は決して自然にはなない」

 

安野光雅さんの絵、――きのう「司馬遼太郎の戦国」という本を読んでいたら、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」のページがあらわれた。安野光雅さんが挿画を担当されたのは1991年からだそうです。ぼくは司馬遼太郎さんの本は、ほとんど全巻読んでいます。

その安野光雅さんが亡くなられていた?

 

 安野光雅さんの絵

 

きのうは、そのとき、俊青会の仲間だった野中とも子さんといっしょにコーヒーを飲んでいました。

「こんな絵なら、描けそうですね」ともちかけると、

「そうですね。でも俊景先生は、塗りのこしのないように描いてくださいっていうんです。塗り絵じゃないんですから、塗りのこしがあってもいいんじゃありません?」と彼女はいいます。ぼくもそうおもいます。

――むかしの北海道の風景が想い浮かんできます。

――春の朝のせせらぎ、クマゲラのドラミング、馬の蹄(ひづめ)音、ぼくにはむかし懐かしい音が、いつも絵になって訪れます。ニワトリは3000羽。年老いたニワトリは、もうたまごを産んでくれませんから、パドックに放し飼いをしています。

ぼくが中学2年生になるまで、わが家には電気というものがありませんでした。ですから、テレビも、ラジオもありません。大人しい大型犬のボルゾイは、馬に鞍をかけて街道に向かって歩きだすと、後ろからいっしょについてきます。

たしか1965年(昭和40年)ごろでしょうか、有楽町にはまだ日劇があって、ピカデリー劇場ではロングランの映画がかかっていました。そのころは「丸の内ピカデリー」といっていました。「ウエスト・サイド物語」(監督ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス)は足かけ3年の長きにわたって上映されていました。米兵たちがあちこちにたむろしていて、有楽町駅のガード下では、足を失った元傷痍軍人たちが、彼らの靴を黙々と磨いていました。

ぼくには、まだ戦後がつづいているように見えました。

――ぼくはそのころ、日曜日になると、大森にいる中学生の家庭教師をしていました。その帰り、京浜東北線の車内で、ある年老いた女性に注目しました。彼女はバッグの中から何か取り出し、それを車窓にぺたりと張りつけると、

「……お父さん、帰ってきましたよ」といいます。

ただそれだけだったのですが、あれは、もう亡くなったご主人の遺影だったのではないか、とおもいました。

戦後の復興めざましい東京に「帰ってきましたよ」と、ぼくには聞こえました。ぼくは学生で、詰襟の学生服を着ていて、そのご婦人が、いなかの母のようにも見えたものです。

やっぱりまだ戦後はつづている、そうおもいました。

 

 

川端康成さん 

 

1955年は、高度経済成長のはじまりといわれ、神武景気の幕開けの年でもありました。翌年の56年には、家電を中心とする耐久消費財ブームが開始し、皇室の3種の神器にちなんで、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「3種の神器」といわれました。

ぼくは、有楽町にあった朝日新聞東京本社にたびたび出かけました。学生たちを優待するイベントがおこなわれていたからです。

一階でエレベーターに乗り込むと、なかに、川端康成さんがおられました。ぎょろっとした大きな目で、見つめられました。この人が「伊豆の踊子」を書いた川端康成さんか、とおもいました。背が低くて、和服を着用していました。会場までいっしょにのぼっていきました。

川端康成さんの講演がはじまり、舞台のわきに、ふたりの外国人が椅子に腰かけていました。その日の演目は忘れましたが、ぼくには馴染みのない外国人でした。ひとりは米駐日大使のエドウィン・ライシャワー博士でした。もうひとりはコロンビア大学教授のドナルド・キーンさんでした。

ドナルド・キーンさんと出会った最初のシーンです。

キーンさんのお話は覚えていないのですが、ライシャワー博士のお話はとても知的で、これからの日本社会の役割というような話に、熱を入れて聴いていました。

のちに博士が本を出版されると、ぼくはさっそく手に入れ、彼の本を夢中で読みました。のちに知ったことですが、彼は、東京女子大学創立にかかわったオーガスト・カール・ライシャワーという人の次男として、東京・白金台町の明治学院内の宣教師宅で生まれています。

1964年(昭和39年)3月、アメリカ大使館まえで、暴漢にナイフで大腿を刺されて重傷を負いました。このとき輸血を受け、こうのべられたそうです。

「これで私の体のなかに、日本人の血が流れることになりました」と。

このように発言し、多くの日本人から賞賛を浴びました。

しかし、この輸血がもとで肝炎にかかり、その後、これがきっかけになって、売血問題がクローズアップされるようになり、その後日本においても輸血用の血液は、献血で調達されるようになっていったそうです。

 

ライシャワー博士

ぼくが最初に読んだライシャワー博士の「ザ・ジャパニーズ」という本が出たのは1979年でした。彼が大使を辞められてからだったとおもいます。その後は、ハーバード大学の教授として学者生活を送っています。のちに「ライシャワー自伝」も出ました。

そして、1990年には「ザ・ジャパニーズ・トゥディ」(福島正光訳、文藝春秋社、1990年)という、微に入り細を穿った目のさめるような本が出ました。日本人について、この本はおそらく、どんな本よりも、わかりやすさにおいて、この本の右に出る本はないだろうとおもったものです。

なかでも、第16章「個人」は、日本人を論じた本として、第一級の本といえそうです。かりに、「日本人とは?」という文章を書くとすれば、ライシャワー博士の「個人」の章が大いに参照できそうだとおもいました。日本の読者にこそ、読んでほしい本でした。

その後、ドナルド・キーンさんとはたびたびお目にかかりました。

会って何かことばを交わしたというのではなく、ひとりのファンとして、キーンさんのお顔を見たくて、催しがあるとよく出かけたものです。

松本清張さんにお目にかかったのも、そのころのような気がします。

やはり、朝日新聞東京本社の玄関口にいたら、黒塗りの車から出てこられたのが松本清張さんでした。ぼくのわきを、わき目も振らず、すべるようにして通りすぎ、早足でエレベーターに乗り込んでいきました。

ぼくはすでに、「西郷札」など、彼の短編小説を読んでいて、ファンになっていましたから、嬉しくなり、学生だったぼくはただ、ぽかーんと彼の後姿を見つめていたのでしょう。

彼は小倉におられるものとばかりおもっていました。東京でお目にかかろうとは考えてもいませんでした。そのころは、すでに「点と線」をお書きになり、ベストセラー作家として押しもお知れぬ存在になっていました。

社会人なりたてのころ、ぼくは仕事でТBSの一階の広い待合室で人を待っていました。河野典生という作家と待ち合わせをしていました。彼は推理作家で、おなじ明治大学仏文科のぼくの先輩にあたり、その伝手(つて)を頼って原稿依頼をするためにそこを訪れました。

しかし待ち合わせ時間をすぎても、彼はやってきませんでした。

そのかわり、ぼくは偶然、大宅壮一という人とお話しする機会を得ました。

「あなた、マッチを持っていませんか?」といいます。

彼はたばこを咥えながら、ぼくにことばをかけてきました。

それが評論家の大宅壮一さんでした。

ぼくは若く、24、5歳のころです。何かおしゃべりしてくれましたが、すっかり忘れてしまって、惜しいことをしました。

河野典生さんは、その日急病で斃れ、入院されたことをぼくは知りませんでした。ぼくはある雑誌のフィクション・ページを担当していて、いろいろな作家に短編小説を依頼していました。

メンズファッションの服飾評論家・出石尚三さんにお目にかかったのも、そのころです。ファッションにかんする原稿を頼んだ記憶はありませんが、なぜか、彼に短編小説の原稿依頼をしました。河野典生さんの穴埋めでしたが、こころよく応じてくれました。

編集部でも彼の原稿が評判になり、次号も依頼しました。

TBSの待合室では、いろいろな方とお目にかかりました。作家・脚本家の倉本聰さんです。山田太一さんともお目にかかり、いつでしたか、親しくなって、山田さんとは電車のなかでいろいろおしゃべりしたことがあります。倉本さんの脚本では、「北の国から」は好きなほうでした。

その五郎の「遺言」のシーンは、いまでも忘れていません。

 

五郎 「金なんか望むな。倖(しあわ)せだけを見ろ。ここには何もないが自然だけはある。自然はお前らを死なない程度に充分毎年食わしてくれる。自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。それが父さんの、お前らへの遺言だ」

 

こういう文章を書ける人は、すばらしいとおもいました。――出会いのシーンは、いつもぼくひとりだったように書きましたが、そうではありません。友情ある仲間もたくさんいて、北海道のいなかから出てきた自分は、まぶしいほどさまざまな人と出会い、自分の過去のおもい出のシーンを彩ったものです。

川本三郎氏はこういいます。青春とは、「友情の季節」であると。才能ある人との出会いは、人生を大きくする、と。「蓼科日記抄」の書評として書かれた文章のなかの一節です。

友人は多ければいい、というものではありませんが、論敵もいなければおもしろくありません。

この「蓼科日記抄」は、小津映画ファンのあいだで、いまに残る小津安二郎最後の未公開の一級資料として知られていた膨大な「蓼科日記」のうちから、小津が蓼科に滞在した時期をベースに、映画史にコミットする記述や、戦後、小津とコンビを組んだ脚本家・野田高梧との交遊を知る上で欠かせない「抄録」本になっています。

小津安二郎と野田高梧の名コンビは知られています。

野田のほうが10年ほど年長のようですが、もしも彼がいなかったら小津作品は180度変わっていたでしょう。

それは文学にもいえます。

ヘンリー・ミラーは、アナイス・ニンとの出会いがなければ、彼の文学はなかったとおもいます。たとえばニンは、こう書いています。

「愛は決して自然には死なない。愛はその源を一杯にするやり方を知らないから死ぬのだ。愛は盲目や過誤や裏切りで死ぬ。愛は病気や怪我で死ぬ。愛は疲れ、萎み、色褪せて死ぬ」といっています。

“Love never dies a natural death. It dies because we don't know how to replenish its source. It dies of blindness and errors and betrayals. It dies of illness and wounds; it dies of weariness, of withering, of tarnishing.”