オカミにりたい 2

 

サクジロウおじさんの家の前の切り株のところには、だれもいなかった。たぶん、家のなかで眠っているのだろう。

「おじさん、いる?」といって、ぼくは開いている玄関のなかに入っていった。サクジロウおじさんは、居間の奥の部屋でからだを横たえていた。眠っているようすはない。すぐ起きあがってきた。

「――入れ」といった。

部屋のなかには風の通り道ができていて、むし暑くなかった。

ホッシーがストーブの横で、寝そべっていた。元気がないみたいだ。

「おばさん、どうだった?」と、おじさんはきいた。

「おばさんは、いなかった。べつの病院へいったのかもしれない」と、答えた。

ホッシーが具合悪そうに寝ていた。顎をすこし動かしてから、ぼくのほうを見ていた。あいさつしているみたいだった。

「ホッシー、元気だして!」といった。

「やつもおれと似て、もう老いぼれになっちまった」と、サクジロウおじさんはいった。

「ホッシー、どうしちゃったの?」

「ホッシーは、このままだと死ぬかもしれないな。このごろ食が細くなった」といった。

「どうしたっていうの? ちゃんと生きてよ! ホッシー」と、ぼくはいった。

「顎の下を見てみろ。腐ってるだろう? やつは病気なんだ。たぶん顎にアナが開いているんだろう」

ホッシーの顎の下が、くさったようにただれていた。

茶色っぽい粘液(ねんえき)みたいなものが出ていた。

まわりの威厳のある自慢の絹糸(きぬいと)のような長い毛が、粘液で汚れて、それがこびりついていた。ホッシーの息づかいがいつもとちがっている。「このからだ、どうかしてくれ」といっているように見える。

寝そべっている痩()せこけた腹が、上下に激しく動いている。

「クスリは飲ませているの、おじさん?」

「ああ、飯といっしょにな。――だが、クスリなんかで生きるわけがない。生きられるもんか! おれもおんなじさ」といった。

ホッシーの食べる缶に、肉汁をまぜた飯が入っていたけれど、ほとんど手つかずに見えた。表面が干()からびたみたいに乾いていたので、いつの食事かわからなかった。

それから秋になり、ホッシーは冬を迎えた。

カズおばさんが療養所にもどったのは、だいぶたってからだった。心臓の病気が重くなり、かかりつけの循環器系の専門病院にずっと入院していた。

おばさんの病気は、慢性関節リウマチという一種の膠原病(こうげんびょう)だった。手と足の指の関節がひどく曲がってしまっていた。おばさんが、きょうは雨が降りそうだというと、たいがいあたった。病気のせいで、からだに予兆(よちょう)のようなものを感じるのかもしれない。

この療養所の温泉は、リウマチに効くことで知られていて、湯治(とうじ)におとずれる人も多かった。

サクジロウおじさんもときどきやってきて、湯に浸かっていた。白蝋病には効かなかったけれど、湯を浴びた夜はいくらか眠れるといっていた。

「温泉なんかで暮らせる身分じゃないしな、……」と、いっていた。

その年の暮れ、ちょうどクリスマスの日、ぼくはふたたび療養所へいった。

カズおばさんの心臓が急に悪くなり、その日、旭川の病院へ緊急入院してしまった。ぼくはカズおばさんには会えなかった。

その帰りにサクジロウおじさんの家に寄り、クリスマスのお祝いをした。これはおじさんが楽しみにしていたぼくとの約束だった。

ぼくがいったときは、おじさんは手ごろなマツの若木を用意して待っていた。

マツは、遠いノルウェーから運ばれた防風林に使うノルウェートウヒという木だった。おじさんの話は、クリスマスにとてもふさわしい童話みたいな話だった。

「そうだよ。ノルウェーでは、ノルウェートウヒの小枝で、クリスマスツリーをつくるのさ」

木のことなら、サクジロウおじさんはだれよりも知っている。

ストーブの火のちかくで、飾りつけ用のモールを紙でこしらえたり、色づけしたりして、半日かけてクリスマス・ツリーをつくった。

豆電球はたくさんあった。豆電球の配線はおじさんがやった。

しびれている指を使って、時間をたっぷりかけてつくった。クリスマス・リボンもつくった。

ホッシーがわきで寝たままだった。できあがったのは、午後になってからだったけれど、クリスマス・プレゼントは、夜になってからのお楽しみに取っておいた。

ぼくは、おじさんに来年の日記帳をプレゼントしようと思って、リュックサックのなかに用意していた。おじさんは何をプレゼントしてくれるのか、しらなかった。

午後になって、飾りつけが終わると、家のまえに一台の車が停まった。サクジロウおじさんの息子だった。息子が夫婦でやってきた。

やってくるなり、居間のドアを開けて、「じいさん、何やってるんだ!」といった。まだドアが開いたままになっていて、冷気が室内に流れこんだ。

「まっ、入れ」と、おじさんはいった。

息子はしぶしぶ部屋に入ってきたみたいだった。奥さんらしい人もうしろから入ってきた。

そして、座布団をふたつ薪ストーブのわきにおくと、座った。ストーブの向こう側に寝そべっているホッシーを見て、

「じいさん、いい加減にしてくれよ!」と彼はいった。

「遊ぶのは、もうおしまいにしてくれ!」

おじさんは、何もいわなかった。お茶も出そうとしなかった。

たたみのうえにホッシーの抜け毛が落ちているのを見た奥さんは、一本つまみあげて、汚いものでも見るようにしみったれた顔をして、薪(まき)を入れている箱のなかにポイッと捨てた。

「じいさん、もうだいじょうぶなんだろう。病気だっていうけどさ、きて見れば遊んでるんじゃないか。そりゃあわかるよ、おれだって。医者のいうことは正しいだろうけど、世間じゃ、遊んでるようにしか見えないんだからさ。……わかるか? じいさんよ。指が不自由なくらいで。それも保証金でも、補助金でも、どこかから入るっていうのならわからないでもないさ。そうじゃないんだろ?」

ぼくは、クリスマス・ツリーの影で、ホッシーの背中をなでながら、親子のやり取りをじっときいていた。そうするしか方法がなかった。

「どこか痛むのか?」と、息子はきいた。

「白蝋病(はくろうびょう)だって?」それは案(あん)じるようなひびきではなかった。

「白蝋病、――そんな病名、きいたこともない。どこも痛まないのに、仕方なく医者がそういう病名を思いついて、カルテに書きこんだだけだろうさ。蝋(ろう)が溶けたみたいになる病気か?」

ぼくも、サクジロウおじさんからきくまでは、この白蝋病という病名をしらなかった。

「おれのこと、親戚のやつらは、何ていってると思う?」と息子はいった。

「長男のくせに、じいさんのめんどうもみようとしないっていってるんだぜ。おれの立場もわかってくれよ。おれは好きこのんで、こんなところへきてるんじゃないんだ。きょうは、じいさんとはっきり約束をしにきた。――はっきりいおう。おれたちといっしょに住んでくれ、な? わかったか」

おじさんは、赤い目をして彼らに視線を送った。

豆電球がついたり消えたりしていた。

そのたびに奥さんの指にはめたリングがきらきら光っているのが見えた。

クリスマスにふさわしい話ではなかったけれど、サクジロウおじさんはそれで面食らっているふうでもなかった。ホッシーのやつ、腹を大きく動かして、喉の奥から聞いたこともない不気味な音をだし、そこでゲロを吐いた。

ぼくは、ホッシーの口元をのぞきこんだ。

「いやーっ、気持ちわるい!……」といって、奥さんは立ち上がり、口と鼻を手でふさいだ。息子はホッシーのほうを見てから、「そんな犬、いつまで生かしておくんだよ。殺してしまえよ、気持ちわるい!」といった。

ぼくは、「おじさん!」といって声をかけた。

「きん坊、いいから、じっと寝かせてやれ」といってから、

「おまえたちとは、いっしょには住めない」と息子にいった。

「……この子、どこの子?」と、息子はきいた。

「近所の子だ」と、サクジロウおじさんは、ちょっとごまかした。

「いっしょに住めない? なぜだ」

「おれは、山で暮らした人間だ。都会なんかに、住めるわけがない」

「なにも、あたらしい仕事をやってくれっていってるんじゃない! ただ、おれたちといっしょに暮らそうっていってるんだよ。そのほうが、老後の心配もないし、楽できるじゃないか」

「そんなもんじゃない。おれは、ここにいたい」

「こんなところにいて、どうする気だよ、じいさんよ。なあじいさん? 何やって暮らす気なんだい? 大工か?」

35歳くらいの息子に見えたけれど、子どもがいるようには見えなかった。

息子は、黒っぽいスーツのズボンに毛がついていたのを見て、「犬なんか、連れていけないからな。ましてや、死にそうな犬なんか!」といって、たばこを取りだした。

ライターを探したけれどあいにくと彼のポケットには入っていないようだった。おじさんはマッチ箱をポンと投げてから、立ちあがった。

「下の作業場を見てくれ」といった。

「いいよ、見なくてもわかったよ。……ここじゃ、客やスポンサーを見つけようたって、見つからないぜ。……いいか、おれは相談しにきてるんじゃない。わかるか、じいさんよ。おれは、29日、もうじきだが、じいさんを連れていく。わかったか? それをいいにきた。この家は廃屋にする! それとも、いっそのこと燃やしてしまえばいいさ、こんな家!」

息子はそれだけいうと、立ちあがってドアを開け、「29日に引っ越しだ」といいながら、そそくさと帰っていった。

札幌からここまでやおら110キロ。

冬の道を飛ばしてやってきたのだ。ぼくは、息子と会ったのは、これっきりだった。サクジロウおじさんは、「あの息子は、おれのほんとうの息子じゃないんだ!」といった。養子かもしれない。

「おじさん、ホッシー、病院へ連れていこうよ。死んじゃうよ、このままだと」と、ぼくはいった。ほんとうにホッシーは死にそうだった。飯も喉を通らなくなっている。

「おじさん! ねぇ、おじさん!」

サクジロウおじさんは、うつろな目をしてストーブから離れたところにおいてある座り机に寄りかかったまま、うわずったような声で、「もういいな、……」と力なく、ぼそっといった。

「なにが?」

「もういいよ」

「ねえ、おじさん! 連れていこうよ。病院へ」

「なに? 病院? ……ああ、ホッシーを、どうやって?」

「もうじき、最後のトラックが山を降りてくるよ。それに乗せてもらえば?」とぼくはいった。

「何時だ。3時半か。……いや、病院じゃなく、天国へ連れていってやりたい」とサクジロウおじさんはいった。

「ダメだよ。山の人たちは、おじさんの頼みなら、きっときいてくれるよ。ぼく、おもてで待ってみるから、……」といって、ぼくは玄関を飛び出していった。

そこからは山は見えないけれど、今年最後の山のトラックが降りてくるはずだった。

時間がたって、居間のクリスマス・ツリーの電飾が、凍てついた窓ガラスを通してチカチカ点滅しているのが見えた。けっして楽しいクリスマスとはいえないけれど、サクジロウおじさんとホッシーで、クリスマスの一日を過ごせるのは嬉しかった。

それに、ホッシーにとっては、人生最大の危機を迎えており、そこに立ち会うことができたことも大きな喜びだった。

生き物が死ぬことは悲しいことだけれど、いつかは最期を迎える。

ぼくはホッシーに何かしてあげたかった。その最期を見とどけて、天国へいかせてやりたい。

トラックのエンジンの唸り声がきこえてきた。

「おじさん、早く!」といって叫んだ。

音はいつもの聞きなれた音だった。

姿が見えなくてもわかった。

トラックがそばにきたとき、ぼくは道の真んなかに立って、両手を広げた。トラックが数メートル先で停まった。ぼくはサクジロウおじさんに代わって、わけを話した。

「じいさんの頼みなら、断れないな。――で? おまえ何してるんだ? きょうは遅いじゃないか」と、山の男はいった。

もう顔なじみだった。

「乗らんか!」と、男はいった。

「待ってください。おじさんと犬を連れてくる!」

犬を抱いたサクジロウおじさんが玄関を出るところだった。

「……やあ、じいさん、元気かい?」と、男は運転席に座ったまま顔を突き出していった。サクジロウおじさんとぼくとホッシーを乗せると、ひろいはずの運転席が窮屈になった。運転席は思った以上に高かった。2階からながめているような景色に見えた。

ホッシーはおじさんとぼくの膝をうえに横たえて、ぼくたちはしっかりホッシーを抱えこんだ。あの威厳に満ちた毛がすっかりつやを失っていたけれど、ホッシーの顔は痩せていても威厳を保っていた。

「おじさん! ちょっと待って。療養所にホッシーの息子がいるんだ。最後に息子に会わせてやってほしい。お願いです!」と、ぼくはいった。たったいま思いついたアイデアだった。

「療養所か。それは、おもしろいぜ。会わせてやるか。きょうはクリスマスだ!」と、山の男はいった。

積載量12トンのこのトラックは、トレーラー式になっている。丸太を積んで恐ろしく重そうだった。

おおげさな身振りでギアを入れると、車両はのろのろとバックしはじめた。まえに突き出したフェンダーミラーをたよりに、山の男は慎重にステアリングをまわした。

トレーラートラックは、尻から先にのぼっていった。ややのぼり切ったところを左のわき道に折れることになる。この運転は見ものだなと、ぼくは思った。

よほど運転に慣れている男でも、坂道をのぼって左折させるには、よほど熟練した技術が必要だろう。車体はうなり声をあげてのぼっていった。タイヤに巻きつけたチェーンが、路面の凍った雪をたたいた。いよいよ坂道にさしかかった。

「停めてくれ!」と、サクジロウおじさんがいった。

「おれが誘導する」といった。

「すまんな、……」と、山の男がいった。

おじさんが運転席から出て、車の後ろで手を振って合図をよこした。ふたたびエンジンが身震いするみたいに車体をゆすってパワーをあげた。そのとき、サクジロウおじさんが叫んだ。

トラックが停まった。

「エンジンを切ってくれ!」と、サクジロウおじさんがいった。