ューリームchou à la crèmeほか

 

「神山幹夫先生、ぼくはいま、短編小説を書いていました」

そこで、ちょと珈琲(こーひー)を飲んで、

「どうせ、あすも旗日でお休みだからというわけで。

ニューヨークは雪が積もっていますか? ――先日の先生のメールによれば、登山家たちは山で用を足すことを《キジを撃つ》というそうですね。その話をおもしろく読ませていただきました。戸塚文子さんは登山家なのでしょうか、男たちに混じって《キジを撃ってくる》といって、おしっこをしに行ったという神山幹夫先生のお話は、とてもおもしろいとおもいました。《鉄砲もないくせに!》」

たしかに、女性には鉄砲はないので、どうやって撃つのだろうかとおもった。

「キジを撃つ」ときというのは、たいてい草むらの中にしゃがみこんで、音を立てないようにして、キジが飛んだとき、「ドン!」とやる。

この「ドン!」というのは、爆弾、「……つまり、ナニのことでしょうか? 登山家は漁師じゃないので、登山の最中に鉄砲でキジなんか撃つわけありませんよね。これは、用を足すことを表す男たちの隠語でしょうね」

「この用を足す」ということばは、考えてみればおもしろいことに、用事を済ませたり、トイレに行ったりして「満足な状態にする」ことを「足す」といっているわけで、そこからきているらしい。戸塚文子さんといえば、むかしJTBの「旅」の編集長をしていた。彼女にお目にかかったことはないけれど、むかしは仕事上、よく「時刻表」を使った。

つい先日、凍えるような日にやってきたポスティングのおばさんに、「寒いのに、たいへんですね」といってねぎらってから、「さーて、鬼の居ぬ間に……洗濯でもするか」とつぶやいたら、

「あら、これからお洗濯されるんですか? きょうは乾かないかもしれませんよ」と、ご親切にアドバイスを頂戴した。ぼくは「洗濯なんかしません」とはいわなかった。なぜなら、せっかくの彼女の親切がアダになると考えたからだ。

「ええ、……ははははっ」といいながら、ぼくはつい笑って誤魔化(ごまか)した。

そういえば、そうだなとひとり思った。

はじめて聴いた外国人なら、きっとそう思うだろうな、と思った。

つい口から出てしまったのだが、ほんとうは、どういう意味だろう? まさか「洗濯」じゃあるまい、と考えていた。

辞典をしらべると、「怖い人や気兼ねする人のいない間に、思う存分くつろぐこと」(「大辞泉」初版、小学館)と出ている。それでもピーンとこない。「洗濯」が、こころ休まるとでもいうのだろうか? そうではないだろうと考えた。

深く考えれば、「いのちの洗濯」のことだろうと。

「洗濯」の項を見てみると、はたして「いのちの洗濯」と出ていた。

ぼくはヨーコには頭があがらなくて、口うるさい神さんがしばらくいないとなると、ほっとして、何かやってみたくなる。ヨーコは書道の本部から「理事」を拝命したのは2023年の秋だった。それ以来、ヨーコの社会的な地位がぐ~んとアップした。

「これ、〇〇先生のお宅に持って行って」

「いまから?」

「いまから」

そしてぼくは外気温5℃の朝、自転車を走らせることになる。そのヨーコがいない。

となると、ぼくは画用紙を取り出し、絵を描きはじめた。ヌード絵だ。都合よくモデルさんなんていてくれない。鉛筆でさささーっと描いて、それに絵具を塗る。失敗すると、またおなじことをする。これも失敗して、またまたおなじ絵を描く。

そうこうしているうちに、ヨーコが帰ってきた。けっきょく間に合わず、未完成のまま絵筆を放り投げて、もうおしまいにする。

「いいのよ、わたしのことは、かまわないでいいのよ」とヨーコがいう。そのくせ、ちらっと未完成の絵をのぞき込み、……「はははははっ、見せて。……お父さんって、何を描きたいのか、わかるわよ。おしゃかにしなくても、いいわよ。これなんか、いいんじゃない?」といって、一枚の絵をつまみ上げる。

「ヨーコ、《鬼の居ぬ間に洗濯》って、わかる?」

「こんどは、なんですか? わたしのこと? お父さんはほんとうは、ヨーコのいないあいだに、何かしたかったんですか?」

「洗濯だよ」

「うっそー」

「さっき、女の人がいて、さーて、これから鬼の居ぬ間に洗濯でもするかっていったら、《きょうは、乾かないかも知れない》っていわれたんだよ」

「なんですか? ははははっ、……お父さん、からかわれたんですよ。なんですか、真に受けちゃって」といった。

「ははー、そういうことか!」そうかも知れないと思いなおした。

英語だってそうだろう。

ぼくはずっと前、イギリスのトイレの話を書いたっけ。

英語にはpluck a rose(薔薇を摘む)という成句がある。英和辞典には「薔薇を摘む」は、転じて「(女性が)外でのんびり、息抜きをする」と載っているとおもうけれど、英語成句の本来の意味は、「用をたす」という意味。「用を足し」ながら、だれでも息抜きをしているもんだ。

しかし息抜きをすることを意味しているのじゃなくて、用を足すことを意味しているわけだから、結果としては息抜きにもなるわけである。

――pluck a roseは、ほんとうの意味は、息抜きだろうか、それとも用を足すだろうか? とたずねられてもぼくにはわからない。

日本語では古来「ちょっと勘定する、勘定してくる」といって、外で用を足してきたものだ。別に勘定してくるわけじゃない。それと似ていることばである。

彼女たちも、外で薔薇を摘んでくるわけじゃない。

それに日本もイギリスも、用をたす場所は、母屋から離れたガーデンにあったからで、いまでは「薔薇を摘んでくる」などといってトイレにはいかないだろうけれど、ことばにはそれぞれ、つくられた時代がちゃんと反映されていて、そこが無類におもしろいはずなのに、どうして日本の英和辞典は、語義の説明にちゃんと書かないのだろうとぼくはおもっている。あと一歩の労を惜しんで、大事なことを落とし、つまらない解説をしてしまっている。

シェイクスピアお得意の卑猥語のなかで突出しているのは、なんといっても「薔薇」だ。「薔薇」が女性性器を指し、薔薇には棘があり、それこそ自然なのだけれど、その隠語の意味あいで読めば、黒い笑いや楽しみの冒瀆はここに歴然としているはず。「薔薇」の花びらが咲いているところには「棘」があり、しかもその棘がツンと立っている表現が見える。

「地獄」とか「薔薇」とか、シェイクスピアの詩句のなかに散りばめられている奇妙な語彙は、そのまま読んでも分かるようにはなっているが、ほんとは違うんだよというか、隠語にもなり得る語彙(ごい)をわざわざ「むしり取る」ようにして「摘み取り」、pluck upしているのだ。

丸山圭三郎さんの本は、英語ではなくて、どの場合もほとんどフランス語だが、じつにその根源的な問題を、わかりやすく説いていて、80のぼくの脳みそにも、すんなりと入ってくる。じつにふしぎな本だ。

フランス語からきた外来語で、まず絶対にフランス人に通じないものに、シュークリーム(chou à la crème)があるといっている。シュ・ア・ラ・クレームは「クリームの入ったキャベツ状のお菓子」という意味になる。

それが原義で、「靴を磨くクリーム」ではけっしてない。

オードブル(horsd'œuvreオル・ドゥーヴル)は、「作品の外、つまり食事のコースには数えられない前菜のこと」。オーデコロン(eau de Cologne オ・ドゥ・コローニュ(コローニュ水))、シャンパン(champagneシャンパーニュ=シャンパーニュ地方産の発泡性ワイン)、ギロチン(guillotineギヨティーヌ=ギヨタン博士という医者が発案した断頭台)、デラックス(de luxeドゥ・リュクス=ぜいたくな)などいろいろある。

ただし、まぎらわしいのは和製フランス語だ。「ヘチマコロン」とか、「プレタメゾン」とかは、笑ってしまうが、日本で生まれた和製フランス語なのだ。

プレタポルテ(prĉt-à-porter)が既成服で、まあ、いつでも着られる状態にあるというわけで、建売住宅のことをプレタメゾンといったりしていた時代があった。おかしいに決まっている。

サンテクジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)」、これを直訳すると「小さな大公」となる。これじゃおもしろくないだろうと考えて、内藤濯さんは「星の王子さま」と訳された。

タイトルにはない「星」をくっつけたのだ。

これはすばらしい!

これがみごとにあたって、空前のベストセラーになった。そういう例もある。

ちょっと余談だが、そもそも「星の王子さま」は、内藤濯さんが翻訳する予定ではなかった。もともとは岸田國士さんに、ある日、岩波書店から翻訳の依頼が舞い込んだのだが、彼が最も尊敬している内藤先生に翻訳してもらおうと考え、この仕事を先生にゆずったのである。

「せめて先生への恩返しです」といって、弟子である岸田國士さんは深く頭をさげた。内藤濯さんの「星の王子とわたし」(文藝春秋1968年/文春文庫1976年/丸善2006年)、村松定孝氏の「近代作家エピソード辞典」(東京堂出版、平成3年)等に詳しく書かれている。

シャトーブリアンの小説「アタラ」には、こんな文章が出てくる。

《アタラは、山生のオジギ草の茂みの上に横たえられていた。彼女の両脚、頭と肩、そして胸の一部が露わになっていた。髪には萎えたモクレンの花が副えられていた。それは、子供をさずかるようにと、わたしが彼女の寝床に置いた、まさにその花だった。彼女の唇は、二日前の朝に摘んだバラのつぼみのように、萎えてほほえんでいるように見えた。/修道士は、ひと晩じゅう祈りつづけた。わたしは愛するアタラの死の床の枕元に無言で座っていた。/そして間もなく、古い樫の木や海のいにしえの岸に打ち明けるのが好きな、あの大いなる憂いの秘め事を森のなかにまき広めた。》

――と、このように書かれて「アタル」という小説は終わる。

そこに「子供をさずかるようにと、……」という部分の原文は「cellelá méme que j'avais depose sur le lit de la vierge,pour la render fécoonde.」となっていて、直訳すれば、彼女を「豊穣にするために」という意味なのだが、ここでは、彼女に子供がさずかるようにと書かれている。

女性にとってフランス語の「豊穣」とは、すなわち懐妊を意味しているからだ。これなんか、フランス語の奥ゆかしい表現のひとつといえるだろう。

それと、フランス語にはかならずといっていいほど、ゼスチャーがともなう。

雨がぽつりぽつりと降りだしたら、手のひらを上にむけて「おや、雨だ」という。

あるときパリで、フランス人とおしゃべりしていて、彼は手の甲を下にして、「Tiens, il pleut.」といった。ホームスティしていた郵便局長のお宅で、その主人がそういった。

ちょうど、映画「シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)」がかかっていたころだ。カトリーヌ・ドヌーヴがいちばかん美しいころだったなとおもう。ホームスティのお宅に背の高い中学生の女の子がいて、ぼくはサムライの話をしたっけ。そして、

「サムライ、好き?」

ときくと、彼女はにこっと笑みを浮かべ、

「好き、好き!」といった。

で、「しのぎを削る」という日本語の話をしたんだっけ?

わからないだろうとおもって、地面に棒きれで刀の絵を描き、しのぎの線を描いた。ほら、刀身の断面に、左右出っ張りがあるだろう? それがしのぎの線。ふたりがやりあうと、お互いにしのぎの線が擦られるんだ。

で、「しのぎを削る」という日本語が生まれたという話をしたのだ。

漢字で書けば「鎬」と書く。「しのぎを削る」という語を丸飲みして覚えたからといっても、「しのぎ」って何? ときくと、さっぱり分からないのだ。

丸山圭三郎さんにいわせれば、その程度でことばを覚えたとはいえない、というわけである。

「だったら……」といって、彼女はフランス語で手の話で、大急ぎで何かいっていた。ぼくはもうそのときの話を忘れてしまった。

ああ、ついでにいうと、ぼくはこのときフランス語をしゃべることができたのだった。英語も。

英会話とか仏会話とかで習っていたわけじゃない。大学の授業の先生がそもそも英国人、仏国人で、日本語はできなかったから、英語やフランス語で習った。そうすると、1年もたつと、だれだってしゃべるようになる。ゼスチャーたっぷりにね。

――手でおもいだしたが、フランス人に向かって、けっして人さし指で指さしてはならない。失礼と見なされる。これはフランス人にかぎらないだろう。

「自分です」というときのゼスチャーは、鼻を人さし指で示さず、胸の心臓のあたりを親指でさす。軽く手をあててもいい。間違っても親指を立ててElle a celaなんていわないこと。

「彼女にはこれがついてるんでねぇ」という意味になるのだ。

また、小指を立てて、Elle va bien? なんてきかないこと。

「あんたのこれ、元気?」なんていう意味になるから。

さて、肝心の言語学者のソシュールの話を書こうとおもったが、もう紙幅がなくなった。