■孤独の科学。――
人はなぜ寂しくなるのか?
「Departures」より
アインシュタインのことば。
「挫折を経験したことがない者は、何も新しいことに挑戦したことがないということだ」(Anyone who has never made a mistake has never tried anything new.)。これは、まだ挑戦を試みる余裕のある人びとへのメッセージに違いない。1週間食事にありつけない極貧の人間には、このメッセージはとどかないだろう。
ぼくは若いころ、アインシュタインのことばをそんなふうに受け止めた。
けれども、アインシュタインのいっていることは正しい。ともかく生きて何事かを成し遂げようとしている若者には、勇気を与えることばであろう。
若者でなくても、大いに惹きつけられるかもしれない。挫折を経験したことのない人は、じぶんの人生をまだ歩いていない、ということかもしれない。
「孤独の科学---人はなぜ寂しくなるのか」(ウィリアム・パトリック、ジョン・Т・カシオポ、河出書房新社、柴田裕之訳、2010年)
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さて、新型コロナウイルスの感染拡大で、さまざまな経済活動が停止され、各国が入国規制や都市封鎖に踏み切ったことで飛行機は飛ばなくなり、自動車の利用も激減した。安倍晋三首相が緊急事態宣言を発令してから2週間がたった時点のことをいう。
かつての宿場町・草加のメイン街道筋は、道をゆく人びとの姿が極端に少なくなった。
人のなかには、1918年、世界の5000万人もの人びとの命を奪った恐ろしいインフルエンザ・パンデミックの話を持ち出す人がいる。
「戦争など、やっていられない!」といって。
だから、画家の、55歳のクリムトと、28歳のエゴン・シーレは、おなじ年1918年に亡くなっている。
挫折もけっこう、経験もけっこう。――聴覚障害で苦しんでいた恋人のために、何かできないかと考えたベルは、電話器というものを発明した。しがない鍛冶屋の息子ファラディーは、銅線をコイル状に巻いて電流を流すと磁石になることを知った。
地球の重力に反発して、釘を吸いつける。これはおもしろいといって、12歳のファラディーは研究に没頭し、やがてモーターの原理へと発展させる。
個人的な動機から生まれたにせよ、そうでないにせよ、電気を利用した数々の発見と発明が成し遂げられ、現在の豊かな社会が生まれたのは確かである。そういう社会にあっても、いま、社会のあちこちで絶望の「のろし」が上がっている。
のろしが1本だけ上がったときは、世間の人びとは気づかない。
2本上がったときも、世間の人びとはまるで気づかなかった。そして、3本上がって21世紀の今を迎えたきょう、絶望の果てに、新型コロナウイルスを吸いこんで路上をさまよい、人知れず、冷たい路上で孤独死していることがわかった。死ぬときぐらい安らかに死にたいとおもう。それが果たせない時代を迎えてしまったわけである。
科学は急速に進歩した。ネズミは人間の18倍も速く成長する。ちょっと前は、マウスイヤーを迎えたといって、人びとは浮き足だった。だが現在は、それさえも追い抜き、人類がこれまで経験したことのない速さで成長している。
光は1秒間に30万キロメートル走る。人体の神経系の伝達物質ニューロンは、シナプスの谷を秒速20万キロメートルの速さで飛び越える。
そういうことがわかった時代になっても、人類は絶望しながら死の街をさまよう。
社会的活動を停止した人びとは年老いてしまい、行き場のないシナプスの谷に追いやられる。そういう人びとはみんな、不本意ながらも死んでいく。つまり餓死をする。人類が営々として築いてきた社会、それはいったい何だったのだろうとおもいながら。――
エゴン・シーレの描いた絵
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かつてピケティ氏の「21世紀の資本」に描かれているように、いま、進んだ社会にあっても、そうでない社会があり、地球上に餓死をする人がなんと多いことかとおもい知らされる。
以前もこの話を書いたので繰り返さないけれど、そういう地球規模の一般論を一方的にいうつもりはない。
けれども、たとえば、米の全新聞の「日曜版」を発行するのに、米の豊かな森に生えた50万本の木々が倒されているのだ。森が1日ごとになくなっているのである。アル・ゴア元米副大統領が運動した「不都合な真実 地球温暖化の危機」(ランダムハウス講談社、2007年)という資源調査の結果データを読むと、寒くなる。
そればかりか、かつて日本の社会で活躍し、高度経済成長期にがんばった人びとでも、だれにも看取られないまま余生を過ごし、静かに孤独死をしてしまう。技術革新と成長が速くなればなるほど、そこに取り残される人びとが増えていった。公的な介護の手のおよばない世界で、人びとがつぎつぎに亡くなっている。
さいきん某テレビ局で放送されたドキュメンタリー番組は、圧巻だったなとおもう。血の出るような努力をしてこの日本をささえてきた人びとが、じぶんの余生に入るやいなや、あっという間に人生とお別れをする。そこには看取る人もいないのだ。
かげろうのような人生。
番組ではそういう人も、かつては輝いていたという話が展開され、その落差はいったい何だろうと問いかけている。
現代社会の、若者には見えない叫びののろしが上がっているのである。
彼らは、やがて人びとの記憶からも忘れられ、過去へ過去へと押しやられるだけだろう。そういう人びとの無念の死を踏み越えて、若い世代に受け継がれていくというわけである。――しかし、どこか、おかしい。
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もともと人間を測る尺度は、学歴じゃなく、カネでもなく、権力でもなく、ただひとつ器量にあるといわれた時代があった。ここでいう器量とは、いったい何だったのかとおもう。親をおろそかにする器量のない人間たちが多くなったようだ。
むかし、プロタゴラスは、「万物の尺度は人間である」といった。おのおのの主観的判断以外に、この世に真理はないとする相対論を展開したことばである。この論でいくと、たとえば、あるアスリートの腰パン男、浮いたようなかっこうは、日本の恥に見えても、彼自身にとっては、疑う余地のない真理なのだ。そういうことになりそうだ。そういう大人の目線をもつ度量が近年問われているようにおもえる。
アスリートのひとりの若者がとったへんな行動は、プロタゴラスなみの哲学的行為であるという理屈にもなろう。
社会をリードするのは、知的エリートより、資産家より、器量を備えた人物であろうとおもう。そういうきらりと光った人材が、なかなか見つからない。1960年代には、そういう人がいっぱいいた。これでは、日本に未来はないと、ぼくなどは考えてしまう。
現状を憂える器量の持ち主には、いろいろあるとおもう。
器量の具体的なありようを明治以降の日本に求めたいのだが、それが、ほとんど伝わっていないのだ。むかしのことばでいえば、「徳行」だろうか。
「才走るな、徳をみがけ!」ということになりそうだ。
つまるところ、むかしのことばでいえば、この「徳行」以外にないということになりそうだ。器量は、50歳を過ぎても、気持ちひとつで、いかようにでも大きくすることができるとおもっている。
そういう人間が、もしも檻(おり)のなかに入れられたら、どうなるだろうか?
かならず群れて収監されるだろう。
人間は、ひとりでは生きられないからだ。それほど人間は孤独なのである。
人間は、それほど孤独に耐えられず、仲間と群居せざるを得ない生き物なのだ。だから、孤独は人間にとって、絶望なのだといった人がいる。しかし、現在の日本は孤独者がまことに多い。彼らは絶望しながら生きている。
「死にいたる病」を書いたキルケゴールは哲学者ではあるが、彼はそういう人間のことを、よーく観察していた。「死にいたる病とは、すなわち、絶望のことである」というのが、キルケゴールの論旨である。
太古のむかしから、人類は集団でいたほうが安全なので、ひとりになると不安になる遺伝子を持った。もう、どうしようもないほど、その遺伝子に組み込まれているのである。この「孤独感」こそが、人類という種の生き残りにたいへん貢献しているとおもう。
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しかしいっぽう、金銭的に豊かな人は、より孤独を感じるという別のデータがある。貧乏ではあっても、家族集団にめぐまれている人は、孤独感が低いといわれる。これは、どうしたわけなのだろう?
金銭の力で孤独を寄せ付けないからだといわれている。そういう人は、金銭が得られなくなると、深い孤独感に打ちのめされるだろう。近年の学説には、おもしろいものがある。助けを求める孤独な人は、みずから率先して人を助けることによって、じぶんの孤独感を解消しようとする。そういう説がある。
先にあげたドキュメンタリー番組は、そういう助ける人びとを描いていた。助けることで、じぶんの孤独感をみずから救っているというわけである。
それは、コミュニティ社会の連帯意識、帰属意識を満たすからだろうとおもわれる。じぶんは、ひとりではない、という意識を持つことができるからだといわれている。「孤独を科学した」人の文章を読むと、そういうことが書かれている。「孤独の科学---人はなぜ寂しくなるのか」(ウィリアム・パトリック、ジョン・Т・カシオポ、河出書房新社、柴田裕之訳、2010年)という本を、あらためて読み直した。