「きみを夏の一日に喩えようか」
太陽にあたって
ジョン・ゴールズワージーの「林檎の木」について、以前何か書いた。
その小説にはエピグラフがついている。いなか娘のメガンとインテリ青年フランクとの林檎の果樹園での恋と、彼女の自殺を秘めている。それとはべつに、彼の「フォーサイト老人の小春日和(Indian Summer of a Forsyte)」のエピグラフは、こうなっている。
「しかも、夏の貸借期間は短すぎる」(W・シェイクスピア作)。この引用文は、シェイクスピアの「ソネット」の18番から取ってきたものだと分かる。
きみを夏の一日に喩えようか。
きみはさらに美しく、さらに優しい。
手荒な風が5月の可愛いつぼみをゆすり、
しかも、夏の貸借期間は短すぎる。
Shall I compare thee to a summer’s day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds de shake the darling buds of May,
And summer’s lease hath all too short a date:
「小春日和(Indian summer)」ということばをおもい出す。英和辞典によれば「小春日和」というのは、「晩秋のあたたかい期間」、あるいは、「老いらくの恋」と出ている。この物語の期間は5月から7月半ばにかけて描かれたもので、「ソネット」でいうところの「夏の貸借期間は短すぎる」となげく夏に限定されている。
ということは、「老いらくの恋」という意味になりそうだ。
ジョリオン老人は、85歳。彼は心臓をわずらっている。
老人は夕方の4時半にやってくるはずの、アイリニーをずっと待っている。
このシーンを、ある人は、ゴールズワージーのいとこ、アーサー・ゴールズワージーの妻エイダに、彼がひそかに恋慕を抱いていた事実があるというのである。それに引っ掛けていっているのだろうという。いとこの死で、その後、ふたりは結ばれた。
この「フォーサイト家物語」は、そのエイダにささげられたものと読めるという。その後ふたりは、どうなったかぼくは知らない。「作家の本音を読む」(みすず書房、2007年「エピグラフの謎」より)と題された坂本公延氏の本によれば、そのように書かれている。自分も、ヨーコとの再婚の日々をおもい出す。
ヨーコを夏の一日に 喩えようか。
自転車にまたがり、その魅力あるお尻を乗せて、
きょうもどこかからやってきた。
そのたとえようもない光景は、
夏の陽だまりの木陰に憩う蝶のようだ。
燦々と太陽が降り注ぐ夏の、
風を切って自転車をこいできたのだ。
――ある日、砂場のベンチで語り合う。
ヨーコの白い夏帽子が似合い、緑色のベンチが
恥ずかしげに熱くなる。
「コーヒーでもいかが?」と呼びかけると、
マンションの入口で、ゴトンという音がした。
男の目がくらんで、自転車が倒れた音だった。
「やー。……つい見とれちゃって、やっちまった」と男はいう。
ヨーコは、いっそう華やいで、汗を拭いた。
――しかし、夏の貸借期間は短すぎる。
いつしか、秋になり、冬を迎える。
冬の寒い夜、われわれの夏が舞い戻った。
ふたりは、芋虫のように丸まって、
ひとつ布団に横たわり、愛を交わしす。
……信じて、いいのね? とヨーコはいった。
そのはじめての抱擁は、冬を跳はねのけ、
ほんものの夏の季節よりも、いっそう熱くなった。
……この人を、信じようと思った。
抱きしめながら、3月の夏を経験した。
ヨーコは、この文章を読んで感想を述べた。
「ひさしぶりにいい文章を読ませてもらったわ。……米屋さんの部分が、とってもよく書けているわね。……あれは、想像で書いたのよね」といった。米屋さん? ああ、あれは先日の日記だとおもう。
「もちろん、そうだよ。米屋の大女将が見たわけじゃない」
ぼくは10分ほど昼寝をして、ちょうど起きたときだった。
ヨーコもいっしょに昼寝をした。彼女は黒いワンピースを身につけたまま布団の上に横たわった。しばらくくっついて寝た。そして、おしゃべりをした。ナターシャのような気分を出して、ヨーコはいう。
「だいじょうぶよ、……なんにも心配しなくて、いいのよ」という。自分の頭を撫でながら、「だいじょうぶよ」と、またいう。ヨーコはね寝ている自分は、息子か何かみたいに見えるらしい。
「今夜、9時ごろ帰りますから、……」といっている。
「どうして、9時なの?」
「あら、いったじゃない。きょうは、着付けを習いに行くって」
「ああ、そうか」
「帰るのは、たぶん9時過ぎよ。……和服はいっぱい持ってるけど、着ないとね。……この体型だと、洋服は合わなくなったわ。和服ならいいわよ。……でも、ひとりで帯が締められないのよ」といっている。
それを習いに行くという。松原団地方面にある東急のビルで、和服教室をやっているらしい。そうしたら、自分も着流しを着て、作家・荷風のように、風流にやってみようじゃないかとおもう。それには、パンツは似合わないな。ふんどしが似合うのだが、……。ふんどしは持っていないので、何も履かないほうがいいようだ、と考える。
♪
「Kさん、ご招待する件、いっといてね」という。
このマンションの402号室に住んでいる北海道剣淵町出身のKさんのことだ。今月末で、ここを引っ越される。沖縄で家族が待っておられるという。引っ越されるまえに、北海道の話をしたいとヨーコはいっている。そういえば、Kさんとは、めったに会わなかったなとおもう。北海道出身であることは知っていたが、そのチャンスがなかった。
「こういう人とは、お付き合いしたかったわね」と、ヨーコはいった。
ヨーコのことを、Kさんは知的な女性といったので、ヨーコはきゅうに親しさが湧いたのかも知れない。ヨーコの仕事ぶりは、いまでもそんなふうに見える。そういうふうに見えてしまうのだ。
「あらー、《ホワイト&ホワイト》しか、知らないの?」
この質問に、ぼくは大きなショックを受けた。じっさい、知らないのだから知らないのである。いまどきの歯磨き粉に、なんの知識があるものか! ぼくは、ぜんぜん知らなかった。そういう反発心はあったが、そのうちにヨーコが好きになり、ヨーコと再婚した。彼女は広告会社のマーケティングの調査の仕事をしていた。
♪
ある女性が、妊娠したら、どうなるの? ときいた。女のこころも変わるかしら? といっていたのをおもい出した。
英語で妊娠というのは、空っぽが満たされることをいう。満たされるのは子宮wombで、それが妊娠conceptionの姿であるといつか勉強したことをおもい出した。もともとはラテン語である。
男は、空っぽの器官に種を注入する。こういうところから、妊娠という単語には「con-(共に)」がつくようになった。セックスはひとりではできないからだ。安部公房の戯曲に「棒になった男」(1969年)というのがあった。まさか、あれではないだろう、とおもう。
風のなか、重い荷物をぶら下げて
だるまになって帰ってくる妻。
日々のこと夫の書いた日記帳、
点検する妻うれしがり。
週7日、毎日々々連れそって、
飽きることなく変化(へんげ)する妻。
妻の目に憂(うれ)いを写す日々なれば、
ぱっとかがやき気分一新。
じゃがいもの実のほくほく感おいしくて、
ヨーコのほっぺにキスしたくなり。
妻となりヨーコとなって舞う蝶の
番(つが)いとなりてきょうもありけり。
万難を排してのぞむこの年の
ペンの勢いまたきょうもあり。
ひたぶるにほとばしる情熱の烈々(れつれつ)と、
脇の下からあふれ出るまま。
ステッドマン医学辞典にある劣情、
科学を超えて湧きいずるあり。
さざんかの燃える色に誘われて、
絵にも描きたき落日の色。
いくたびも考えぬいて決意した、
洋々たるあの海もう一度見ん。
北竜のひまわりの里なつかしき、
ヨーコと訪れし春を思えり。
ヨーコから電話がきた。
「いまから、人が訪ねてくるのよ。お父さん、すぐ帰るとおもうけど、来ないでね」という。「ふーん、分かった」
だれだろう? 電話を切ると、こんどはKさんから電話がきた。30日の夜、招待する件、予定しておきます、という連絡だった。「奥さまに、よろしくお伝えください」といっていた。