かの時代――太郎パリに行く。かの子死す
お隣りの三味線のお師匠
岡本かの子は作家であり歌人です。本名は、カノコです。岡本太郎の母が死んだのは1939年でした。
彼女は22歳で岡本一平と結婚しましたが、夫との結婚生活がうまくいかず、しょっちゅう夫婦ケンカをしていました。
夫との「性格的対立」と書かれています。
で、かの子はたいへん悩み、やがて仏教研究にのめりこみます。「鶴は病みき」以降、作家として活躍し、亡くなるまでの4年間に「老妓抄」や「河明り」、「生々流転」などを書き、落日の美学というような耽美主義の作品を書きあげます。
ぼくがそれらを読んだのは、社会人になってからでしたが、なかなか妖艶なものを感じました。いまはつぶさに想いだすこともありませんが、大人の女の色気といいますか、何か、色気から漂う怖いものを感じました。
♪
さっきHさんがやってきて、クレーン車で木を伐採する話をしました。
おとなりの米屋さんが、45年つづけてきた店をたたみ、大きな家が解体されています。そこは、このマンションと地続きになった土地で、道路に面しています。去年、92歳になるご主人に先立たれ、おばあさんは三味線のお師匠さんで、お弟子さんに詩吟と三味線を教えていましたが、近年は、三味線の音も聞こえなくなり、ちょっとさびしい感じでした。
お勝手口から出てきた彼女を見かけると、
「お変わりありませんか?」と声をかけます。
すると、
「ええ、ええ、おかげさまで!」といい、「もうこの家は、お払い箱になります」と彼女はいいます。大きなつくりの家には、いまは彼女しか住んでいません。
いつでしたか、ぼくはお茶の会に呼ばれて、お弟子さんたちといっしょにお茶を振る舞われたとき、彼女の三味線をはじめて聴くことができました。
玉置浩二「行かないで」――この曲を聴くと、ぼくを育ててくれたお姉ちゃん、ロシア人のナターシャを想い出します
お弟子さんのなかには、もう90歳になられる人もいて、さいきんは、もう足腰が立たなくなったといって、彼女は通いで、お弟子さんのお宅に出向いて三味線を教えていました。三味線を抱えて草加から電車に乗り、足立区のお宅まで通うのだそうです。
「歩けるうちは、歩きます」といい、元気に歩いていきます。
ぼくは、彼女とは20年ほどのおつきあいです。
彼女とぼくの共通の友人が亡くなったとき、葬儀場でも顔を合わし、「わたしたちもやがて天に召されるのね」と彼女は寂しそうにいいます。
おばあさんは見ればわかりますが、若いころは美人で、英語学校を出てすぐ、日本橋のデパートに勤務中、イケメンのだんなさまに見初められて形式的な見合いをし、大急ぎで結婚したのだそうです。
結婚したとき、彼女のお腹のなかには長男ができていたそうです。
「あのころは、何事も急ぎましたから」と彼女はいいます。
彼女のいう「あのころ」というのは、昭和28、9年だそうです。
日本は独立を果たし、国連に加盟し、戦後の高度経済成長の前期でしたから、戦後8、9年のころは、圧倒的に人が足りませんでした。ご主人は博多の生まれで、戦時中は川崎の兵站部にいて、銃後の憲兵の下っ端任務についていたそうです。
「どんな任務ですか?」とたずねると、
「たとえば、映画館なんか」といいます。
「映画館ですか。……」
「早い話、赤狩りです」と彼女はいいます。
♪
父岡本一平、母岡本かの子、子岡本太郎。――この家族は、母岡本かの子の急死で、ばらばらな家族だったけれども、ひとりが欠けたことで、決定的にさらにおおきくバランスを失い、その母の死を知ったパリ留学中の太郎は、父から送られてきた手紙を何回も何回も読み、息子にたいする父の温もりをはじめて実感します。
《タゴシ、おかあさんは眠られた。没(な)くなられたのだが死という字を使い度くない。単に眠られて眠りの中で修業されて、又いつの世か僕たちに会いなさる。何かの形で。こんなにも僕たちの心の髄に食い入って強い絆を結び付けて行ったおかあさんが死ぐらいで縁を断ち切れるものではない。きっと会いなさる。そのときは、おかあさんももっとよくなった僕たちが生涯そのお交際いをして共に苦しんだ、あの説明し難い苦悩を浅くしてといて貰わねばならない。》
と書かれています。
これは葬儀の最中に書かれた手紙のようです。最後には「弔問客がきたので、また書く」と書かれ、あすまたこのつづきを書き、パリの太郎あてに送られました。
ぼくの祖父や祖母も、急死でした。
ふたりとも脳溢血。――あっという間に旅立ちました。
死の準備など何もしていなくて、子どもや孫たちが、老いた家長の死の枕辺にあつまり、すべての指揮を執る長男の指示で、農家の跡目を継いだ子どもたちの今後のことを大急ぎで相談し、戦争でだれひとり欠けることのなかった田中家一族のこれからのことが話し合われました。
そして、いちばん下の5男は、北竜町の桂の沢の土地と山をあてがわれ、営林署の仕事に精を出し、じぶんらの手で開墾した新田の多くを彼にゆずったのです。
ぼくは小学生で、何もわかりませんでしたが、人の死のなんというあっけないことか、を思い知らされました。一家眷属の絆は、北海道開拓の志とむすびついて、星雲の志となり、田畑の実りの風景をながめるたびに、親の死を乗り越えてきた人びとのそれぞれの物語をおもわずにはいられません。
ぼくはいま、江戸研究家の池田弥三郎の「手紙のたのしみ」(文春文庫、1981年)という本などを読み、永井荷風、谷崎潤一郎、小泉信三など、多くの人の日記を読み、戦後の「あのころ」のことを知るようになりました。なかでも永井荷風の「離縁状」というのもあり、サミュエル・ジョンソンの「断り状」のようで、おもしろいとおもいます。
「作家や詩人なんかの日記や手紙って、おもいしろいとおもいます。なかでも手紙は、だれでも書きますからね。著述家以外の人の手紙なんか、読むとおもしろいとおもいます。いまは、メールですか?」
「じぶんは、メールなんか一度もやったことがありませんよ。手紙も書きませんな」
「じゃ、電話ですか?」
「もっぱら、そうですな」といっています。でも、暑中見舞いなんか書くでしょう、というと、「書きませんな」といいます。「暑中には、何か送りますよ、それだけですな。字も忘れましたから。《暑中》って、どんな字でしたっけ?」と彼はいいます。――忘れる、人間というのは忘れる動物。そんな話をしていました。
むかし、英語学者の岩崎民平という人がいて、東京外語大を受験したときの話が伝わっています。ぼくはその話をしました。入試で唯一の間違いを犯したことを後年「試験と私」という文章のなかに書かれていて、おもしろいのです。
「日本の戦争後、非常な速度で欧化し始めた」というくだりで、この「戦争」というのは「日露戦争」のことだろうと踏んで、彼は「日本の勝利は、general(将軍)の戦略によることながら、privates(個人)の勇敢によることも多大であった」と書いたようだというのです。彼の先輩だった石田憲次から、「試験はどうだった?」ときかれ、その話をすると、
「それ(privates)はたぶん、兵卒のことでしょうな」といわれ、彼はがっかりした、という意味のことが書かれていました。
ちなみに「privates」をいまの英和辞典にあたってみると、とんでもない語がいきなり並んでいます。まず「外性器」とあり、「陰部(下)、局部、隠し処」などと書かれていて、そのつぎに「兵卒」という語が出てきます。
そんなことはとうに知っていたでしょうが、岩崎民平は、「外性器たち」じゃ文章にならないとおもったことが、そもそもおかしくてぼくは記憶しているわけです。
出征する兵士たちの個人をそこに描出してみたかったというのは、あとで苦し紛れに答えた話で、ほんとうは、知らなかったのではないか、とおもえてきます。
「じつは、《兵卒》というのは、ぼくも知りませんでしたよ」
「ふーん」
「――さて、大学入試で、英語はともかく、国語の試験がないのは、どこでしょうか?」
まあ、そんな話をHさんにしてみました。
「日本の大学で?」
「ええ、日本の大学で、……」
「知りませんな。……」
大学入試で、国語の試験がないのは慶応大の文学部だけでしょうか。いまはどうなのか知りませんが、英語の試験で国語力はわかるという考え方から、慶応大文系の入試には、国語の試験というのがありませんでした。そういうことを主張したのは、池田彌三郎教授です。彼は文学部の教授でした。
そのかわり、「小論文」を書いて出す、そういうことに決まったそうです。
きょうはなんだか、話の筋が、本筋から大きく脱線してしまいましたが、また、あの三味線の音、また聴いてみたくなります。