■山口晃先生へのレター。ヘンリー・D・ソロー研究として。――

す文化のい手」

 

山口先生、いかがお過ごしでしょうか。

ぼくはじぶんの勤務を5年前の3月、76歳のときに辞めました。勤務は辞めましたが、これまでとおなじマンション「ラ・メゾン・ブランシュ」に住み続けています。さいきんはマンションのある女性に、

「田中さん、これからは好きなだけ時間を差し上げます。好きにして」

と、突然いわれたみたいです。

おかげさまで、体はどこも悪くなくて、新型コロナウイルスさえなければ、あちこち出歩くのですが、こういう事情ですから、買い物や散歩以外はずーっと部屋に閉じこもって、毎日が読書三昧の日々です。

みなさんのヘンリー・D・ソローの語学研究のほうは徐々にさかんになり、いろいろと送られてくるメールを拝読させていただいております。ぼくは原文を読んでいなくて、みなさんのお考えをただ一方的に拝聴するだけですが、それぞれの時間を有意義に消化され、日々を愉しんでおられるごようすが目に見えるようです。

かつてじぶんが新聞・テレビなど、ジャーナリストとして過ごしてきた時代を振り返りますと、今のような「時代の分断」は、戦後は一度もなかったようにおもわれます。今回の米大統領選が改めて示すものは、政治的分断がいかに深刻で、修復できないまでの痛手を蒙ったことでしょうか。

 

ヘンリー・D・ソロー

 

つい先年からはじまった自国第一主義や、中国による力の押しつけ、内政にはじまるより内向きの、「明と暗」、「新と旧」に別れる国や人びとの分断の姿は、産業構造の分裂変化をより助長させ、暗や旧は、そのまま密度の濃い庶民の暮らしに影響し、ふたたびアルビン・トフラーの「第三の波」ではありませんが、新時代が姿を変えて目の前にやってくるのでは? と思わせたりします。

たしかなことは、トランプ後はGゼロ時代になり、「強い米国は、もう戻ってこない!」ということです。

9年前に予言した国際政治学者イアン・ブレマー氏のいうとおりになりました。ぼくと同じ年齢の民主党員で、エスタブリッシュメントのバイデン氏は、米国の最も弱い大統領として就任します。きょうのニュースでは、あろうことか、次期大統領は犬と戯れていて、足の指にヒビが入るけがをしたと伝えられております。

「だいじょうぶか?」と、声をかけたくなります。

そういう中で、いま、170年前の米思想家ヘンリー・D・ソローの発言を研究することは、とてもとても意義深いことと思います。

2020年2月、――その年はじめての、山口晃先生の「ヘンリー・D・ソローの日記」講座が、武蔵浦和の公民館ではじまりました。その日はソロー40歳ごろの、1857年3月31日の日記を読みました。一見して、ふしぎな文章に見えます。

 

《とても心地よい日だ。果樹を植える用意をしながら、庭で何時間か過ごした。温かい土の中に鋤を入れるのは快い。勝利はついに私たちのものだ。というのも、私たちはとどまって、畑を手にしているからである。》

 

――と書かれています。ここを翻訳された山口晃先生ご自身、棒線の部分がよくわからないといわれました。「勝利とはいったい何でしょうか?」と。

もちろん困難、病気などの克服、征服、a victory over adversity(逆境の克服)という場合もありましょうし、そこに留まって「耕す文化の担い手」になりつづける、――その歓びの文章は、人びとが事業に成功したことを裏付けるものではないでしょうか。ぼくは原文を知りませんので、不確かではありますが。

で、「耕す文化の担い手」であったぼくの父も、北海道の農業人でしたので、ときどき鍬をもつ手を休めて、ふと思索をめぐらすことがあったようです。父は、なにかおもいついたとき、農具を放って手帳に何か書きこみます。

農業人は土を耕すことが仕事なので、土を掘り起こして畝(うね)をつくるのがじょうずです。――考えてみれば、この「掘り起こす」というのはculture(文化)のもともとの意味で、ラテン語のcultus(耕地)から生まれた英語です。

考えも掘り起こし、歴史も掘り起こし、記憶も掘り起こすというわけですね。掘り起こしてできたものを、「畝」といい、詩人の描く一本の詩文(black line)は、畝のようです。つまり、詩です。

Verseとは、つまり家畜に田を耕せている畝という意味です。韻文詩を意味していて、イギリスでは、「poem」ともいうけれど、たいていは「verse」といい、ブランク・ヴァースとはいっても、ブランク・ポエムとはいいません。シェイクスピアの無韻詩のことなどです。

イギリスでは、「poem」ともいうけれど、たいていは「verse」といい、ブランク・ヴァースとはいっても、ブランク・ポエムとはいいません。シェイクスピアの無韻詩のことなど。畝が3本できたら、詩行が3つできたのとおなじというわけです。詩は掘り起こされたもの、という意味をもっているようです。

人びとは、詩人じゃなくても、じぶんの畝をちゃんと耕し、掘り起こし、おのが耕地で、おのが文化、おのが詩行を立てているというわけでしょうか。北海道、ぼくの生地のふるさとの風景は、そういう畝の見えるところでもあります。そして、多くの祖先が畝をつくりつづけ、いまもその畝が連綿とつらなって見えるというわけです。

ですから、農業人の表現は、詩でもなければ音楽でもなく、絵でもない。ひたぶるに、畝づくりに発揮されてきました。ですから、農業人の魂を見たければ、彼らのつくった畝を見るしかない。そして、できた作物を見るしかないのです。――これは、譬喩ですが、人びとは人びとの畝というものをちゃんともっているというわけですね。

「あなたの畝は、何?」というわけ。

北海道開拓に落後して、農を捨てた者は、敗者です。そう見えます。

ソローが「私たちはとどまって、畑を手にしているからである。」というのは、それをいっているのでは? とぼくには見えます。大地に向かって、かつて星雲の志をおなじくした仲間たちとその地に根を降ろし、自然とともに事業に立ち向かったことは間違いではなかったと、そんな感慨を感じさせる、まことに誇らしい気持ちを抱かせる文章に見えます。

 

グラント米大統領

 

19世紀は、アメリカ合衆国らしい「自由と平等」の共存を掲げ、王様も貴族もいない、他国からの移民により成立した自立建国の国でした。ですから、彼らは、謙虚さのなかの自信を大いに謳った時代を過ごしたことになります。それだけに、ヨーロッパにはけっしてない特質を持っています。

この強国は、ときおり贅肉がつきすぎて、幾度か発熱して成長病にかかったりしましたが、旧ソ連の崩壊によって、もっともパックス・アメリカーナの謳歌する時代となり、アメリカナイズされたグローバリズムの到来をもたらし、頼りにされるいっぽうで、世界からますます脅威と反撥をまねいているように見えます。

しかしアメリカは《約束の地》――神が約束したカナンの地といわれた大陸で、「文明と未開地の中間にある動く周辺」といわれた国です。

それが彼らのフロンティア時代であり、つねに熱をおびて、たえまなく動いてきました。杭(くい)と税官吏で配置された境界ではなく、西へ行けばだれでもじぶん夢を実現できるフロンティア時代。アメリカの夢が、人びとの夢が、そこに託されたといわれています。

権力者ではなく、法律が支配する国で、勤勉で冒険好きな人間なら、だれにでも無限のチャンスが与えられる国。――そうしてつくられていったのがアメリカ合衆国だったようにおもいます。

そこに民族が相寄り、相つどって、異種雑多な人びとによって近代統一国家ができあがっていったわけですが、そのために彼らはだれでも、「自己証明」というものを胸にぶらさげることになりました。

アイルランド系、イタリア系、スパニッシュ系、ユダヤ系、中国系、そしてニグロというように。顔や肌や目の色も違う多数派集団。それがアメリカ独自の多国籍社会を構成することになったわけです。そこにおいて人間は、一本の「留め金」みたいな存在でしかなくなり、そのリベンジのあらわれが、よりパッショネートなはけ口として、一種混血音楽ジャズが誕生したり、より俗悪になって、人びとを鼓舞させながら、いっぽうではだらけさせ、ヨーロッパから持ち込んだ伝統文化と低俗文化との癒着を生んでいきました。

それがヨーロッパにも世界にもない、アメリカ独自の文化に育ったのだと、ぼくはおもっています。

貴族も王様もいない彼らの国では、なにごとにも頓着しない、無鉄砲でおおらかなキャラクターを育み、臆病風を吹かせない人びとをつくったと。

アメリカで育った映画スターたちは、無数の孤独な人びとに恋愛や情事の幻影を与えましたし、チャーリー・チャプリンは、辱められた人びとを演じ、権力にひるまず、恋にやさしくて人情を持ちつづける、どこにでもいる巷の人間を代弁して、大いに喝采を浴びました。

さて、繁栄のなかの失業と貧困。格差社会の拡大。――そんななかで人びとは希望や夢を失わず、依然としてアメリカの夢が無傷のまま、まだ残っていると信じて疑わなかった時代が、ついに終わりを告げた感があります。

過去の歴史的な物差しで測れば、米国民の歴史は、ヨーロッパの諸国にくらべたら、ちっぽけなものでしかないけれど、だからこそ、彼らは一攫千金の夢を求めて西へ西へと暫進していったように、彼らもまた自己実現のために、あらゆることに挑戦しました。

嘉永6年に日本にやってきた黒船のペリー艦長は、その後、考えのちがう南北の人びとと市民戦争(南北戦争)をし、日本へは、たった一度の艦隊来航を成し遂げただけで、それっきりやってきませんでした。その後アメリカは、200回以上も戦争し、戦争のたびに西側世界のリーダーにのし上がっていきました。

1904年、アジアの小国日本が大国ロシアに宣戦布告したとき、アメリカの指導者たちはびっくりしたでしょう。小国日本が、本気でロシアに勝てると思って立ち向かったことに驚いたと思います。米国の作家ジャック・ロンドンが来日し、日露戦争に挑む日本という国を驚きをもって視察しています。

アルゼンチンの軍指導者のひとりは、艦船「日進」に観戦武官として乗り込み、そのまま日本海海戦にのぞみ、その目で視察しました。「日進」の戦死者は約100名、ドメック・ガルシア海軍大佐は生きて生還することができました。

その後、海戦のもようを「アルゼンチン海戦武官の記録」(全5巻)として公刊されましたが、その事実を日本側が知ったのは、なんと平成5年のことでした。

日本は、ロシアとの日本海海戦の詳細な記録はだれも見ていませんでした。

アルゼンチンの海軍学校では、現在「日露海戦」をテキストとして学ばせているそうです。世界の最後で、世界最大の海戦を記録したものです。そういうわけで、日本がロシアに勝利したとき、フィンランドやポーランド、アルゼンチン、インドなどでは、わが事のように歓喜したと伝えられています。

いっぽうアメリカの指導者たちは、こんどは日本を警戒しはじめました。

けれども、アメリカのグラント大統領時代には、日本の北海道開拓への指導者として、アマースト農科大学の学長だったクラーク博士を派遣します。

日本は、アメリカとはそれ以来の交渉を持ってきました。

大統領後のグラント氏は、2ヶ月間にわたって日本に滞在し、天皇ともお会いし、種々のアメリカ農法が輸入されると、オランダ農法とともに北海道開拓が大がかりなかたちで急がれました。

札幌農学校が北海道にできた背景には、凍らない港を求めるロシアの南下政策を阻止するためであったといわれています。そういう点では、当時は、日米の思惑が一致していたわけです。

しかし、米国民は、指導者・大統領という存在を、あまり尊大に考えていませんでした。

小説家になることは大統領になることとおなじか、それともたやすいか、むずかしいか、いずれにしても大したことじゃないと踏んで、人生のインデックス(指針)を大いに賭けた人たちが多かったというわけです。

そうしてアイルランドからの移民として、2人の大統領――ケネディ、レーガンを生みました。彼らにとって、裕福な生まれがすべてじゃありませんし、州知事にもなれたし、一介の労働者が、名声を馳せる脚本家にだってなれたし、いっぽう黒人だからといって、いつも拗()ねて暮らせるような生易しい社会でもなかった。

ですから、彼らは資本主義社会のつねとして、みずから工場やオフィス、どこであってもいとわずに、働くときには大いに働き、楽しむときには人生を大いに楽しみ、それで報酬を得てつぎの夢を追いかけます。人生を大いに楽しみながら、おおらかに野望を遂げていった人がたいへん多い。

彼らの望むものは、どんな野望であっても、いつかは実現させることができる自分たちの国に誇りを持ち、その謙虚な自信と自由な考えが、彼らをいつのまにか、奮い立たせ、鼓舞していったのだとおもいます。アメリカの小説や詩、映画・演劇ミュージカルなど、――アメリカの商業ジャーナリズム全体をながめますと、庶民の娯楽をより向上させることを考えつづけた足跡を見ることができます。

「新世界から」の音楽は、ドヴォルザークの作曲ですが、彼は、アメリカの音楽学校に勤務しながら、この曲をつくりました。プラハ時代の報酬の10倍以上の報酬を得て、黒人たちの奏でる音楽に耳をすまし、巨大な人のうねりに希望を抱きました。

このアメリカでは、主人も召使も、呼びかけるときはお互いに「ミスター」と呼び、「親愛なるだんなさま」という敬語を使わないことに驚きます。

大金持ちであろうが、貧乏人であろうが、民主主義的な思想がいきとどくアメリカという国のふしぎな進歩思想に慣れてくると、ドヴォルザークは「もっとも自由な国」というイメージを持つようになっていきます。

当時は、アメリカの台頭が目覚ましい時代にあって、ドヴォルザークはプラハでは考えられない夢孕む新世界を実見します。

1878年からのおよそ20年間で、国中の工場が2培になり、そこで働くブルーカラーの賃金労働者の数も2倍に増え、国内総生産が3倍に増え、意気をあげる新生アメリカの熱意をいやでも目にすることになったのです。

「石油王」の偉名をとるロックフェラーや、「鉄鋼王」の偉名をとるカーネギー、鉄道業界を支配したスタンフォードやヒル、その名を冠した大財閥の開祖モーガンらは、ヨーロッパにはない新しい風を吹かせていました。

そのような世界を垣間見て、ドヴォルザークはアメリカにおける最初の作品に、人びとの関心を大きく惹きつけます。その新作は交響曲「新世界より(From the New World)」という、論争のなかであからさまに取りざたされた題名だったのです。これは、曲を書き終えてから急におもい立ったかのように譜面に書き込まれたものでした。

そうして、アメリカの華やかな社交界が形づくられていきます。――そこには、真贋入り交ざった宝石のような社会と、カットグラスのように脆い美しさ、憐れさ、魚鱗のようにきらめく誘惑と幻影が見られます。

しかし権威や形式を否定するダダイズムやシュール・リアリズムを生んでいったヨーロッパ社会とはぜんぜん違った世界です。さわがしい政治的な意見といっしょに、情事のささやきも聞こえる社交舞台ができあがります。

彼らの国は、もちろん伝統や歴史が少ない。そういうささやかな伝統とか栄光とか、名誉、勇気などという抽象的なことばが彼らを鼓舞していく反面、これに反撥していったアメリカ人作家がたいへん多かったのです。ヘミングウェイは、そのかわりに町の名、道の名、川の名、連隊番号といった具体的な固有名詞でつづられる小説を多く書きました。

登場人物の気分、作家の気分みたいなものがそこに滲み出て、作家が何をいいたいのか、はっきりと表現された作品ができあがります。「武器よさらば」など。アメリカの文学が美しく、強いものに見えるのは、そういう作品でしょう。

いっぽう、スコット・フィッツジェラルドは「人生はすべて崩れ去ることのプロセスである」といいましたが、そういいながらも、戦争がわれわれをこんなふうに傷つけたのだという甘えがまったく見られません。

アメリカ文化が日本を牽引してきた歴史は、100年もつづいています。

「日本の若者よ、げんきを出せ!」と叫びたくなります。

若者が時代をつくっていったビートルズ旋風、あれは、いま明らかに南米に移行した感があります。国づくりに多忙な地域です。フローの風が吹いている国。そんな感じがします。古代ギリシアのストックの風は、もう吹かなくなって久しい。ストック文化は、生産を生まない利子で食べる金貸しみたいなもので、人を惹きつけてはいますが、たんなる好奇心だけ。

かつての中心ではなく、「動く周辺」が、いま地球のあちこちで台頭しつつあるように見えます。「動く周辺」とは何でしょうか? 

インドの台頭はアジアの台頭になるのでしょうか? 

これから、その国の時代をデザインするのは、いったいだれなんでしょうね。

いっぽう、21世紀のオランダは、目覚ましい進展で、知識経済圏のリーダーになろうとしています。他国に先んじて、オランダは知識経済、イノベーション国家をめざし、そしてついに、イノベーション・プラットフォームを立ち上げました。完全に気象をコントロールする「スマート・アグリ(Smart Agri。アグリはAgriculture)の略語。

農業人口の減少や少子高齢化などの社会問題を背景に、ロボット技術やICTを活用して、脱属人的な農業を実現しようとする試みのことで、例として、農作業の自動化、ノウハウのデータ化、データ分析による精密農業などがあります。日本語では「スマート農業」と呼ばれています。

オランダの地域政策を主導する経済・農業・イノベーション省は、オランダにおける持続的経済成長の促進をかかげ、10数年まえから、農業にも新しいIT化を取り入れ、農産物の生育にコンピュータ管理を用い、温度・湿度を自由にコントロールできるIТ化を実現しました。

たんなる作業の効率化ではなく、収益性の高い農産物、――とくに高価な花ばななどの育成の管理化を強力にすすめています。それが「スマート・アグリ」と呼ばれる農業革命です。オランダのこのような人間的資本主義は、もともと日本人の気質にもある考え方と似ています。

ふつうの農産品は、船便で送られますが、オランダの農産品はふつう、一個のチューリップの球根に求める付加価値は高くなり、一個の球根が1万円~3万円は安い方で、高いのは100万円もするそうです。

「17世紀、オランダは、なぜ繁栄したのでしょうか?」この質問にスピノザはこう答えています。

「それは、自由があったからです」と。

彼らは、アメリカという新世界に入植して16年目に、ボストン郊外にアメリカの最初の大学、ハーバード大学をつくりました。ハーバードという名前は、大量に書籍を所有し、それを寄付した牧師の名前に由来しています。

そして、ニューヨークという都市は、むかし、オランダ人の都市だったのです。

彼らはその地をイギリスに譲り、イギリス人はここを「ニューアムステルダム」と命名します。のちにここがニューヨークとなったものです。その「York」は、イギリス国王ジェームズ2世(Duke of York)の俗名「ヨーク公」の名にちなんだものです。

オランダ人は、その自由を大いに尊重しました。

その後、イギリスから譲り受けた17世紀後半、アメリカは「ニューヨーク」と呼び、フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」の最終章には、「オランダの街」として、そのことを克明に描かれました。その文章は圧巻です。

オランダの国が栄えたのは、大量の金銀を仕入れて、――ほとんど日本から持ち出し、デンマークにある世界の金銀市場を牛耳っていたものです。――当時の国際的な通貨である銀を、彼らは日本から手に入れました。停泊料が高くつく地中海を避け、アフリカ南端の喜望峰をまわってアジアへのルートを確立します。

このため、ヴェネチアの海運業は衰退しました。

そしてチューリップバブルがはじけるまで、オランダは世界最大の金融大国を維持します。チューリップの球根1個が、現在のお金で、3000万円もしたのですから、家と土地が買えるほどの金額です。資本主義経済は、むかしからバブルがつきもので、価値のあるものは、どんどん値上がりし、お金を持てるようになった庶民が、そういう株式を買いあさりました。

これが、オランダを大国にのし上げた理由でしょう。

しかし、その市場原理のみを考えていると、ソーシャルキャピタルのありがたさがわからなくなります。

ひるがえって、彼らはこの第二次世界大戦をのぞき、100戦100敗で、戦争には一度も勝ったことがなかったので、スペインの軛から抜け出すまでいつも辛酸をなめていました。

オランダのおなじ苦しみを共有しているコミュニティ資産のなかから芽生えた彼らの考えが、考えとして、共通のオレンジ色のナショナルカラーに染めていったのは、まさにオランダの力です。

一致団結を嫌うオランダで、これだけはひとつになっているのです。

現在、農業立国オランダは、世界第2位をひた走っています。1位はアメリカです。日本こそ、いま、オランダに学ぶべきではないでしょうか。