■イギリスの文学――

痛で静剤がほしくなる本 

 

 ジェイムズ・ジョイス。

 

「ユリシーズ」という小説、その話をすると、ぼくの友人たちはクモの子を散らすように、みんなさーっと散ってゆく。毛嫌いされているものの代名詞なのだ。臨床学的にいうと、どうも、鎮静剤を打ちたくなるような痛みを感じるようなのだ。キャバレーの女になったり、女優になったり、街のチンピラになったりしなければわからないような文章で書かれているからだろう。

首相にも、世の警察官にも、検察官にも、犬の調教師にも、淋病を治療するドクターにも、スリ・どろぼうにも、それぞれの感情の起伏があり、ありとあらゆる手を使って書かれているからだろう。

それらが何語で書かれていようが、みんな、「時間がないんだ」といって、読もうとしない。

読んでみると、はたして難語の域をこえている。

「ユリシーズ」は、専門家によれば、前半をジョイスの「初期の文体」、後半を「新しい文体」と分析しているようだが、そのきわだった「文体」の違いは、ずっと後半になって実現する。前半は物語の紡ぎ方がちがい、後半は新しい語り方だと位置づけているようだ。まずは冒頭のシーンをお目にかけると。

①3人称の語り。

(新訳)重々しくて肉づきのいいバック・マリガンが、シャボンの泡立つボウルを捧げて階段口から現われた。十字に重ねた鏡と剃刀かみそりが上に乗っかっている。(この訳文は1997年発行による集英社版。その後改訳された最も新しいものである。丸谷才一-他訳)

 

(旧訳)押しだしのいい、ふとっちょのバック・マリガンが、シャボンの泡のはいっている椀を持って、階段のいちばん上から現われた。椀の上には手鏡と剃刀が交叉して置かれ、十字架の形になっていた。

②対話=カギかっこは使わず、ダッシュのみ。

 

――ねえ、マリガン、とスティーヴンは静かに言った。

――なんだね、坊や?

――へインズはいつまでこの塔にいるつもりなんだろう?

 

①由間接体=人物のことば、もしくは感性を模した3人称の語り。

まだ愛の痛みにはなっていない別の痛みが、彼の心をいらだたせる。

②独白=意識の流れを総称するもので、「ユリシーズ」のまさしく規範的なコンテクスト。――たとえばファーガスの歌。ぼくは家のなかで、ひとりでその歌を歌った。長いくぐもる和音をおさえながら。母の部屋のドアをあけておいて。ぼくの歌を聞きたがったから。

以上が専門家たちがいう「初期の文体」と称されるものである。

ジェイムズ・ジョイス自身、アイルランドでオペラのアリアを歌っていたのだ。

 

「ユリシーズ」〈1〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ、集英社刊)について。

――ところが、後半は、第10挿話以降を指し、第10挿話「迷路」、第11挿話「カノン形式によるフーガ」、第12挿話「巨大化」、第13挿話「勃起、弛緩」、第14挿話「胎生的発展」、第15挿話「幻覚」、第16挿話「語り(老人の)」、第17挿話「教義問答(非個人的)」、第18挿話「独白(女の)」という順で、読ませるというよりも、それぞれ書くという行為をより前景化して綴られているのが特徴である。

読者がこれまで築きあげてきた世界と、それを遮断・遮蔽する新しい文体に直面して、とまどわざるを得ないかもしれない。「ユリシーズ」を楽しむポイントは、この後半部分の文体とどう折り合いをつけるかである。

第9挿話までは、タイポグラフィーの遊びみたいなネウマ譜、――ヨーロッパ中世の聖歌記符法のひとつで、鈎(かぎ)形や点、短線などを用いて音の高さや動きを表現したもの、――無韻詩、エンブレム詩、――王家などの紋章、徽章に浮き彫りする詩句――のドラマ形式などを見せていて、おなじみの散文のおもしろさをじゅうぶんに味わえるコンテキストになっている。

それにたいして、後半部分は、意識の様態や幻想の提示、思考の方法が内面的に、何らの準備なく濃密に描かれている。

たとえば、――

(第17挿話・イタケ)

ブルームの結論は?

ひとつの策。――彼は矮小な塀に両足を乗せて半地下エリアの柵を乗り越え、帽子を頭にしっかり押しつけてから柵の下部と踏み段との継目2か所を握りしめ、5フィート9インチ半の身長だけ体を徐々に下げて、エリアの敷き石から2フィート10インチのところまで接近させ、柵を放して自分の体を空間で自由に運動させながら体を屈めて落下の衝撃に備えた。

――と書かれている。

「ほんとに、落下したのか?」

 

既知の常衡測定値11ストーン4ポンドの体重をもって落下した。これを北アイルランド通り19番地の薬剤師フランシス・フリードマンの店舗内の定期体重測定用目盛りつき器具で確かめたのは、この前の昇天祭の日。すなわち、閏年、キリスト教暦一千九百四年五月十二日(ユダヤ暦五千六百六十四年、マホメット暦一千三百二十二年)、黄金数5、歳首月齢13、太陽循環期9、主の日文字CB、ローマ紀暦示数2、ユリウス暦6617年、MCMIVのことであった。

「彼は、衝撃による外傷なしに立ちあがったか?」

 

右は元コロンビア大学教授の神山幹夫さん、手前は田中幸光、下北沢の料亭にて

 

 

あらたに安定した均衡を得て、衝撃による震蕩はあったが外傷なしに立ちあがり、エリアのドアの掛け金を、その自由に動く金属片に力を加えた支点に第1種の梃子(てこ)の作用をあたえて持ちあげ、隣接する流し場を通ってようやくキッチンにたどりつき、黄燐(マッチ)を摩擦して点火し、これを調節して静かな白日にしぼり、最後に持ち運び可能な1本の蝋燭に火をともした。

※ 5フィート9インチ半=約176センチメートル。ダブリンの成人男子の平均身長より10センチあまり高い。

※昇天祭=キリストは復活後40日目に昇天したとされる。

昇天祭はその記念祭。1904年では、5月12日。以下のユダヤ暦やイスラム暦は、「トム」からの引用である。

※ユダヤ暦=ユダヤ暦は太陰太陽暦で、西暦紀元前3761年より起算する。平年は353日、354日、355日の3通り、19年間に7閏月を設けて調整する。1904年9月10日より5665年がはじまる。

※マホメット暦=マホメットがメッカからメディナへ移住した年、すなわち西暦622年7月16日から起算する。1904年3月18日より1282年が始まる。1322年はブルームの勘違いか。

※黄金数=メトン周期、――19太陰年に7閏月を置いて季節に合わせる暦法――でいう。復活祭(移動祝祭日)を算出する。ここは1899年からはじまるメトン周期の5年目の意だろう。

 

そのような知識を、強引に入れてでも読む必要がある。

さて、「第18挿話・ペネロペイア」の文章を見てみよう。

 

あたしはちゃんとコツを心えていてすこしうきうきと行ったり来たりしよううかれすぎないようにしてときどきちょっと唄を歌ってそしてそれからミファピエタマゼットそれからよそ行きの着がえをしてプレストノンソンピウフォルテいちばん上とうのシュミーズとズロースをつけよう彼にそれをたっぷりながめさせて彼の坊やを立たせてもしそれが彼の知りたがっていたことならおしえてやろう彼の妻はやられたのだということをYesすごくやられたのよものすごくふかく彼でない男に5かいか6かいぶっつづけに彼のおつゆのあとがきれいなシーツについているあたしそれをアイロンかけてのばそうなんて気さえないのこれだれ言って聞かせれば彼もたんのうするでしょうもし信ようしないのならあたしのおなかにさわてごらんそれでも彼が立ちあがらなくて彼を入れさせることができなければこまかなてんまでのこらず言うつもりそして彼にあたしの前で出させてやるいい気びいい気びみんな彼がわるいのよあたしがあの天じょうさじきの男の言う不ぎの女なのはさぞやいけないことなんでしょうねこれがこのなみだの谷であたしたち女のするわるいことの全ぶ

 

あたしのあしはあまりすきじゃないわでもグッドウィンのへたくそなコンサートがあったばんコンサートがおわってからあたしはあしでかれのあそこをいじってかれをいかせたことがあったわ……なにをぐずぐずしてますのOあたしのこいびとよひたいにキスして別れましょうそこはあたしのお尻のあなよ/あたしがかれのボタンをはずしてあげかれのかわをひきもどしたときあのさきはおめめみたいなかんじ

 

※ミ・ファ・ピエタ・マゼット……プレスト・ノン・ソン・ピウ・フォルテ=mi fa pieta Massetto……presto non son piu forte.イタリア語。モーツァルト作曲の2幕オペラ「ドン・ジョヴァンニ」中の1幕3場のツェルリーナとドン・ジョヴァンニの2重唱でのツェルリーナの言葉。「ごめんなさいマゼット!……いそいで力がでない!」の意。スペインの伝説上の人物ドン・ファン(Don Juan)を主人公としたもの。

※グッドウィン=かつてのモリーの伴奏を担当したピアニスト。第4挿話にも登場し、ここでは「老教授」と訳されている。

第18挿話のコンテクストはこんな調子である。原文を引くと、女がひとりおしゃべりする、かなり甘えた文章になっている。

 

I don’t like my foot so much still I made him spend once with my foot the night after Goodwins botchup of a concert

あたしのあしはあまりすきじゃないわでもグッドウィンのへたくそなコンサートがあったばんコンサートがおわってからあたしはあしでかれのあそこをいじってかれをいかせたことがあったわ

 

この訳文はすばらしい。

「spend」は自動詞として考えると「消耗する、尽きる、果てる」という意味になるかとおもう。この場合は明らかに「ejaculate(射精)」を意味しているだろう。モリーは自分の足で(with my foot)ブルームのあそこをいじってejaculateさせたというわけ。ブルームは酔っ払っていたのでピアノをじょうずに弾けなかったという意味。アルファベットの「O」は、感嘆のOと口やヴァギナのアナ、肛門のアナ、そして前文にある「Oやさしいメイ」と題する(「大きくなったら結婚してね」と約束する内容の)歌に引っ掛けたものとおもわれる。 

 

when I unbuttoned him and took his out and drew back the skin it had a kind of eye in it

あたしがかれのボタンをはずしてあげかれのかわをひきもどしたときあのさきはおめめみたいなかんじ

これは、ちょっとおかしいとおもう。――お尻のアナだとか口だとか、おめめだとか、ジョイスは体のさまざまな器官を引っ張り出してきて、想像に想像を重ねる大胆なコンテクストの実験を試みている。気になったので、その部分を検討してみる。

この訳文ではまず「took his out」がどこかに飛ばされてしまっている。モリーはボタンをはずし、「his」を外に取り出してから「drew back the skin」したといっているわけである。

「drew back the skin」とは、「亀頭の包皮を根元に向かってこすった(しごいた)」という意味になりそうだ。この場合の「his」は「彼自身、ペニス」を指すだろう。「ボタンをはずしてかれのあれをとりだしあれのかわをねもとにむけてこすったときあれのさきっぽにはおめめみたいなのがあるのよね」というような訳文になるだろう。

また、もっと前のところでは、犬の肛門をボタンのようだと表現している。

ジョイスは、ボタンは、はずして物を取り出すだけでなく、物を入れるところというイメージも与えており、ボタンにはどこか、その蓋か扉のような禁戒的なイメージの役割がありそうだ。だから、「ボタン」に対応する「おめめ=アナ」があるようにおもえる。

ジョイスの原文は、一見して簡単なように見えるけれど、なかなかどうして語彙の引っ掛け方がうまい。

それにぼくが感心するのは、「O=口」、「アナ」「あし」、「おめめ」といった身体器官の持ち出し方がとても新鮮で、衝撃的である。また、ジョイスは「ユリシーズ」のなかに音楽素材を取り入れている箇所がずいぶんある。スコアそのものも取り出しているほどである。

彼自身、ダブリンではテノール歌手として舞台に立ったこともあるほどで、コーク出身の父親ゆずりの標準的なソフトな英語をしゃべり、ジョイスの詩行を吟ずる声は見事であったと伝えられている。音楽の才はむしろ母親から受け継いだものらしい。

ジョイスは最年少の6歳でイエズス会の名門校クロンゴーズ・ウッド・カレッジに入学したというから、学校ではコーラスなどもやっていたのかもしれない。

その後、父親の放恣な生活がたたって、一家は急速に没落する。

父親はコークの資産と収税吏としてのじゅうぶんな年収があったけれど、収税組織の改革によって失職し、ジョイスは学業を中断せざるを得なくなった。父親はわずかの年金を受給しながら職をてんてんと変え、一家は郊外のラスガーからダブリン市内に移り住む。――この話をすれば、脱線しそうなので、あとにする。

現在、アイルランドではダブリン音楽祭やコーク合唱祭があるということだが、イギリスと違い、その音楽的な確立は、まだまだ未来の問題として残されたままになっているのではないだろうか。アイルランドにキリスト教が入ってきたのは、イギリスよりも200年も前のことだった。そのために後年、イギリス人プロテスタントがアイルランドにやってくると、容易になじんだものとおもわれる。

アイルランドのアングロ・アイリッシュの基盤ができると、コーク湾に面した港街は、洗練されたクィーンズ・イングリッシュを話すようになり、ダブリンでは、英語文学が確立されていく。