さーおう、メアリー・ブラックみたいに「Norwegian Wood」を

 

2月になって、ぼくは急に村上春樹さんの小説を読みたくなった。

村上春樹さんの小説は、けっこう奇想天外な部分もあるけれど、読んでいく過程がおもしろい。

――たとえば、街を歩けば、ふつうのおばさんの感じなのだが、ステージの上で歌を歌わせたら、あまりにみずみずしく、森のなかに吸い込まれそうなほど敬虔な気持ちになる曲。アイルランド生まれのメアリー・ブラック(Mary Black)みたいなものだろうか。

 

 

メアリー・ブラック「Moon River」

 

彼女のちょっと古いアルバム「What A Time」のなかの、どれでもいい何かを聴くと、それは散文的で、ちょうど村上春樹さんの文章みたいに聞こえるのだ。軽そうで、軽快で、すらすら聴けちゃう歌。それでいて、なんという深みのある曲なのだろうとおもってしまう。

ぼくは、人がいうほど村上春樹さんをちゃんと読み込んではいないけれども、村上春樹さんの小説には、いままでの日本文学にはなかった新しい風が吹いているとおもう。

その風は、メアリー・ブラックみたいな感じがするので、ちょっと例にあげたけれど、それはカー・ラジオから流れてくるような物語なのだ。それが格別めずらしい物語なんかじゃなく、振り返れば、自分もそうだったとおもわせるような素朴な物語なのだ。

ある批評家は、村上春樹さんの小説を批評して、堀辰雄の「風立ちぬ」を持ち出している。「風立ちぬ」という小説では、結核で死ぬ話がつづられており、村上春樹の「ノルウェイの森」では、精神を病んで自殺する女を描いている、といっている(小谷野敦「病む女はなぜ村上春樹を読むか」、ベスト新書、2014年)。

そのような設定は、いかにも現代的なのかもしれない。

自我が病んでいるように書かれているからだろうか?

たぶん、人は何もいわないけれど、評論家がいっているような、谷崎潤一郎とか、川端康成とか、いろいろな作家たちの書いた本と比較し、引用したりして縷々(るる)のべられているけれど、村上春樹さんの小説は、それらともぜんぜん違っているし、比較するほうがむずかしく、むしろ比較などには意味がないと、ぼくは考えている。

そして、どんなふうに違っているかなんて、そんなことはいわなくても、読めば読むほど、その先を読みたくなるような、なつかしいヒップポップ風なテンポで描かれている。カー・ラジオから流れてくるような、どことも知れない風景を描き、たとえセックス依存症に悩む女を描いていても、その不幸を現代の身近なインシデントとして映し出される。日常的な、ありふれたシークェンスといってもいい。

 

 

玉置浩二「2023年ベスト」より

 

 

ぼくが読むかぎり、村上春樹さんにたいする批判は批判として受け入れつつも、それはちょっと違うな、という気になってしまう。

批判の的をフォーカスしていないから、よくわからないのだ。

どこがいけないといっているのか、どの本を読んでも、村上春樹さんをちゃんと批評していないようにおもえる。

なかにはドストエフスキーと似ているという批評もあり、ドストエフスキーとの綿密な比較をのべているが、100年まえのリアリズムと比較しても、はじまらないのでは、と考えてしまう。

たとえば、村上春樹さんが翻訳している作家たちをならべるだけでも、そのだいたいの傾向がわかる。S・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、カート・ヴォネガット、マーク・ストランド、ジョン・アーヴィング、レイモンド・チャンドラー、……。まだまだいろいろある。

トルーマン カポーティの「クリスマスの思い出」は訳さないはずはないとおもっていたら、やっぱり訳した。

村上春樹さんの土壌は、大平原にあり、日本を意識しないで書かれている。

ロシアであろうが、ドイツであろうが、中国であろうが、人びとはおなじだといわんばかりに、国を特定したり、民族を特定したりしていない。

村上春樹さんは、戦後を描かない作家である。団塊の世代のちょっと後あたりに生まれた青年が出てくる。日本の経済成長というものを冷ややかに見つめてきた世代だろう。

それで何か夢を描いたのか、といえば、そういうものはなく、ニュートラルな日常のなかで、なんとかその日その日を生きようとする人たちだ。こんな小説は、ちょっとなかった。

小説としての結構が、ひとむかしの小説と、まるで違うのだ。物語の結構や、ストーリーに何かいいたいことがあるとしても、村上春樹さんの小説の多くは、何かの依存症に苦しむ人びとを描いている、とおもえる。

芥川賞作家になれなかったのは、至極とうぜんのような気がする。こういう小説は通俗小説と見なされるからだ。S・モームだって一流の通俗小説作家だった。わが国の文学登竜門には、むかし気質の選考委員というのがいて、それがしばりになった。それがいけないというのではなく、文学のトレンドが変わったというのに、日本文学の体質は何も変わらないみたいな。

たとえば「ノルウェイの森」。――直子が死んで18年後、主人公はヨーロッパ行きの飛行機に乗り、ハンブルクの空港に着陸しようとしたとき、むかしのことをおもい出し、男泣きに泣けてきて、グレーイッシュに暮れなずむ空港で、18年前の悲しいシーンをおもい出すというわけである。その記憶が、一冊の本になって「ノルウェイの森」と名づけられた。

「ノルウェイの森」は、ぼくにとって、とうぜん村上春樹さんの小説であるまえに、ビートルズ・ナンバーの一枚だった。「NORWEGIAN WOOD」は、もともとは「この鳥は飛び立ってしまった(This Bird Has Flown)」というタイトルだった。

「NORWEGIAN WOOD」に書きかえられても副題として「This Bird Has Flown」がしばらくついていた。この「飛び立つ」ということが素敵だなとおもっていた。しかし、主人公は飛び立つまえに、直子のことを想い出したのだ。

ぼくにとって1987年、――昭和62年は45歳で、多忙な日々を過ごしていた。

東京から札幌に移転し、16歳の息子が小児ぜんそくのために転地療養をかねて札幌の親の家に移り住み、やがて二度目の家を買って、北海道暮らしがはじまった。その年の9月、講談社から書き下ろし作品として村上春樹さんの「ノルウェイの森」(上下2冊)が刊行された。

ぼくは家を手に入れると同時に、その本を手に入れた。

読みようによっては、性にだらしのない青年が、セックス好きの彼女を抱き、その後彼女は精神を病んで、自殺してしまうという出来事を、たんたんとつづっているように見える。小説の構成はじつにシンプルで、日記みたいにつづられている。どこにも気を衒(てら)ったようなところがない。とてもさらりと描かれている。

だが、村上春樹さんも気づいていただろう。

「NORWEGIAN WOOD」の訳文が「ノルウェイの森」になってしまっていることを。

ぼくは音楽業界のことは知らないが、キングレコードの某氏がぼくの部下になったとき、彼からビートルズの「ノルウェイの森」の話を聞いている。

Norwegian Woodということばは、英国の装飾調のヴィクトリアン家具とはちがって、モダーンな木の家具として取り入れられはじめたころだ。それを総称して彼らは「Norwegian Wood」と呼んだというのである。詩のなかで、「ぼく」の目に映ったのはそのNorwegian Woodだったというわけ。

彼女とはまだ深いつき合いはない。その証拠に、そこは、

I once had a girl

Or should I say she once had me

という表現になっていて、

She showed me her room

Isn't it good, Norwegian Wood

「彼女は、ぼくを部屋に案内してくれた。おっと、こいつは素敵じゃないか……」という気持ちで、Norwegian Woodということばが、詩のなかに突然あらわれてくるのだ。家具はみんなNorwegian Woodじゃないか、という気持ちで。

それに、もしも彼女が恋人なら、「show(案内・披露)」なんていう語を使うわけがない。それが「ノルウェイの森」だなんていう可能性は、万に一つもない。

ところが詩の内容が変なのだ。

いよいよ夜も更けてきた。

すると彼女はいう。

「She asked me to stay(泊まってってよ)」

彼は胸を高揚させる。

「ask」した彼女は、つづいてこんなことをいう。

「どうぞ適当に座って」と。しかしその部屋には一脚の椅子もないのだ。

ジョンは少しあわてて、rugの上に座った。このrugというやつは、暖炉の薪の火がはぜて、床が焦げるのを避けるために床に敷いた一枚の、日本風にいえばマットなのだ。そこに座れって? 

で、彼は座った。

火が燃えていれば、熱くて仕方ないだろう。

さーて夜も更けて、いよいよベッドにというとき、彼女はいう。

そのIt's timefor bedには、「いっしょにベッドに行きましょう」という含意は少しもない。わたしは自分のベッドで寝るわ、という意味。

「あなたはバスで寝て、わたしはじぶんのベッドで眠るから」というのである。

And crawled off to sleep in the bathの「bath」は、女の「bed」と呼応して二意一語のくっつき合う語だ。歌の文句にすれば、音がグーンときいてくる。なんてことだ! そんな話はないだろう! と男はおもう。さっきから、迂闊にも勃起させていた彼は、たちまちしぼんでしまった。

いっしょに寝るつもりだった彼は、妄想がゲームセットになったことを知る。彼はてっきり、女がこういうとおもっていた。

「ねぇ、あたし、眠れないの……いっしょに寝て」と。

その夢も終わった。

だから、「あの鳥は飛んでいってしまった」と最初は書いたのだ。ビートルズの「ノルウェイの森」はそういう曲である。ひるがえって、村上春樹の「ノルウェイの森」のほうも、彼女が死ぬことで、彼自身の夢も終わっているのだ。