■イギリスの文学――

smellow匂いたつ」ほどのョイス作「リシーズ」

     ジェームズ・ジョイス

 

文芸としてつづられる文章は、吟味して読めば、こんなにおもしろいのか、とおもうことがいっぱいある。

――たとえば、ジョイスの書いた「ユリシーズ」。

そこには、ストーリーなんていうものはなく、主人公のたった一日の出来事、その日思ったり感じたりしたこと、想像したこと、回想・空想したことを綿々とつづっただけの、しかし長大で、辞典的な魅力たっぷりの異様な小説である。

ジョイスのたくらみの多くは、文章そのもののなかにある。日本語として一貫して読める文章になっていれば事足れりといかないのが、ジョイス文学のむずかしいところである。だから、ジョイスのおもしろさは、文章のなかに深く埋まっている、そう考えて間違いないだろう。

では、その文章とは、――。

 

Beer, beef, business, bibles, bulldogs, battleships, buggery and

bishops.Whether on the scaffold high. Beer, beef, trample the bibles. When for Irelandear. Trample the trampellers. Thunderation!  Keep the durned millingtary step. We fall. Bishops boosebox. Halt! Heave to. Rugger. Scrum in. No touch kicking. Wow, my tootsies!  You hurt?

麦酒(ビール)、牛肉(ビーフ)、仕事(ビジネス)、聖書(バイブル)、ブルドック、戦艦(バトルシップ)、鶏姦(バガリー)、それに僧正(ビショップ)。高い断頭台の上でも。麦酒牛肉(ビーフビール)は聖典(バイブルズ)を踏みにじる。愛するアイルランドを思うなら。自由を奪うものトランペラーを踏みにじれ、こん畜生(サンダーレーション)! 粉ひき歩調(ミリングタリー)で歩くんだ。おれたちは倒れそうだ。レモン葡萄酒の酒場(ビショップス・ブースボックス。止まれ! 停止。ラクビーだ。スクラムを組め。ノー・タッチからのキックだぞ。うわっ、おれの足が! 怪我か?

ジェームズ・ジョイス「ユリシーズ」集英社文庫ヘリテージシリーズ、2003年版)。

 

ジョイスのおもしろさは、こういった文章にこそ秘められているとおもっている。

「秘められている」といったけれど、それはまさに「秘められている」であり、ご覧いただく文章(原文)を見れば、翻訳ではちょっと――いや、ほとんど分からない(感じられない)ものが、ほの見えてくるではないかとおもう。

出し惜しみしないで、ちゃんと書いてよ! といいたくなる。

懇切丁寧にも、あるいは親切にも、前後の文章のなかに隠れたキーワードをちゃんと忍び込ませている。この訳文は旧版の丸谷才一氏。

 

2022年秋ごろの田中幸光の写真

 

同氏は丁寧にもルビをつけて、踏韻も含め、ゴロ合わせや、駄洒落が分かるように訳出している。冒頭の「Beer」から「bishop」まで「b」ではじまる8つの単語。これは、この前のページに書かれている「British Beatitudes!(イギリス人の福音だ!)」を受けたかたちで綴られた文章である。

 

 

「ユリシーズ」について

さて、「Beatitudes(福音)」とは、もちろん英国キリスト教の「8つの教え」を意味し、イエス・キリストが山上の垂訓(the Sermon on the Mount)のなかで説いた8つの幸福を指す。

そこでは「幸いなるかな心の貧しき者(Blessed are the poor in spirit,)」にはじまり、「Blessed are」ということばが9回繰り返される。

しかし実質的には8回で、俗に「8つの教え」といわれるものである(新約聖書「マタイによる福音書」5:3-12)。British Beatitudesは、16世紀に、エリザベス1世の父、ヘンリー8世の離婚問題に端を発して、イギリスではローマ・カトリック教会から独立して英国国教会が成立する。

これをアイルランド人は目の仇にしている。

歴史を勝手に変えやがった! というのだ。

それを揶揄したかたちで「マタイによる福音書」の「Blessed are」の代わりに、「b」ではじまるイギリスを象徴することば、イギリスと関係の深いことばをわざわざ引っ張り出してきたものとおもわれる。

したがって、ここでも福音書にちなんで単語が8つ綴られているわけである。

1行目に出てくる「buggery(男色=鶏姦)」は、イギリスの学校といえば、ほとんどが全寮制で、寮のなかで共同生活を強いられるわけで、だからむかしからホモ・セクシュアルが多かった。それをいっているのだとおもう。ここではそれを揶揄しているわけである。

「bulldog(ブルドック)」は、しらべてみると、イギリス原産の犬であり、辞典にはオクスフォード、ケンブリッジ両大学の学生監補佐を意味するとあり、「bishop(ローマ・カトリックでは司教、または僧正)」は、一般的には「僧正」と訳されるが、そもそもは英国国教会の「主教」を意味する語でもあった。

「Whether on the scaffold high.」「When for Irelandear」「We fall」は、愛国的な「God save Ireland(神のもとにあるアイルランド)」という歌の歌詞のなかから取られたことばで、別名「神よアイルランドを守り給え」と訳され、1926年まで兵士の歌だったが、公式の国歌になるまで、アイルランドの非公式の国歌とされてきた。なかなか愉快な歌である。

この歌は1867年12月7日にティモシー・ダニエル・サリヴァンによって書かれた。彼はマンチェスターの殉教者の裁判中のエンドマンド・コントンの演説に触発されてこの詩を書いたとされている。

「Whether on the scaffold high.」は、おなじフレーズが第8話にも出てきており、丸谷氏は、そこでは「たとえ断頭台にのぼろうとも絶対に」と訳されている。

そっちのほうはピーンとくる。

ところが、「粉ひき歩調で歩くんだ」とは、何を意味しているのだろうか。「millingtary」とは、「粉ひきとか、(金属の縁にぎざぎざを)刻みつける」ことを意味する「milling」と、「軍隊」を意味する「millitary」を引っ掛けている造語である。軍隊調に、ざっくざっくと歩調をくんだ歩き方という意味になりそうだ。だから訳文の「粉ひき歩調」だけでは通じない。――「粉ひき歩調」といってピーンとくるだろうか? 人間が臼で挽く粉ではなく、牛を歩かせて、一定の歩調でおなじところをぐるぐる廻っているようすのほうを連想する。そのニュアンスが出せれば、翻訳はグラン・クリュの一級品。

「レモン葡萄酒の酒場」というのも、ちょっと変だ。

葡萄酒にレモンまたはオレンジとシュガーを加えたドリンクこそ「bishop」と呼ばれるものだが、これは、しかしさっきの「British Beatitudes」にはつながらないので、ここでは文字どおり「主教」と解釈するとピーンとくる。大事なのは、8つの教えにならって、8つの「楯突く」意味の訳語を見つけ出さなくちゃならない、というわけである。

ジョイスのたくらみは、そこにあるとおもうから。

「boosebox」の「boose」は「酒」を意味する「booze」からつくられた造語らしい。

19世紀後半のビクトリア朝時代には、英国国教会のなかの一派に「高教会派(high Church)」と称するものがあったようだ。この一派は、酒類販売免許法の修正――より厳しい法的措置に抗議した事件――を受けたことばと解するならば、「この大酒呑みの野郎ども!」というような感じの「大酒呑み」という意味になるだろうか。

当時ロンドンでは酒を売る、売らないの悶着が横行し、その扱い業者へのライセンス認定がますます厳しくなった背景を揶揄してのフレーズ、とおもうと、とっても愉快な文章だ。

「‐box」とあるのは、セラーのような店の酒棚には置かないで、鍵のかかるボックスに入れて商いをしていた名残りかも知れない。それを「b」にこだわるジョイスは「boosebox」といっているのだから、ひじょうにおもしろい表現だ。訳文ではどうもわからない。

ここでは出てこないけれども、第15話では、「buybull」という見なれないことばが登場する。ははーん、とおもうだろう。丸谷氏訳では「牛買い」と訳されている。これはもちろん「British Beatitudes」の意味をこめてつくられた造語としか読みようがない。

「ユリシーズ」っておもしろそうだけど、むずかしそうね。

でも、ぼくには魅力的です。ラフカディオ・ハーンのふるさとでもあります。

パトリック・ラフカディオ・ハーン(1850-1904年)は、2歳から13歳まで、人生で最も重要で多感な時期を、彼はアイルランドで過ごし、日本人小泉八雲として54年の生涯を終えた。心地よくて、気味が悪いような、ちょっと小悪魔的な作風。その彼は、日本をとても愛した。

ハーンには日本は、ふるさとのように見えたにちがいない。――先年、松江に行き、小泉八雲記念館を見てきましたよ。――あら、わたしは出雲大社に行ったのよ、去年。こんど、小泉八雲のお話聞きたいわ。

ある秋のさわやかな日差しののびた午後のことだった。

越谷の「俊青会」の展示会場の受付で、漫然とかまえていたら、客がふたり連れだってやってきて、そばの絵を見て何か話しているのが聞こえた。

「みどりの川ということばが「緑川……」という人の名前に聞こえた。

「緑川さんというのは?」と、おもわずぼくはたずねた。すると、相手は妙な顔をしてこっちを見つめた。60歳くらいか、そのあたりの年恰好に見える。そばにいるのは奥さんだろうか。

絵を見ると、手前に川が流れていて、その川面(かわも)に、木々の風景が写り込んでいる。その描写がなんともいい感じを出している絵だった。F6号サイズの水彩画である。遠藤和夫氏の水彩画「御苑6月」。

その話をしていたようだった。

ぼくは、とんちんかんな話をしてしまったようだ。

「……ああ、この川のことですか。緑の川が、きれいだねと、いっていたんですよ」と、折り目ただしく説明してくれた。ちょっと訛りがあるようだった。この人が、きょうの客人の第一号だった。

そして、ぼくは業務の席にもどった。相棒のふたりは、奥のコーナーにいた。客人があらわれたので、もどってくるなり、女性当番の彼女が、立ち止まって客人にあいさつしている。彼女の知り合いだったようだ。

――ぼくはあることをおもい出した。ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」に出てくる話である。登場人物のバンタム・ライアンズのつぶやいたことばである。ブルームの「もう要らないんだ」ということばが、「モイラナイン」という馬の名前に聞こえたという話が出てくる。

アスコット競馬の金杯で、ダークホース、モイラナインは20倍の大穴をあける。

日本でいえば、20倍なんてざらにあるだろうけれど、1904年のダブリンでは、万馬券に相当する。「ユリシーズ」の原文では、「なげ捨てる」という意味で「throw away」といういいまわし方をする。これはひょっとすると、もともとはアイルランド英語かもしれない。バンタム・ライアンズは、それを「Throwaway」という競走馬の名前とおもったのである。

よくある話だ。

ジョイスの文章には、こうしたおもしろい話がふんだんと出てくる。

「大事なんだ」というのが、「だああいじなんだ」と、あくびのせいで、ことばが伸びている話もある。原文では、「dearer thaaan」となっている。つまり「than」というべき語が伸びてしまっている。

おならなら、Pieeeeeeee……だろう。

――ジョイスの文章は、そんなにふざけているのか、というと、そうではない。ジョイスは、だれもが認める20世紀最大の小説家のひとりである。亡くなられた柳瀬尚紀氏にいわせると、ジョイスの「ジョイ」が、――喜悦に満ちていると書かれている。この小説のおもしろさの鍵は、そんなところにあるとおもっている。

――もう15年ほどまえになるだろうか、「ユリシーズ」の翻訳本を読んでいたら、ぼくは「はあ?」と疑問におもわれる妙な訳文に出会った。訳文では、「あらゆる抱擁は、……」と書かれていた。翻訳家の名前は伏せるが、ところどころ、おかしな日本語訳になっていた。原文をみてみると、ちょっと変だと気づいたことがある。これはたぶん、英文解釈というレベルの話ではなく、ジョイス文学の懐に触れる訳文が要求される部分だけに、ちょっと妙な気分がした。

おそれ多くも、自分ならこう訳すぞ! と、不遜にも試訳をこころみたことがある。その一部はすでに書いているので、きょうは、べつのものをちょっと書いてみたい。

日本人同士だって、こうしたすれ違いのような、とんちんかんな会話になるのだから、まして、英語で書かれた文章を、外国人である日本人が訳すとすれば、呻吟するのはあたりまえの話だ、とおもえる。

母国語でない者が、翻訳するというのは、かなりしんどい作業をすることになるだろう。ことに、ジョイスの文章は一筋縄ではいかない。時事英文記事をすらすら読める人でも、ジョイスの文章は、すらすら読めないだろうとおもう。なぜなら、彼の文章には、辞典にも載っていないような語彙がふんだんに登場し、――つまり、造語のことだけれど、これまた、格別におもしろいのである。そこで、ぼくはどうおもしろいとおもったのか、せっかくの機会なので、きょうは、その話をしてみたいとおもう。

Perfume of embraces all him assailed. With hungered flesh obscurely, he mutely craved to adore.

あらゆる抱擁の香りが彼を責めたてた。漠然と飢えている肉体をいだいて、彼は無言のうちに熱烈な愛を求めていた。

 

池谷昭恵さん。「あらゆる抱擁……って? 何」

 

――冒頭に書いた「あらゆる抱擁……」の話である。

ここにあげた文章は、ある男が「ブラウン・トマス絹織物店」のウインドーにある絹のペティコートを見て、色欲的な刺激を受けるシーンである。これはいく通りもの語順で並べ変えることが可能で、ジョイスは文体を磨きあげ、ことばの効果を精密に計算しているとおもわれる。翻訳にしても、いろいろに訳せる。ぼくは、こう訳してみた。

 

抱擁の香りがいっぱいに溢れて、それが彼を襲った。密かに飢えている肉体を包んで、じっと沈黙したまま、燃え盛る愛を求めていた。

 

これが原文に、より近い訳かとおもわれる。意訳するのはいいけれど、「all」はここでは「いっぱいに溢れて」という意味で「him彼を」にかかることばであって、「embraces抱擁」にかかる語ではない。「あらゆる抱擁」って、いったい何だろうとおもってしまう。

ぼくは、これを副詞にとって、「いっぱいに溢れて」と訳してみた。

なぜなら、つぎに「With」ときているからだ。これをぼくは「包んで」とおいてみた。肉体を包んで……と。その「香り」が肉体をも包んでいるかのように見えるからだ。ここにジョイスの二語一意の妙味が隠されているように見える。

このセンテンスの重要な部分は「all」である。「obscurely」という副詞は、「不明瞭な」「(色などが)くすんだ」「人目につかない」などの意味があるが、ここでは、「肉体」にたいする「精神=心」、賤しい生まれの素性を持つ「無名の」という意味に近いことばだとおもわれる。

人は肉体にたいして、誘惑の刺激をちくちく感じさせるものは、素性の知れない自分の分身であり、決して気高くはなく、肉体同様に汚らわしいもの、卑猥なもの、それが沈黙しながらも、無骨にもときどき激しい愛の打ち鐘を鳴らすというわけである。

鐘こそ出てこないが、そのように読める。

あるいは、肉体は正直にものをいうけれども、内なる精神は、自分でも人知れず厄介で定かでない鐘を打ち鳴らすと。――そんな感じだろうか。そう考えてみると、翻訳家の訳文は、それ自体りっぱな日本語訳ではあるのだけれど、なにか、物足りない。

ある人に話したら、「英語はむずかしい」といった。「そうかな?」とぼくはおもった。日本語のほうがむずかしいのだ。

「先日わたしは、よく知っている竹田さんのお姉さんに会った」という文章があるとしたら、「よく知っている」は、「竹田さん」なのか、「竹田さんのお姉さん」なのか、はっきりいえる人はいるのだろうか? とおもってしまう。

――3日ほどたった。

で、さっきのつづきでいえば、第15話の話をしよう。――自慰行為のやり過ぎで(ちょと卑猥な文言がありますが、おゆるしください)、不能に陥ったらしいブルームが、スティーブンを心配して淫売宿に向かう。ブルームは生後11日で死んだ息子のことをおもい出す。

勘当同然に父サイモンのもとを飛び出して彷徨しているスティーブンを見ているうちに、しだいにスティーブンの息子にたいして愛情を感じるようになる。ブルームの幻想のなかで、ブルームの死んだ父が現われて、倹約について説教するシーンがあり、これも父性愛の表現なのかと思いたくなるシーンがある。――話はその幻想シーンの、死んだブルームの父が登場して、ブルームと会話する場面である。

 

(with precaution)I suppose so, father. Mosenthal. All that’s left of him.

(用心深く)そうらしいですね、お父さん。モーゼンタール(ドイツの劇作家。「ナータン」の作者)です。レオポルドのなれの果てです。

 

――このシーン、ちょっとおかしい。

「All that’s left of him」の「him」は、訳文では、この直前の父親の呼びかけから、ブルームの名前「Leopold」を指すことになっている。こういう解釈もできないこともないが、ぼくは「Mosenthal」と解釈したい。こう解釈すると、はじめて父親にたいするブルームの答えのなかに入っていける。そのほうが「Mosenthal」の意味がここでは生きてくるとおもうのだが。

つまり、ブルームは、父親が自分に向かって語りかける内容が、かつて父親が生きていたころ、いつも自分に向かって話してくれたモーゼンタールの劇「リア」の1場面、――すなわち、老いた盲目のアブラハムが、息子ナータンの声を聞き分けて、顔を指でさぐりながらナータンに語りかけていたシーンと同じであることをおもい出している場面である。

したがって「All that’s left of him」は、具体的にはモーゼンタールの作中人物のナータンであり、ブルームは自分をナータンにたとえた会話になっているわけである。

その部分を伊藤整訳では、「多分そうでしょう、お父さん。モオゼンタールだ。あの人が残して行ったものはただそれだけだ」となっている。妙な訳だ。英語では、3人称を使って自分について言及する方法がよく用いられる。シェイクスピアにはこうした表現が多い。

おもいついた例をあげると、

 

「Is that Mr Tanaka?(あちらに見えるのは、田中さんの?)」

「Yes, a piece of him.(そう、家族です)」

という具合に。

 

ところが「him」をレオポルドとすると、モーゼンタールの意味がどこかに吹っ飛んでしまう。Salomon Hermann Mosenthal(1821‐1877年)はオーストリアの劇作家。反ユダヤ主義にたいする批判をテーマにしたDeborahがその代表作で、それを英訳したのが「見捨てられたリア(Leah the Forsaken)」である。訳文の注釈には、「ナータン」の作者だと解説されているが、実際には「ナータン」は、この作品の登場人物である。

ダブリン市の劇場(Gaiety Theater)では、1904年6月16日(「ユリシーズ」に描かれた日)に、この「Leah」が上演されたらしい。

そのことをいっているらしい。

落ちぶれたナータンの姿をおもい出し、「ぼくは、ナータンの今日の姿です」とレオポルドはつぶやく……。そういうシーンだ。「Leah tonight」「I was at Leah」は、このモーゼンタール作の「Leah the Forsaken」を指しているわけなのに、なぜか、翻訳者は、シェイクスピアの「King Lear」と勘違いしているみたいだ。「ユリシーズ」にはたびたび「リア」が登場するが、決してシェイクスピアの「リア王」ではない。だいいち、綴りが違っている。

――「ユリシーズ」の大事なところが、とんちんかんな訳文になっている。ぼくが勝手に訳すとすれば、こうなりそうだ。

 

(慎重に考えながら)はい、レオポルドです、お父さん。モーゼンタールを思い出します。ぼくは、あの落ちぶれたナータンの今日の姿ですよ。

 

原文には「ナータン」ということばはないけれど、そうすることによって、やや説明的ではあるけれど、原文の意味と、ニュアンスが出せるような気がして。しかし、いい原文だ。会話っていうのは、文章のようにちゃんとしたものじゃなくて、こんな、とぎれとぎれの、なぞなぞみたいなものじゃないかとおもう。会話の当事者なら、これでじゅうぶん。

 

Nothung!

よしてくれ(ナッサング!) (ぶらさがるな! とも読める

 

という訳になっている。――さて、この「Nothung!」は、もちろん英語辞典には載っていない。なぜなら、ドイツ語だからだ。ドイツ語にしても、このような訳語は存在しない。なぜなら、固有名詞だからだ。丸谷氏はどこから訳語を見つけてきたのだろうか。じつにおもしろい。丸谷氏訳では固有名詞の訳文の誤訳が目につく。ぼくは自称クラシック音楽ファンなので、ワーグナーの曲はたいがいは聴いている。

なかでも「ニューベルングの指輪」は有名なオペラで、この「ノートウインク」ということばはオペラファンならずとも、だれもが知っていることばであろう。――「ナッサング」ではないのだ。

「よしてくれ!」とは、それこそ、よしてくれといいたくなる。

ここまでくれば好きなオペラの話を少し書く。――ぼくはむかし、クラシック音楽を好んで聴いてきた。「ニューベルングの指輪」は俗にワーグナーの「指輪」として親しまれており、その第1夜のワレキュール宮殿において、大神ウォータンは、崩壊しつつある世界を救済するため、ひとりの英雄を創造する。

英雄は地上に降りて人間の女とのあいだにジークムントとジークリンデという双子の兄妹をもうける。やがて兄妹は離ればなれになり、シークリンデはフンディングという荒くれ男に力づくで妻にされる。

時がながれて、フンディングの家に流浪のジークムントが訪れ、ジークリンデと恋に落ち、身の上話をするうちにふたりが兄妹であることを知る。ジークムントは、大神ウォータンがトネリコの巨木に突き刺しておいた霊剣を引き抜き、

「Nothung! Nothung!  so nenn ich dich, Schwert.ノートウンク! ノートウンク! 剣よ、わたしはあなたをそう命名する」と叫び、この剣をもってフンディングと戦う。

ウォータンの妻フリッカは、夫の不貞から生まれたジークムントを罰すべしと主張。ウォータンは、わが子ジークムントを勝たせたいと願うけれど、フリッカの要求に屈して、ジークムントの剣を砕き、ジークムントはフンディングに殺されてしまう。ジークムントの子、ジークフリートが霊剣「ノートウンク」の破片から元どおりの名剣を鍛えあげ、やがて、さすらい人の姿に窶(やつ)したウォータンと出会う。ジークフリートは剣を抜いてその槍を打ち砕く。

悔悛をもとめる母親の亡霊に向かって、Nothung!と叫ぶ。

トネリコのステッキでシャンデリアを叩き壊したのは、父と離ればなれになったジークムントであり、その彼が同時に人間の世界を支配するウォータンの槍を打ち砕くジークフリートでもある。オペラの最後では一人二役というか、二重人格者として登場する。

この「Nothung!」は、「ノートウンクの霊剣」または「霊剣」という意味があるわけで、固有名詞「霊剣」なわけだ。

訳文に、「ぶらさがるな! とも読める」と注釈しているところを見ると、これを英語読みにしてnot-hungと解釈したのかも知れない。たぶんそうだろう。ここは絞首刑の幻想場面に書かれているくだりだから、「ぶらさがるな!」とすれば、絞首台の上から吊り下ろされているロープに「ぶらさがる」という意味にもなって、ここでは別のおもしろさがある。だが、ほんとうは、オペラからとってきた霊剣なのだ。――したがって、ジークムントの剣であり、その子、ジークフリートの剣でもあるという二重写しに入魂した剣ともとれる。

「ユリシーズ」クラスの言文ともなれば、原文そのものが、特異なものだけに、ほとんどは原作者ジョイスに帰してしまい、これを母国語でない人が読むとなると、かなりしんどい。