に好適で、ついでに言えば男根を想起させる生き物の、いまだにはっきりしないことの多い生活史をめぐっては、昔から今にいたるまで、激しい論争が展開されてきたのである。

グレアム・スウィフト「ウォーターランド」、真野泰訳、新潮クレストブックス

 

これは「ウォーターランド」の作者グレアム・スウィフトの、真野泰訳の訳文の1節である。この文章だけで、そのあけぼのが見えてくる。

むろん、見えてこない人もいるかもしれない。

ズロースのなかに入った1匹のヨーロッパウナギ。――その後、そのウナギと彼女はどうなったか、新鮮で新奇で、大いなる刺激を覚えさせてくれるコンテクストである。小説のおもしろさは、読者の勝手なとき、これまた勝手な想像力で喚起されるもので、自分はこれを「ウナギの衝撃」と呼びたくなった。

これと同様に、ジョイスの「ユリシーズ」は、無類におもしろい。訳本で読むと、それがちょっとおかしな具合になっていて、おもしろさが殺がれてしまっている。――翻訳ではムリだよ、という話はしばらく措くとして、これを母国語で読むことのできる読者はなんと幸せなことよ、で終わってしまっては身も蓋もない。――ここで述べる話は、小説のおもしろさについてである。このような切り口で書かれた本が、もっとあるといいのだが、――。

 

  グレアム・スウィフト

 

妻が引き起こした嬰児誘拐事件によって退職を迫られているある歴史の教師が、生徒たちに、ふるさとである沼沢地フェンズFensについて語りはじめるのである。

人と水との闘いの歴史、――それは父方・母方の祖先とむすびつき、そして妻との恋にまつわる少年時代の忌まわしい事件となり、そこに住む人間精神の地下のような風景を、圧倒的なストーリー展開で描きだす、ブッカー賞作家の最高傑作である。むろん原書のほうも読んでみた。

このたび、ひさしぶりに再読した。

10年ほどまえ、

「ちょうどいい大きさの太陽? おもしろいですね。……ところで、これから、うな重でも食べにいきませんか?」と彼がいったので、

「ウナギ、好きですか?」といってみた。

「ええ、好きです。田中さんはウナギに関心ありませんか?」と彼はいった。

そういわれても、ぼくはウナギについて一度も関心を持ったことがない。食べれば美味いにきまっている。食卓のウナギにしか目がない。

そのウナギについて調べた人がいた。

1904年、――日露戦争が勃発した年だが、――ヨハネス・シュミットという人が、北アフリカに向けて航海する。そこで彼はウナギの幼生なるものを発見する。

ウナギのことはエジプト人も知っていた。ギリシャ人も、ローマ人も知っていた。ローマ人は知っていただけではなくて、その身を珍重した。――そういえば、ダンテの叙事詩「神曲」のなかにも、ちゃんと書かれているね。煉獄で亡霊となり、暴食の罪を償わせるという物語だ。

「いま断食によりてボルセーナの鰻とヴェルナッチャを浄(きよ)む」などと書かれている。生前、たらふく食べたウナギを断食で浄化した、というわけだ。「ヴェルナッチャ」というのは、ワインみたいな飲み物のようだ。13世紀に在位した教皇マルティヌス4世は、ウナギがとっても好きだったらしい。

さて、ウナギの生殖器官がどこにあるのか、ずーっと明らかにされなかった。

「生殖器だって?」彼は、うっふっふと笑った。きっと笑うとおもった。

信じられない話だが、これが分かったのは、20世紀になってからといわれている。ノール岬からナイル川にいたるヨーロッパウナギの生息地にも、成熟した白子をもつウナギが見つけられなかったからである。古代の哲学者アリストテレスもこれを調べたけれど、「ウナギは、じつは無性動物であって、その子供は自然発生によって泥の中から現れる」などと主張している。

これはちょっと、おかしい。

「泥の中から現れる」だって?

ほかの魚の鰓(えら)から出てくるという説や、水中に落ちた馬の毛から孵(かえ)るという説、5月の朝のひんやりとした甘い露の水滴から発生するという説など、……まあ、このような珍説がいろいろとあったという話が書かれている。

これが18世紀になると、偉大なリンネという学者が、「ウナギは胎生である」といいはじめる。その卵は、母胎のなかで受精し、子供がある程度育ってから産み落とされるのだと発表した。この話は、べつの人によって否定されたが、リンネは終生この考えを捨てなかった。

「つまり、子宮があるっていうこと?」

子宮なんて、いったいどこにあるというのだ!

ついに、ウナギの生殖器官の存在を突き止めたというわけである。

ウナギには卵巣があったのである。1777年、イタリア人のパランツァーニという人がいっている。「それじゃ、卵子はいったいどこにあるのか?」と。

まあ、こんなふうにして、すったもんだのあげく、ポーランドのマルティン・ラトケという人が、「Anguilla anguillaの雌性生殖器に関する報告」という決定版が公刊されるにいたったというわけである。

しかし、卵巣は分かったものの、精巣は依然として不明だった。ウナギの性生活が、ずーっと分かっていなかった。

話は余談になるが、スウェーデンに住み、若いころから自己愛にまみれていたカール・リンネという男が、「自然の体系」という本を書いて有名になった。のちに、ゆるしを得て、貴族的なカール・フォン・リンネに改名。

ある種の二枚貝の部位の名称を、陰門、陰唇、恥毛、肛門、処女膜という名前をつけたりして発表した。それはいいのだが、交配の記述に「乱交」とか、「不妊の愛人」とか、「初夜の床」とかいう名称をいろいろ使ったりした。

いま考えれば、バカげているとおもうかもしれない。傑作は、たんぽぽのことを、「小便草」と名づけた。

それでも、リンネの分類法にはすぐれた才能がたくさん隠されていて、現在でもリンネを超える分類法はないとされている。専門的なことはじぶんも知らない。

ところが、ふしぎなことに、リンネの分類法を受け入れたのはイギリスだった。だからいまもって、リンネ協会(Linnean Society of London)はストックホルムではなく、ロンドンにある。

さて、元にもどって、世界の人びとが無知であったにもかかわらず、毎年、春になると、ウナギの稚魚が生まれ、ナイル、ドナウなど、川の河口部にあつまり、彼らは上流を目指して泳ぎはじめる。そして1874年、ポーランドのシモン・シュルスキという大学教授が遅まきながらウナギの精巣を発見するのである。

発見者の名にちなんで、この精巣を「シュルスキの器官」と名付けられた。

しかし、おかしなことが起こった。

その後、いくらウナギを捕獲しても、雄は1匹も獲れなかった。

この理由を考えた人がいる。雄がいなくても、ウナギは単為生殖によって、――つまり、人間でいえば「処女降誕」みたいなもので、――繁殖することができると結論づけた。そういうこともあるかもしれない。

けれども、卵巣と精巣があるとして、いったい、いつ、どこで、どのようにして、このふたつは協力して任務を果たすことができたというのだろうか? それにしてもふしぎだ。

ウナギの卵が孵化したばかりの幼生はおろか、卵で腹をふくらました雌1匹ヨーロッパの近海で発見した者はひとりもいなかったのである。

そこで彼はウナギの幼生なるものを発見する。

それは、ヨーロッパウナギの親戚であるアメリカウナギであることが識別された。

その後、「うなぎの寝床」が発見された。産卵場所は、北緯20度と30度のあいだ、西経50度と65度のあいだ、――サルガッソー海という名前のある海藻のただようふしぎな水域のなかだった。ウナギの幼生が3000、4000も、さらに5000マイルも海を泳いで川を遡り、親の生息地に達するという説が出てきた。何年も淡水または汽水(きすい)の浅瀬で暮らしていたウナギの成魚が、死ぬまえに産卵するという目的のためだけに、ふたたびこの行程を逆方向にたどりつくという話は、どうも信じられない。

 

【汽水(きすい)】とは、河口の水や海岸近くにある湖のように、海水と淡水とがまじりあい、塩分の少ない水のこと(「新明解国語辞典」第6版)。

 

ウナギをめぐる冒険の旅は、科学者も、漁民も、みんな真実を求めているのだけれど、ぼくらがこれほど多くの科学的な知識をもってしても、ウナギの生態はまるでわかっていないのだ。ぼくらの好奇心の多くは、ウナギの誕生と、ウナギの性生活に向けられているが、依然としてこの謎を解けずにいる。

ウナギのことを考えたら、ぼくらの知識なんて、タカが知れていると思わないわけにはいかない。あらゆる知の元であるナチュラル・ヒストリーnatural history(自然誌)に、もっともっと関心を持ってもいいかもしれない。

「知らないことにぶち当たると、わくわくするよね?」というと、

「そうですか。ぼくは知らないことだらけなんで、わくわくなんかしません」と青年はいう。

「いま、ぼくは、アダム・スミスの《見えざる手》の比喩のおもしろさに感じ入っているところです」と彼はいった。

「ほう、アダム・スミスはニュートンと通じるところがあるんだよ」

「え? どんな?……」

「ふたりとも、生涯独身だったし、出身大学の教授になったし、それも、あまりパッとしないぼんやりとした教授でね、ふたりとも父親の死後に生まれ、ふたりとも新しい科学の父になったんですよ。ふたりの業績には100年の開きがあるけれども、ニュートンが生まれて、ちょうど300年後の1942年に、ぼくが生まれたんですよ、北海道でね!」とぼくはいった。

小説「ウォーターランド」は、ウナギの話ばかり書いているわけじゃない。読んでみるとわかるが、新しい小説のスタイルを纏(まと)ったふしぎな小説だ。

父が北海道の泥炭地を掘り起こしてピート(peat泥炭。生成年代が最も新しく、炭化の度合いが最も低い石炭。燃料や肥料にもなる)を燃やした物語とおなじ風景がいっぱいある。川にはまって亡くなった少年もいる。元復員兵に追いかけられて、強姦された女の子もいた。ぼくらの幼いころは、あちこちにいろいろな物語がころがっていた。

「ウォーターランド」は、そういう60年前の眠っている記憶を呼び覚ましてくれる本になった。