父は「れからは、分で決めろ!」といった

 

じぶんはもう82歳。ぼくはかなり年をとっているといえるかもしれない。

北海道のふるさとに帰って眺めた風景は、とても美しいものだった。バスのなかから見た田園の風景は、見慣れた風景なのに、なぜかよそよそしく感じられた。

ぼくは、そこに寄りつかなくなって、50年がたっている。50年は、ほんのひと時のようにも感じられ、はるか遠い時間のようにも感じられ、その50年間は、そのときのぼくには、100年にも感じられた。

平成20年ごろのじぶん

 

日記を書きながら、小説も書いていた

 

55年まえ、北海道のいなかの家の花畑には、ひまわりが咲いていた。母の好きなひまわり。

放し飼いにしていたニワトリたちが、玄関先のパドックを遊び場にして、あちこちに群れていた。ひまわり畑に隠れるようにして地面をついばんでいるやつもいた。

パドックには、彼らのお目当てのご馳走がいっぱい落ちていた。ときどきカケスがやってきて、先取りされていく。

「おーい、ハシゴをかけてくれ!」という父の声が聴こえる。

父は鶏舎の屋根にのぼり、トタンを張り換えていた。こんどは、妻側の屋根のエッジ部分のトタンを張り換えるという。

ぼくは大きな特製ハシゴを持っていき、屋根のケタ方向に立てかけた。

「そこじゃない。こっちだ!」といっている。ハシゴを足場にして張り換えるらしい。そこは小屋組みの、屋根のてっぺんに近く、ちょっと危険なところだ。重いハシゴを移動し、父のいうところに立てかけた。

そうだ、そこだ! 

といって、ハシゴの桟に両足を乗せると、トタンを張り、エッジのふくらみを金づちでトントンと叩いて、軒板の上までじょうずに張り渡した。

「ぼくにもやらせて!」というと、

「やめておけ!」といい、そして「見ておれ!」といった。ぼくは首が痛くなるまで父のやることを下から眺めていた。

2013年、父は、101歳でこの世を去った。

「おまえは、東京へ行け!」

父は、そういってぼくを東京の大学に送りだした。それから数年たって、こんどは、

「おまえは、イギリスへ行け!」といって、父はぼくをイギリスの大学へ送りだした。そのとき父は「これからは、自分で決めろ」といった。

考えてみれば、父は恋愛も結婚も、戦争のために自分では決められない世代だった。母のすぐ上の姉は、札幌で事業家の家に嫁いだ。子供ができず、ぼくが遊びにいくと、おばちゃんたちは喜んでいた。ぜひ進学しなさい、資金はおばちゃんがみんな出してあげるから、……と約束してくれた。

「大きな援助は、返せませんよ」というと、

「いいのよ。あなたが事業をして、返せるようになったら、ほかの人に援助してあげて。そのころには、おばちゃんたちはもういなくなるから、……」という。

ふーん、そういうものか、とおもって父に訊くと、「おばちゃんがそういったのか?」と父は訊いた。

 

佐渡に向かう船の中でもひとり歌っていた

 

ぼくは、ずっとまえ、――平成10年ごろのことだが、――父が書いた「自伝」の原稿の一部をコピーして読んだことがある。北海道に帰省したときにコピーして持ち帰ったのは、原稿用紙で170枚ぐらいのものだった。

それによると、母との出会いや、ぼくが誕生したころの話、3人の子守りの女の子たちの話などが書かれていた。母が結核性肋膜炎でながいあいだベッドで臥()せっていた。母は約8年間はたらくことができなかったので、家にはいつも子守りの女の子がいた。

いずれも彼女たちの名前は書かれていない。

最後にいた子守りの女の子は、日本人とロシア人のあいだに生まれたハーフの女の子だった。彼女はサハリンで生まれ、日本人の引揚げ者といっしょに北海道にわたってきたナターシャだった。

当時、サハリンからの引揚者は100万人を超えていた。

日本人妻のいる家族は、ロシア人の夫とともに北海道へ渡ってきた。ナターシャは、ぼくより8つ年上だった。彼女の父親はロシア人で、軍の事務局で働いていたらしい。北海道にわたると、ニシンなどの行商をしていた。

ぼくが8歳のとき、彼女が子守りの女の子としてわが家にやってきた。

ぼくの下に弟がふたりいた。生まれたばかりの弟は、ナターシャの背におぶさって母のおっぱいを吸っていた。

 

 

 

玉置浩二「純情 かあちゃん」

 

 

――わが家は、北海道の雨竜郡北竜村という農村地帯にあった。

父は、旭川第7師団から満州(長春)の戦場へと駆り出され、戦時中は、母がひとりで家の切り盛りをしていた。秋田、青森方面から出稼ぎの季節労働者が北海道に大勢渡ってきたので、母はそういう彼らを雇って、田畑を耕していた。

父が帰ってきたのは終戦の年の暮れだった。ぼくはすでに生まれていた。いまおもい出しても、むかしの写真を見るように、ぼんやりとして何も覚えていない。自分がまだ幼かったころの記憶は、ほとんど消えてしまっている。

わずかにおもい出すのは、本家のばあさんのことだった。父のいない家には、おそらくばあさんが母のめんどうをみていたに違いない。

ナターシャには野良仕事をさせなかった。家の切り盛りのすべてナターシャに任せていた。母のめんどうや、弟らの子守り、食事・洗濯など、彼女には休みというのはほとんどなかったけれど、日曜日だけは、お祈りをして自由に過ごしていた。まるで、家族のように暮らしいていた。

ぼくが小学校6年生のとき、馬の世話をして、馬を自由にまかせてくれたことが嬉しかった。農家も農閑期になるとヒマになり、せいぜい田んぼの草取りをするくらいで、ぼくはあちこちに馬を連れだして、馬といっしょに過ごした。

そのころの夏は、恵岱別川で釣りをしたり、野良仕事をして、よごれた馬の脚を洗ったりして、父と偶然、川原の土手で出会うこともあった。なぜか、そばにナターシャがいた。彼女は、夏には浴衣を着ていた。

「おれはきょう、休暇をとる! おもえたちは家にいろ!」

そういって父は、ナターシャを馬の背に乗せると恵岱別川に出かけたものである。

ナターシャは父よりも背が高く、たぶん170センチはあったろうか。ブルネットのヘアをしていて、目は茶色っぽかった。肌は白く、ロシア人らしく、お尻の大きい子だった。

その子が馬に乗ると、あぶみに乗せた父の足より、彼女の脚が長く見えた。彼女は背が高いので、母は彼女にいつも和服を着せていた。おそらく彼女のサイズに合う服はなかったのかもしれない。和服や浴衣なら、背丈に合わせることはかんたんにできる。

よく母の履いている下駄を、気に入って履いて叱られていた。

浴衣のすそが割れて、彼女の白い太股が見えたりした。ふたりを乗せた馬は、農道を歩いていった。

恵岱別川に向かう農道は、水路に添ってまっすぐに伸びていて、途中に小豆川があり、その橋にかかる水路は、板でできた樋ができていて、その真ん中に調節弁がついていた。あまった水は、調節弁を開いて水を川に放流していた。

そのあたりにはイタドリが群生していて、水は深く、ときどきそこでみんなと泳いでいた。

父はナターシャを誘って、そこでひと泳ぎするつもりだったのかもしれない。

ある日、ぼくは川にすべり落ちた。

川はそれほど深くはなかったけれど急流で、押し流されそうになった。ぼくはうしろから彼女の浴衣の帯をつかんで、しがみついていた。

お姉ちゃんが、川に流される! お姉ちゃんがおぼれる! とおもって、ぼくはお姉ちゃんの浴衣の腰にしっかりしがみついていた。ぼくは、少し水を飲んだ。ふたりは流されてコンクリートの護岸のある壁につかまった。

真上に用水路の樋(とい)のあるところだった。

樋から水がぽたぽた川に落ちていた。木々のあいだから洩れてくる朝日が、いくつにも散らばって見えた。お姉ちゃんは、護岸の壁が尽きたあたりにある柳の小枝につかまった。そこは木の茂みの影で薄暗くなっている。

彼女は、ぼくの腕をしっかりつかんで、「ゆき坊、がんばって!」と叫んだ。

お姉ちゃんは、片手で自分の浴衣の帯を解くと、それをぼくのからだに巻きつけた。そして、川岸をよじ登っていこうとした。お姉ちゃんのお尻がゆれて、からだがぼくのうえにずり落ち、ふたりとも川に背面から音をたててすべり落ちた。

水の中に沈んだ耳のなかで、お姉ちゃんの叫ぶ声がぼんやりと聞こえた。水の中は別世界だった。これが魚の世界なのかと、ぼくははじめておもった。

水のなかで、太陽が見えた。

きらきらして、まぶしいくらいだった。

彼女は柳の小枝につかまり、べつのルートを探してよじ登っていった。丈の短いクマ笹(ささ)がたくさん生えていた。ホウの木やクマゲラが好きそうな橅(ぶな)の木があった。ロロロロロと聞こえるクマゲラのドラミングの音は、このあたりでしていたのかもしれない。

お姉ちゃんは、土手にあがると、笹を掻きわけて農道のほうに歩いていった。

父が向こうから歩いてきて、いきなりナターシャの頬を打った。

「おまえたち、川で何をしていたんだ。おまえたちの姿が見えたので、きてみると、これは何だ!」といって、父は叱った。

父は中国の戦地で戦ってきた機関銃兵だったから、叱り方が怖かった。帯をつけない、ぬれたままの浴衣着のお姉ちゃんは、見たこともないほどきれいだった。ブルネットの髪がぬれて、顔じゅうに張りついていた。

「おまえは、帰って馬に餌をやれ!」と、父はいった。

それからのことは、ぼんやりとして、何も覚えていない。

ぼくら3人兄弟の子供時代は、戦争のない、とても幸せな時代だった。

食事をしながら、よく妻ヨーコにいっている。「弁当を残すなんて、彼女に叱られるに決まってる!」

だから、いまも弁当箱は、いつもカラっぽにして持ち帰るようにしている。それに、お昼は、いつも弁当箱で済ましている。弁当箱なら、いつ食べてもいい。父が上機嫌になると、たばこを吸いながら、ヴァイオリンを弾いたものである。

お酒はあまり飲めなかった。

夜、大勢の来客があると、ギターとヴァイオリンの共演がはじまった。古関裕而さんの「長崎の鐘」や東海林太郎さんの「国境の町」などがはじまる。

中学生の自分もヴァイオリンを弾き、みんなで歌なんか歌っていた。なつかしいなとおもう。みんな「さよなら」もいわずに、ひとりずつ、いつの間にか鬼籍に入った。