図書館。――小説「閣寺」に登場する黜」の意味をしらべたい

 

いま、「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」という本が売れている。こんなにおもしろいのに、図書館にないのだ。申請すれば、取り揃えてくれるらしい。

ぼくはけっこう図書館を利用する。

近くの喫茶店で人と会ってコーヒーを飲んでから、その帰りにはなんとなく図書館に入って、雑誌コーナーや新刊コーナー、テーマコーナーをぐるっとまわり、ちらちらながめることが好きだ。多くはこれといって目的はない。漫然とながめながら、不図おもい出したようにレファレンスコーナーにいるスタッフのお姉さんに声をかける。

「貶黜(へんちゅつ)ということばを使った、三島由紀夫の小説は、《金閣寺》でしたでしょうか? しらべることはできますか?」とたずねてみた。

「しょうしょうお待ちください。しらべてみます」といい、「30分ほどお時間をいただけますか?」という。「それは、助かります」といって、ぼくはカウンター席を離れた。

ぼくが主に利用している草加市中央図書館には、比較的辞典類が多くそろっていて、手にあまることがあると、まずはそこで調べる。「貶黜」という漢字をおぼえたのは高校一年生のころで、たぶん三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいて発見したものだった。そんなことはどうでもいいようなものだが、ことばの出典という意味で、確かめたくなった。

時間になってカウンターのお姉さんにたずねると、

「わかりませんでした。もしもよろしかったら、《金閣寺》をお読みになりますか?」とたずねられた。

「いえ、それにはおよびません。ぼくはその本なら持っています」といって、引き下がった。

作品をインターネットで検索することができて、さらにお目当ての漢字を検索することができればいいのだが、あいにくと三島由紀夫の「金閣寺」は電子化されていない。ウェブサイトの「青空文庫」にもない。

こうなると、本を読んで自分でしらべてみるほか手がないようだ。

 

 

 

広辞苑にも大辞泉にも語義は載っているが、引用文はない。

ぼくはおもうのだが、図書館のレファレンス業務というのは、図書館員だけに任せるのではなく、アウトソーシングして、民間の専門家集団のデータベースの協力を取り付けておくべきではないかと、なんとなくおもっている。もしも意欲にあふれるデジタル・ライブラリアンがいたなら、きっと気づくはずだ。

レファレンスのデータベースは、もっと集積され、もっと活用されるべきだとおもっている。デジタル化とインターフェース、ハイブリッドなライブラリーにすることが、いまもとめられているのではないだろうか。

インターネット、IТ化の発達した現在では、人材(レファレンス・ライブラリアン)の育成とともに、図書館の運営の一部をアウトソーシングすることは、だれも反対しないだろうとおもわれる。生きたリサーチとは、じぶんはそういうものだとおもっているからだ。

ぼくは図書館員の仕事をくわしく把握しているわけではないのだが、ウェブ技術の進展にともない、インターネットを活用したWeb Based Training(WBT)は公共図書館の常識であるはず。ビジネスや教育分野でもWBTを活用したe-Learningが活発化している。

e-Learningというのは、コミュニケーションをインターネットを利用してオンラインでおこなう学習指導のことである。

アメリカではあたりまえになっている。

日本でe-Learningといえば、もっぱらの事例は「資格」の獲得に向けられているようだ。

パソコン、数表ソフトの使い方といった情報処理が主で、それらもとうぜん必要なことではあるが、ステップ・バイ・ステップの技能としては、全体として何に役立てていいか、どう役立てていいかを明確に意識されないと、図書館機能の半分は役に立たないだろう。

ただ本を貸し出すだけではなくなった。クライアントの「問い合わせ(レファレンス)」に明確に答えてこそ、地域に根付くライブラリーなのだとおもっている。

しかし、それはユーザーの勝手な考えで、いま図書館は、それどころではないようだ。

ウェブ2.0時代をどう乗り切るかという、もっと別のところで頭を抱えているに違いない。

たとえばコピー、たとえば電子メール、たとえばファックスといった対応に、どう対応していいのか、という問題である。

複製権、著作権という公共的なしばりがあり、著作権法第31条にさだめる図書館等の図書、記録その他の資料のあつかいについて、きびしい制約が定められている。これがあるかぎり、安易に対応できないようになっているからだ。

これは図書館にかぎらないが、もう15年ほどまえになるが、こうした問題で衝撃をもたらしたことがあった。書誌学者として知られる林望氏に、「公共図書館は、ベストセラーのただ読み機関だ」(「図書館は無料貸本屋か」、文藝春秋2000年4月号)と論じられたことがあった。

ベストセラーになった乙武洋匡の「五体満足」などが、大量に値引きされて買い上げられ、無料で貸出しサービスする公共図書館が痛烈に批判されたことがあった。図書館業務の一部を民営化すべきか、というシンポジウムがひらかれ、公共図書館サービスの高度化にともない、業務のアウトソーシング問題が提起されたのである。

そんなおり、有害図書を締め出すフィルタリング問題が浮上し、言論の自由と、幸福追求権(日本国憲法第13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」)、未成年の人権、親の教育権などとともに、その線引きがおこなわれた。

もっと突っ込んでいえば、OPAC(オパック・オーパック Online Public Access Catalog)の推進である。

OPACというのは、図書館において公共利用に供されるオンラインの蔵書目録のことである。これはオープンになってはいるが、地域のコンテンツやリサーチが時間に無関係に24時間アクセスできるウェブOPACこそ、もっともっと活用されていいとおもわれる。

現在、図書館に常設されているパネルタッチ式の検索機でも活用できるけれど、その都度図書館に出向かなければならない。なにはともあれ、地域の図書館は、書斎がわりに自由に使いたいものである。