Sさん。――6年前の夏、Sさんはコロナ禍を知らずに天に召された。享年66。

 

きるということは、誰かに伏されることですよ!」

 

そんな風に、Sさんはいっていた。

「明日、岐阜に行ってきます。母親の法事にね。で、4月2日の午後5時30分、では、草加の白蘭(びゃくらん)で待っています」といった。

白蘭というのは中国料理店の名前だけれど、名づけ親はSさんだった。Sさんは中国語に詳しい。

「田中さんの奥さまも、お待ちしています」といっている。

あいにくと、その日は都合が悪く、ふたりとも行けなかった。そのかわり、草加駅で顕正会のグループのひとりの女性につかまり、延々と日蓮大聖人の話をつづけ、ぼくはすっかり酩酊(めいてい)してしまった。のちにわかったことだが、じぶんを折伏した女性は、総部幹事と呼ばれるエライ女性だった。

「これが、折伏(しゃくぶく)というのか?」とおもった。

ぼくはあろうことか、じぶんの名刺入れから名刺を一枚取り出し、その人に手渡した。すると、別の女性もあらわれてぼくの名刺を受け取った。時間のある別の日に、お話を聴きたいといった。

「いつでも、お会いできます」と女性はいった。

その日は夏の炎天の盛りの日で、「これから図書館にいきます」といった。すると女性は、わたしたちのクルマで、図書館までお送りして差し上げましょうか?」といったのだった。

「うれしいですね」

ぼくはほんとうに嬉しかった。それから翌年になるまで、何の連絡もなかった。

やってきたふたりの女性だった。マンションの一階ホールで、「懐かしいですね」とかいって、生まれ故郷の北海道の話をした。小学校へはランドセルを背負って、ひとり馬の背にまたがり、登校した話もした。

それって、カウボーイの世界じゃない! とかいって。

ぼくをいとも簡単に折伏した女性はいなかった。I was forced to convert by her persistent proselytizing.(その彼女にとうとう折伏させられたわけだった) じぶんの心のどこかでそれを望んでいたからだろうと、のちに考えたりした。「折伏」――このことばは知っていた。

新明解国語辞典第六版の語義解説に、

【しゃくぶく 折伏】とは?

「迷ったり、疑ったり、攻撃したりして自分の宗派に従わない人たちを、説法・祈祷などの力で屈服させること」

と出ているじゃないか。そんなこと、やめてくれ! といいたくなる。

それから一年がたち、田中のり子副長の指導を受け、とても満足な日々を送っている。淺井昭衛先生の名言の数々が想い出される。

Sさんが岐阜から帰ってきた日、こんどは彼の部屋で、ぼくは梅崎春生の小説「ボロ家の春秋 (講談社文芸文庫)」という作品の話をしたっけ。この本は、筑摩の学術文庫にも収められているとおもう。これは彼の傑作であり、代表作であるボロ家にさまざまな人間たちが住み着き、おもしろい人生模様が展開される。

 

梅崎春生(中央

 

「ぼくは、梅崎春生の評論を読んで、イタリア・ルネサンスというものを、少しは知りましたよ。それは、人間復活の時代であったけれど、そこから神を差し引くとよく分かるという説を述べておりましてね」

「ほう、神を差し引くんですかい?」

「そう、神を差し引くんですよ。それが、ルネサンスなんだといっているんです。彼は、そういう説を述べていましてね」

「ものが、ちゃんといえる時代?」

「そうなんですよ。……フィレンツェ政府の行政書記官だったマキャベッリも、そこで、有名な《君主論》を書いていますが、こっちのほうも、ヴェネチアで出版しています」

ダンテの「神曲」は有名だけれど、彼はイタリア語の方言で、これを書いた。当時、彼はフィレンツェ政府の総理大臣だった。国政に深く関与し、やがてダンテは国を追放され、各地を放浪して歩き、人類の救済の道を示す物語を書いた。それが「神曲」である。

これを出版したのは、フィレンツェ国ではなく、言論の自由な国、ヴェネチア共和国だった。

それから、志賀直哉の小説「赤西蠣太(かきた)」の話をした。これはおもしろい小説で、志賀直哉らしくない物語で、腹をかかえて笑えるような小説になっている。

原田甲斐(かい)と伊達兵部(ひょうぶ)が跡目あらそいで騒動を起こしたとき、敵の偵察要員、――つまりスパイとして蠣太を敵の城にしのばせる。

蠣太は、敵の情報を手に入れるが、だれにもあやしまれずに城を抜け出す方法はないものかと考える。そこで、彼はとっておきの秘策がひらめいた。それは、城いちばんの女性(にょしょう)に、恋文を差し出すいうアイデアだった。

これを、どこかに落としておいて、城じゅうの笑われ者になり、いたたまれなくなって、城を抜け出すというわけだ。

「ほう、そいつはおもしろそうですなあ。……ところが何か、失敗するっていうわけですかね?」と、Sさんは先まわりして尋ねた。

「そうなんですよ。ラブレターを読んだ女は、蠣太のあまりの熱意に感激して、OKを出す。困ったのは蠣太です。……さーて、この物語の結末は、いったいどういう展開になっているのか、……まあ、そういう物語を書いているんですね。志賀直哉の文学にはめずらしい作品です。そのほか、《網走まで》という小説もよかったですね。《城の崎にて》という作品もよかった。《小僧の神様》、《清兵衛と瓢箪(ひょうたん)》もいい」

まだまだ思い出ぶかい作品がある。――そのあたりまで話したところで、1時半を過ぎたので、別の場所に移した。そこでまたおしゃべりし、こんどは女の話をしたっけ。

「先日、エレベーターガールの話を聞いたけど、あれは、尻切れトンボになっていましたなあ」というので、そのつづきをおしゃべりした。

 

フェルメール「真珠の首飾りの少女」――こちらを振り返った瞬間の、少女の驚きを描いた作品。彼女はなぜ驚いたのだろう? そこに主人がいたからだろうか。そうなると、この絵の物語のストーリーは尽きない。映画のようにつぎつぎと、無数の物語が展開される。

 

昭和37年、東京は銀座。――銀座通りに面して大沢商会という会社があった。

そのビルは6階建てで、旧式のエレベーターが設備されていて、エレベーターを運転する女性がひとり乗っていた。

当時、まだまた旧式のエレベーターが使われていた。

1階で、エレベーターを待っていると、上からエレベーターの箱が降りてくる。最初は彼女の足元が見え、スカートが見え、胸が見え、顔が見えるという具合だ。

とくに胸のあたりが格好よかった。自分の視線と、エレベーターガールの視線がぴたりと合ってしまったのだ。

1階に降りると、彼女が格子状のドアを開け、客が出ていく。

そして、自分が乗り込む。すると、

「ちょっと、失礼ね、じろじろ見ないでください!」といわれてしまった。エレベーターは動かない。

自分は、真っ赤になりながら、静かにいった。

「6階まで、よろしくお願いします」といった。

上に着くまで、彼女の顔は、ぷーんと膨れていた。ぼくは学生服を着ていた。用が終わって、ふたたびエレベーターに乗り込むと、ぼくはいった。

「これ、ピカデリー劇場の映画のチケットですが、ごらんになりますか?」

そういって、2枚のチケットを差し出した。

「えっ? これ、ロードショーじゃないの? わたしに、いただけるの?」といって、とつぜん笑みを浮かべた。

ぷーんと膨れていた彼女の顔が、別人のように輝いた。笑えばきれいな人だった。彼女はたぶん25、6歳ぐらいで、ぼくは当時、まだ19歳だった。

「いま、シャーリー・マックレーンの《女王蜂》がロードショー公開されています」

「あなた、朝日新聞?」

「はい、朝日新聞です。ピカデリー劇場は、朝日新聞東京本社ビルのなかにある映画館です」

「それは知ってるわ。……へえ! いいわね、ぜひ! ぜひ! 観てみたいわ。――なんですこれ、成人映画なの?」と、彼女はきいた。

「え? そうですか? 知りませんけど」といって、ふたりは顔をつき合わしてチケットをながめた。

「だって、券に、ほら、18歳未満はご遠慮くださいって、書いてあるじゃない」

「なら、ぼくはだいじょうぶです。19歳ですから。……学生証もあるので、……」といった。

「ねえねえ、学生証、あなたの学生証なの? 見せて」といった。

ぼくは内ポケットから、学生証を取り出して彼女に見せた。明治大学文学部文学科、「学籍番号37カ007」と書かれた顔写真入りの身分証だった。

「文学部! ふーん、大学生なんだ。……じゃ、あなた、恋人いる?」

「いません」

「そうなの。だったら、いっしょに観ない?」と彼女はいった。「もしよかったら、あなたの恋人になってあげてもいいわよ」と彼女はいった。ぼくの顔が真っ赤になった。

「あら、もう赤くなったりして、可愛いわね」と彼女はいった。ぼくはなぜかわからなかったが、気分はもうめろめろになってしまった。

映画の内容は忘れた。

アダルト系の映画ではあったが、ちっとも成人映画という感じはしなかった。

パリの街娼婦を描いたものだった。パリが舞台ということで、観てみたいと思っていた映画だった。ところが、話すことばは英語だった。いっしょに観に行った映画館で、自分はプレゼントに当選した。

彼女と喫茶店に入ってプレゼントの包みのなかを開けたら、なんと、謝国権の「性生活の知恵」という本が出てきた。

彼女は「それ、見せて!」といった。ぱらぱらっとページを見ただけで、男女の交わりの体位などが書かれている。セックスの方法が写真で人形を使って解説されていた。

「あなた、キスしたこと、ある?」ときいてきた。

「ありませんけど、……」というと、

「まだ? ふーん。……」といった。

それから彼女はぼくを日比谷公園に誘った。公園のなかでキスをしていたら、頭が真っ白になった。

「――そういうことですか」と、Sさんは唸った。

「それからどうしました?」ときく。それから? それからは、爆発してしまって!

ある写真家の暗箱のなかをのぞきこんだとき、ぼくはびっくりした。

写る被写体がかすかな希望のように見えた。――針でつついたみたいな、それは小さなアナだった。人の希望なんて、えてしてこういうものだろうと思った。針のアナにもおよばない、それは小さなアナだ。小さな光だ。

暗箱、――この、カメラ・オブスクラで、ひとつ思い出す。

オランダのフェルメールという画家である。

彼はオランダのデルフトの画家で、近代科学の発祥の地である。ぼくは、この幾何学性と静寂な絵につよく惹かれた。「デルフトの風景」、「ミルクをつぐ女」、「真珠の目方を測る女」など、どの絵をみても、小さな点で描かれた表現が秀逸なのだ。そればかりでなく、フェルメールは、絵画に科学を持ち込んだ最初の画家ではなかったかと思える。

17世紀のニュートンが「光学」という本を出して、光にかんする物理学を集大成したことでも明らかなとおり、光というものを科学的に探求することは、この時代の科学の大きな使命のひとつだった。

それと同時に、この時代の芸術は、その光を、どう表現するかを追求することに取り組んだ。

その第一人者はなんといってもフェルメールだったといえるだろう。

彼は暗箱という装置をこしらえて、光がどのように目に写るかを研究した。これは外側の箱のひとつの面の真ん中にあける小さなアナから入ってくる光が、内側の箱の面に外の世界の像をむすぶ装置である。カメラの原理である。

フェルメールの絵の人物は、よくいわれるとおり、まるで写真のように、手前にいる人物が、後ろにいる人物よりきょくたんに大きく描かれている。

たんなる遠近法というよりも、被写体のまえの風景が、後ろの風景よりもきわだって大きなパースペクティブを持つことを発見したからだろうと思われる。

これはひとつの発見である。

それを絵画に持ち込んだ最初の画家だった。この装置は、彼にはなくてはならないものになった。

物理学の光にかんする本を読むと、かならずフェルメールの話が載っている。彼は画家ではあったけれど、ある意味では近代科学の発見者のひとりだったといえるかもしれない。

しかし、フェルメールの生涯は謎につつまれ、ほとんど知られていない。

彼の遺言執行人は、奇妙なことに、顕微鏡を発明して微生物をはじめて観察したことで知られるアントン・ファン・レーウェンフックという人だった。

これも光学とは無縁ではない。フェルメールの周囲には、こうしたオランダの科学者がごろごろいた。

オランダといえば、エラスムスと、スピノザという思想家がいた。

ホイジンガーを入れてもいいだろう。近代思想家の第一人者は、なんといってもエラスムスだろう。

そういう人がいただけでも、オランダという国の、いかに自由闊達なものの考え方を標榜する時代をつくってきたかがわかる。彼らはいくどとなく挫折を繰り返した。挫折を知らない者は、針のアナのような希望にさえ目もくれないだろう。人生というのはこういうものだと悟ったかのようなあきらめは、人びとを堕落させるだけだろう。

ボードレールはそういうことをいった詩人であるけれど、あまりものいわぬオランダ人は違った。

それは、人間の浅ましい傲慢であると。――自分もそうおもう。

オランダという、国力のなかった小さな国が、苦難に耐えにたえて、とうとう自分たちで発見した科学の大いなる開拓者であったといえるかもしれない。この苦悩。――苦悩こそ人を大きくさせ、国を大きくさせる。

「悩力」ということばがひらめいた。こんなことばはない。

自分は、どういうわけか、世情というのをあまり信用しない。とおりいっぺんの世情ほど人を迷わせるものはないと思っている。死を急ぐ人間こそ、さっさとあきらめたがる。彼らには、不幸に立ち向かうアゲインストの風がないのだと思ってしまう。挫折し、暗礁に乗り上げ、また挫折をする。それでも精一杯に生きようとする。それが人間だろうとおもう。