What's next――生は自分の能を見つけるためにあるってこと」 

 

「人生は自分の才能を見つけるためにある?」

ある本を読んでいて見つけた文章である。

それは、「コーヒーの人 仕事と人生」(フィルムアート社、2015年)という本を読んでいて、その19ページで見つけた見出しなのだ。

田中勝幸さんという人が書いている。彼はカウンター・カルチャー・コーヒーといっている。中身はエスプレッソの話だ。エスプレッソだって?

ああ、懐かしいなあとおもう。というのも、ぼくは若いころイタリアに住んで、そいつをはじめて飲んだとき、ミラノのバールのおばさんがにこにこしながら、「いかが?」ときいてきた。

日本人の口に合うかしらっていう気持ちで。

もちろんおばさんは日本には行ったことがないという。ある日、日本人のひとりの柔道家がやってきて、コーヒーをオーダーした。で、おばさんは「どんなコーヒーを?」ときくと、隣りで飲んでいる若いサラリーマンの呑むコーヒーとおなじものを、と頼んだそうだ。

「アルコールも入れて?」ときく。

「アルコール? そいつはないほうがいい」と彼はいったそうだ。

で、おばさんはカプッチーノをつくった。だって、隣りの彼が飲んでいるコーヒーとおなじものを所望したからだった。そいつはどろっとしていて、見た目はコーヒーらしく見えない。イタリアではこんなまずそうなコーヒーを飲んているのか、と彼はおもったかもしれない。

で、彼は飲んでみる。

そして静かに目を瞑るのだ。

飲んで喉元をすぎると、たちまちコーヒーの苦みが口の中いっぱいにあらわれ、やがて甘さと辛さがブレンドしたみたいな味に変わる。こいつにアルコールを少し混ぜると、天国みたいな味に変わるだろう、と彼はおもったようだという。

「景気づけに」という表現は、ここではあたらない。彼らは景気づけに飲んでいるわけじゃない。ワインだって、むかしは水のかわりに飲んだ。日本のように、いい水がなかったからだ。子供も女たちもワインを水がわりに飲んだという。

アルコールを入れるのは、イタリアの常識?

「はい、常識です、殿方には」とおばさんは付け足した。

ぼくはミラノに行くと、――ほんとうは「ミラーノ」というのだが、――バールに入り、おばさんの情報を頼りに街を歩く。あいにくと草加にはそういうコーヒーを出してくれる店はない。だからぼくは缶コーヒーならばEmerald Mountainを飲む。

田中勝幸さんが書いている「才能」の話なのだが、自分のタレント性ということ。それを見つけることだという。ことばを換えれば、自分のマーケタビリティを考えるというわけである。

 

 

玉置浩二×岡野昭仁、「サウダージ」

 

 

ぼくはここで、考える。

方程式をいろいろいじくって算出された方法、それを援用すれば、自立する自分のマーケタビリティができあがるのではと考えたことがある。結論をいえば、けっして不可能なことではないとおもう。

サラリーマンは、企業に所属し、企業と労働契約を取り交わしているために、知的財産権は企業に帰属する。しかし、定年退職をして年金受給者になると、だいたいは企業のしがらみがなくなる。知的財産権は個人に帰属するのである。頭の中に蓄積した財産は、だれにも永遠に盗まれることはない。年をとって学習する学びのスピリットをなくすると、とても寂しいので、

これを、ぼくは10年前に「マーケタビリティ」ということばで説明してきた。

新規マーケットにおける新しいアイデアの提供で、いくらでもビジネスの世界戦略が可能だという《ベンゼン環(かん)理論》で説明することができた。

《ベンゼン環理論》というのは、もともと化学者のケクレの考案した化学式で、ベンゼンを自分流にアレンジしたマーケット・リテラシーのことである。入口も出口もないインターネットとおなじだ。重要な本質は「つながる」ということだろう。

既存のマーケットで、既存の計算方法を使って、既存の価値しか追求しないビジネスは、もう限界点にきているという考えに立つ。ITビジネスのおける計算式は、「ゼロ×不特定多数=something」というのだから、当たるか外れるかだ。

競争の激しい既存のマーケットに身を投ずることは、ただでさえ激しい競争社会にさらされる。競争のない新しいマーケットはないものだろうか、そう考えると、こころ楽しいものになるかもしれない。それならば、新規マーケットの創造しかないだろう。

いままで見たこともないマーケットをつくろうという話である。

何もおどろくことじゃない。

放送分野で考えると、BS・地上波チャンネルを見れば分かるとおり、データ放送がもうできあがっている。ぼくが最初におこなったビジネスは、そういうテレビのデータ番組を制作することだった。

このビジネスモデルは、じゅうぶん新しいし、りっぱなビジネスモデルになり得る。テレビ画面をクリックすると、データ放送に切り替わり、ショッピング・チャンネルと化す。さらにクリックすると、与信コーナーが開き、信販会社の審査を受け、オーダーが確定される。これはまだ実現されていない。

――数年前、住宅の各モデルハウスを見て歩いたことがあるけれど、高齢化社会の、びっくりするような新機軸ができあがっているとはいいがたい。20世紀の住宅づくりの単なる延長でしかないようだった。

住まいの家電という家電は、すべてネットワークで結ばれ、セキュリティとともに情報のシステム化が立体的におこなわれなければならない。しかし、これをプレゼンテーションしているメーカーは、1社もなかった。

イタリアのバールを日本で開業する話がすすんでいるようだ。

バールの概念は、日本ではなかなか理解されていない。イタリアでは、バールが地域の情報発信基地となっている。バールのおばさんに聴けば、その地域のことならなんでも教えてくれる。乳牛のふるさと、そこで本場の牛乳を飲んでみたいという人のために、おばさんはごていねいにも、地図まで書いて教えてくれる。

おいしいピッザの店に行きたければ、バールのおばさんにたずねるといいかもしれない。そしてもうひとつ。

エスプレッソといい、カプッチーノといい、ほんとうに飲みたい味を決めるのは、おばさんではなく、オーダーしたお客本人なのだということ。どんなコーヒーを飲んでみたいのかは、お客が決める。バールのおばさんは、お客の要望に合わせてコーヒーをつくる。

日本では、エスプレッソといえば1種類だけで、2通りも、3通りもない。イタリアではバールのテーブルで独自のコーヒーがつくられている。そういうバールをつくるのは、もしかしたら日本ではできないかもしれない。それをつくる熟練の度合いはとても高いからだ。

「わたしだけのカプッチーノ」。そんなことは、とてもムリな話かもしれない。

けれども、いま、つくろうとしている。これはこれまでの常識に挑戦するような話で、このニュースを読んだだけでもわくわくしてくる。