■「坊ちゃん」はなぜ市電の技術者になったか。――

イギリスの大地を走る立製高速電車「AZUMA(あずま)

小池滋

 

きょうは朝から冷たい雨が降っている。 ぼんやりとだが、雨のなかを疾走するイギリスの高速電車《ジャベリンJavelin》のことを想い出した。もちろん製作は日本の日立。

イギリスの鉄道は、1825年に開通した世界で最も古い鉄道である。

1825年、蒸気機関を利用する鉄道が初めてイギリスで実用化された。この技術は約30年後の幕末(1853年)の日本に、蒸気車の模型として到来をもたらした。世界で最初の蒸気鉄道は、イギリスの炭鉱でとれる石炭を運搬する目的でストックトンとダーリントン間約40kmに設営されたストックトン・アンド・ダーリントン鉄道である。

日本で初めて走った鉄道は、艦船に積んで運ばれてきた模型だった。

幕末の嘉永6年(1853年)7月、ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる4隻の軍艦が長崎に入港して江戸幕府と開国の交渉を行なった。約半年におよぶ滞在期間中に何人かの日本人を艦上に招待して、蒸気車の模型の運転を展示した。招待されたのは幕府の川路聖謨、佐賀鍋島藩の本島藤夫、同じく飯島奇輔らで、彼らは藩に戻って藩主に報告した。

長崎につづいて、1854年、横浜で蒸気車の模型が走った。これはペリーが2回目の日本訪問に際して大統領から将軍への献上品として持参したものだった。これが、日本のサムライたちをびっくりさせた。

「亜米利加(アメリカ)人って、何者?」と。

 

2019年5月15日、日本から導入した車両が、イギリスの東海岸を走ることから《AZUMA(あずま)》と命名された。

 

ぼくは、小池滋氏が英文学者であることは知っていたが、鉄道史研究家であることは、すこしも知らなかった。

文学作品の背景にあるイギリスの鉄道が深く関わっていることを知り、鉄道関連についても、大きな研究対象になっているという話だ。1979年に出版された「英国鉄道物語」では、19世紀のイギリスの鉄道に焦点を当て、その成立と発展について社会史・文化史の面からの分析をおこなっている。圧巻の1冊である。

また、イギリスで盛んな鉄道保存運動への知識も深く、自らも石川県で廃線となった尾小屋鉄道の車両保存活動にも参加しているという。

このほか、小池氏は19世紀のイギリスの技術者、イザムバード・キングダム・ブルネルの研究会を発足させるなど、彼の顕彰活動にも力を入れている。

そういえば、……文藝春秋社から70周年記念で「世界の都市の物語」(12巻)の「ロンドン」編を小池滋氏が書かれていたことを想いだした。1992年のことだった。じぶんが知る小池滋氏は、これ一冊といっていいかもしれない。

そういうことも知らないぼくは、小池滋氏のことを、あまりにも知らなさすぎた。

彼の本はたまに読んできたけれど、英文学以外の本はなんとなく敬遠していた。そのうちに、たいくつまぎれに一冊ぐらいは読んでみようと思うようになった。せっかく図書館から借りてきたのだから、10冊のうちの最後の1冊を手に取った。

こんなにわくわくさせてくれる本は、ほとんど読んだことがない。

夏目漱石が書いた「坊ちゃん」が長じて、市電の技術者になる話が書かれ、漱石は、どういう意図で彼を技術者にしたのか、まあ、その理由が日本の近代鉄道史を背景に、ミステリーふうに書かれていておもしろかった。

「坊ちゃん」は小説なのだから、作者がどう書こうと勝手な話なのだけれど、小池滋氏は違った。とことん突き止めているのだ。こういう評論はちょっとめずらしい。そこには、明治40年代の日本の特殊事情と鉄道事情が隠されていたという話である。

ちょっとご紹介すると、小池滋氏の本は、英文学にかぎらない。

 「幸せな旅人たち」(南雲堂 1962年)、「ロンドン ほんの百年前の物語」(中公新書 1978年)、「英国鉄道物語」(晶文社、初版1979、再版2006年)、「ディケンズとともに」(晶文社 1983年)、「島国の世紀 ヴィクトリア朝英国と日本」(文藝春秋社 1987年)、「鉄道世界旅行 絵入り」(鈴木伸一絵 晶文社 1990年)、「もうひとつのイギリス史 野と町の物語」(中公新書、1991年)などなど、……英文学者にして、小池滋氏は大の鉄道ファンのひとりなのである。

ぼくは不幸にも、そういう本をほとんど敬遠して読まなかった。

 

(小池滋、「世界の都市の物語」ロンドン編、1992年)。

図書館から借りていた「《坊ちゃん》はなぜ市電の技術者になったか」(新潮文庫、2008年)という本を、寝ころんで読みはじめた。第1ページからどんどん引き込まれ、あっという間に半分近く読んだ。そこには、表題のとおり、夏目漱石の「坊ちゃん」の話が書かれている。夏目漱石も知らない話もあるのだ。

なぜなら、小説の本文を引用して、「……その各列車が霧の深い時は、何かの仕掛けで、停車場(ステーション)間際へ来ると、爆竹の様な音を立て、合図をする」と書かれていて、「何かの仕掛け」というところを見ると、漱石がじっさいに見た話ではないと思われる。人から聞いて書いたのかも知れない。

じっさいに現場を見ていれば、爆竹が車輪に踏まれて、パンパン鳴らしているところを見たはずである。こうでもしなければ、信号機が霧でかすんで見えないからだ。人も自動車も通っている街である。ずいぶん危険な状況だったようだ。

「坊ちゃん」は、四国の中学の先生をやめて東京に戻り、「街鉄(がいてつ)の技手(ぎて)」になって、月給25円をもらっていたと書かれている。ここには書いていないけれど、25円というのは、悪くない。独身ならば、楽に生活していける額だ。

坊ちゃんは「清」という女中といっしょに住んでいた。

ここにある「街鉄」というのは、街中を走る路面電車のことである。「技手」というのは運転手兼整備要員。小説には「街鉄」も「技手」も、くわしいことは何も書かれていない。

小池滋氏は考えた。――

かんたんに鉄道の生い立ちをいうと、明治15年、新橋駅(現在の汐留駅跡)から銀座通りを経由して日本橋まで、東京馬車鉄道が開業した。明治23年5月に、上野公園で開かれた勧業博覧会で、アメリカから購入した電車が日本ではじめて公開運転された。

これを契機に路面電車が営業運転されたのは、明治28年1月31日。京都駅近くから伏見までだった。東京での市電営業は、明治36年で、馬車鉄道の軌道を電化して営業を開始したのが「東京電車鉄道」で、8月22日のことだった。

その後「東京市街鉄道」、「東京電気鉄道」、「東京電車鉄道」の3つができ、そのうち「東京市街鉄道」を略して「街鉄」としたものだった。

坊ちゃんは、この街鉄に就職したというわけである。

それが間もなく3社が合併して、明治39年9月11日からは「東京鉄道会社」となり、5年後の明治44年には、こんどは東京市電気局の手に移って、公営企業となった。

 

(小池滋「坊っちゃんはなぜ市電の技術者になったか」、新潮文庫、2008年)

 

小説の出てくる「街鉄」の愛称は、たった3年間のことだったことがわかる。

坊ちゃんは地方から出てきて、8年後には公務員になったというわけ。もちろん小説にはそんな話はこれっぽっちも出てこない。

まだ「街鉄」と呼ばれていた時代を描いているのである。

そういうことを考えると、漱石っていう人は、たくみにその時代の新しいことを描いていたことがわかる。さっきの爆竹の話をすれば、なんていうこともない話だ。

当時、東京は霧が立ち込めて、街の風景がいまのようにはっきり見えなかった。そのために、早朝の路面電車は、信号機のあるプラットホームに近づくと、レールの上に置いた爆竹が、車輪に踏みつけられて大きな音をだし、運転手に注意を与えていたというわけである。――なんと、まあ、原始的なシステムを採用したものである。レールの上に爆竹を置く人がいたというのであろう。夜、爆竹を踏んでも大きな音を出したとおもわれる。

本には、明治39年現在の東京市内電所の路線図が2ページの見開きでついている。「汽笛一声新橋を」ではじまる「鉄道唱歌」(明治33年)。はじめの一行にはなじみがある。ところが、

 

 玉の宮居は丸の内

 近き日比谷に集まれる

 電車の道は十文字

 まだ上野へと遊ばんか

 

――ではじまる「電車唱歌」は、ぼくは知らない。

「坊ちゃん」発表のころは、この唱歌を読めば、当時の市内3車線はほぼわかるようになっているという。

この歌は、第52節の「靖国神社」で終わっている。

このことからも、漱石がいちばんなじみがあったのは、やっぱり「街鉄」のほうだったようだと書かれている。だから、漱石が坊ちゃんを街鉄に就職させたというのも納得がいく。このことからいえば、「坊ちゃん」とは、夏目漱石自身のことだ、そう思えば話は早い。

忠実な女中の清が亡くなり、坊ちゃんの菩提寺である「小日向(こひなた)の養源寺」の墓に埋めた、と小説には書かれている。夏目家の菩提寺は小日向にあった。

当時漱石は千駄木に住んでいた。坊ちゃんと清が住んでいたのは、やっぱり文京区千駄木あたりと推測される。

坊ちゃんの家賃は月6円。そこから街鉄本社のある数寄屋橋まで通ったと思われる。現在のJR有楽町駅の東側。――つまり、現在の交通会館のあたりか。――この交通会館は、鳴り物入りで昭和37年に建てられた。当時そこにはまだバラックが建っていたが、反対したバラックの住民たちは、がんとして、土地買収に応じなかった。

そのころ、ぼくは銀座かいわいを新聞配達していた。ようやっと、それをつぶして建てられたのが交通会館だった。会館の屋上には、ラウンジになった展望台みたいなレストランがあり、当時、米海兵隊員らが大挙して入っていった。

ところで、「技手」というのは、職工や運転手より格が上で、仕事のマネジメントをしたり、監督したりする役だったと書かれている。小説に書かれているような坊ちゃんではなく、彼は専門学校出で、大学出のエリートではなかたので、いろいろあったに違いない。

こうしてみると、この本は、小説「坊ちゃん」を理解するに恰好な本ということになりそうだ。

よく、ここまで調べ上げたものだと感心してしまう。坊っちゃんを取り巻くイメージが、だんだんはっきりしてきた。そればかりでなく、それを書いた漱石の文明にたいする魂胆が、透けて見える。

漱石はもとより、文明論者である。小説「三四郎」には、そのことがよく描かれている。それはともかく、微に入り細を穿って論証のかぎりを尽くして書かれたこの本は、「いちいちごもっとも!」と、合点したくなる。

21世紀の今じゃ、日立製の電車《AZUMA(あずま)》が、イギリスの大地を高速で走っている。おなじ日立製の先行高速電車《ジャベリンJavelin》の実績が買われて、日本語が冠をなす高速車両が走ることになったのである。《ジャベリン》というのは、ロンドン・オリンピックに因んで「投げ槍」と命名されたらしい。

日本人の観光客も、さいきんのコロナウイルス拡大の影響で、出かけることも少なくなったようだ。だが、訪英すれば、だれもが一度は見ることになる「ロンドン塔」は、11世紀の1066年、イギリスを征服したウィリアム征服王によって建てられたものである。

それ以来、フランス語がイギリスの公用語になった、というと、

「え! そうなの?」と、間違いなく日本人はみんな驚く。

 

まあ、話せば長い話になろう。

もともとの英語は、語彙が一音節というような単語が多く、その語彙も少なく、外国語と対応できる語彙数を持っていなかったので、ほとんど使いモノにならなかった。たとえばホテルは、フランス語は「オテルhotel」、――hを読まない。英語は「ホテル」としたわけで、いってみれば、フランス語をただ英語読みする程度だった。

そうやって以降ほぼ300年間は、かれらのイギリスでは、フランス語が玉座に就いたのである。そして、多くの政治犯がここに幽閉され、処刑された。

第二次世界大戦中は、ナチス党の指導者ルドルフ・ヘスがここに投獄され、ドイツのスパイとして処刑されている。――もしもここに日本人のガイドさんがいたら、こういうだろう。

「夏目漱石は明治33年から35年にかけて留学中にここを訪れ、あの有名な《倫敦塔》を書いたのです」と。

イギリスで蒸気機関車が実用化されてから間もなく200年を迎える。

鉄道発祥の国で、日本語の名前を冠した高速列車が去年の5月15日、 営業運転を開始したことはすでに記した。ブリテン島の東側を南北に結ぶ東海岸本線を、極東の国・日本から導入した車両が走ることから《AZUMA(あずま)》と名づけられた。

日本が誇る新幹線車両の技術が認められ、一両も納入した実績のない日本が、どうやってイギリスの大動脈を走ることになったのか、その大がかりなプレゼンテーションと厳しいテストを経て導入が決まり、営業運転までこぎ着けたのか、あらためてその経緯を追ってみたくなるけれど、その話は、いずれまたにしたい。――