ーツについて

 

今朝、新聞を読みながら、ぼくは学生時代に教えられた吉田義雄氏のことを想い出した。

ぼくはもう80を過ぎたので、この先、スーツをつくることもないだろうと考えている。

はじめてスーツをつくった銀座時代のことを想い出した。いまも、街に出かけると、用もないのにスーツ売り場にしぜんと足が向く。

コーヒー店、――たとえば草加のコーヒー店「コロラド」に行くと、男のファッション雑誌などを読みたくなる。気ままに見ているだけで、気分がいい。

さいきん、若い人とおしゃべりしていて、

「そうですね、どういえばいいか、ちょっと呻吟しますね」といったら、

「しんぎんって、何ですか?」ときかれた。

「呻吟」もそうなら、「難儀」、「晦渋」、「顰蹙」、「韜晦」なんていうのもダメですという。最後に「微衷(びちゅう)」を察してほしいというと、それは何ですかときた。

吉田松陰は、後人の者たちに、「微衷を継いでくれ」といった。「その微衷ですよ!」なんていってもぜんぜん通じない。

「忖度」も通じないかとおもったら、それだけは、ちゃんと通じた。これはテレビのおかげかもしれない。――だが、若者をバカにしちゃいけない。彼は東京大学法学部2年なのだ。

じぶんもかつて、そういう時代があったのだから。

 

 

2019年、秋ごろのじぶん。77歳のころ。

 

ぼくは東大法学部を出られた吉田義雄氏の薫陶をうけた。

「いいか、フランス料理というものは、食べるより、マナーだ! それをこれからきみたちに教える」

そういって、学生たち20数名を、学士会館に連れていってくれたのである。

千代田区神田錦町にある学士会館は、もともと東京大学発祥の地だったのである。

ムニュ (menu)を見た学生はびっくりしただろう。日本語はなくて、ぜんぶフランス語で書かれているからだ。フランス語のムニュは、メニューではない。コース料理を指している。

フランス語のメニューは、une carte(ユヌ カ (ル)トゥ)という。吉田義雄さんはそういったにちがいない。

「くわしいことは、田中くんにきけ!」といわれた。

仏文専攻はじぶんだけだった。

ヨーロッパの紳士道は、スーツにもあらわれている。ぼくがはじめてスーツを買ったのは、大学生のときだった。アルバイト先の社長のすすめで買った。

社長は、吉田義雄さんという人で、東京大学法学部を出られ、朝日新聞東京本社に勤務されていた方だ。病気をなさってからは、東銀座一丁目の朝日新聞尾張町専売所を経営され、ぼくら学生たちは、吉田さんの指導を受けて勉学に励んだ。

東京オリンピックを数年後に控えた昭和37年から、ぼくはお世話になった。毎朝、新聞を配達していた。何も知らないぼくらは、吉田さんや先輩たちの指導で、ビジネスマンの心得をいろいろと教わった。吉田さんはダンディな方で、柔道5段。

それはともかく、ぼくは吉田さんから、スーツの着こなしについて教わった。着こなしといっても、スーツなるものの本来の目的というのか、「おしゃれ」というほどの生易しい話ではなかった。

そういう話を、いま聴こうにも、だれもいってくれない。

吉田さんの説によれば、スーツは、自分のためにつくるものではないというお説だった。たいていのおしゃれは、自分のためにするものと相場が決まっているようだが、それは間違いであるという話だった。会う相手に合わせるものであると力説された。

そこで教わった話を、いま少し想い出して書いてみたい。

後年ぼくが、男性ファッションに関わりを持ったのも、何かの縁かも知れない。まず、紳士服発祥の地といえば、なんといってもナポリである。

イタリア南部の都市ナポリ公国は、豊かな農場に恵まれ、ローマやフィレンツェのように、戦争に明け暮れすることもめったにない平和な都市だった。

内陸は豊かな農場に恵まれていたので、欲張って港をつくることもせず、農場から獲れる穀物で国はじゅうぶんに潤っていた。

そういう国だから、ナポリ公国の歴代の王は、庶民との謁見に多忙をきわめ、庶民は、死ぬまでに一度は、自分が仕える王に会ってから死にたいと願う。そこで生まれたのが、庶民のための仕立て屋(テーラー)だった。

テーラーといえば、多くは王や貴族のためと相場が決まっているわけだが、ナポリは違う。庶民が王の前に出るためには、それなりにちゃんとした服を仕立てるわけである。

当時、テーラーは店を持っていなかった。医者とおなじで、患者の家を訪れて採寸し、仕上げていく。

そこはお寺の檀家みたいなもので、一度なじみになると、テーラーを変えたりしない。ある家系の歴代の当主は、えんえんと決まったテーラーにオーダーする。こうして、ナポリのテーラーは、国中の当主の依頼に奔走することになり、紳士服はますます磨きがかけられる。

これがある日、ロンドンのサヴィルローファッションとなり、紳士服の聖地となる。だから紳士服は、もともとはナポリが最初だったわけである。

女性服はヴェネチア共和国。ヴェネチア・ファッションは15世紀からあった。彼女たちはハイヒールというものを考案した。紳士服には、大別して、ナポリとサヴィルローというふたつの系統があることがわかる。どちらがいいかは、考え方ひとつで決まる。

ロンドンのサヴィルロー仕立ての服の最大の特長は、立ち姿が男らしいこと。凛々しくて、英国王室のチャールズ皇太子のスーツ姿を思い起こしてもらえばイメージできるだろう。

ボーラーハットをかぶり、背筋をピーンと伸ばして胸を張って歩く。

それが、英国紳士がもつサヴィルロー仕立ての服の特長といえるだろう。それと、王室、貴族のために発展していった紳士服という概念があり、社交場を舞台にした見栄えのする服づくりを行なった。

いっぽう、ナポリのほうは、最初はおなじだったのに、だんだんと変わっていった。紳士服に軽快さと、機能のよさ、身軽さを取り入れるようになった。

このふたつの違いは、かんたんに見分けることができる。

電車のつり革を握ったとき、上着が持ち上がるのがサヴィルローの服である。持ち上がらないのがナポリの服だ。

現在のスーツのなかで、ナポリの影響を受けないスーツはないといわれるほど、ナポリの紳士服は世界的なスタンダードになった。

からだのラインに沿ったシルエットをつくるために、余分な生地やパッドは使わないという。そのために軽い。何かにつかまったり、物を拾ったりするとき、ナポリの服は驚くほど動きやすい。

日本に定着したイタリア服のほとんどは、こうしたナポリの紳士服だ。

ぼくは30年ほど前からイタリア製の服を愛用してきた。

それに、ひとつ付け足せば、ナポリの服の上着の脇ポケットは、しつけ糸で閉じられている。間違ってポケットに物を入れてしまうことのないようにというわけである。

ポケットなのに、物をいれちゃダメというのである。理由はシルエットが崩れるから、といわれている。ぼくは上着の脇ポケットに物を入れることをしない。サヴィルロー仕立ての服にはそれはない。

さて、いよいよ話の本題に入る。

スーツは、相手に合わせて着用する、という話だけれど、そもそもロンドンのサヴィルローも、ナポリも、紳士服の原点は、謁見する相手に敬意を表するところからつくられるようになったということである。そういう意味からいえば、どちらも派手さがなくて、保守的な服になっている。装うことについて大人である条件の最大のものは、相手にたいする敬意を最大限に発揮することだった。

むかしは、自分の寸法に合ったスーツやワイシャツを無理をしてでもつくり、それをもって一張羅としてきた。

大事な会合の席や、目上の人に会うときなど、かならずそれを着ていった。けっして見栄や気取りではない。祖父や父の時代には、だれかのために装うのがあたりまえだった。それは、相手にたいする《敬意》から出たこと、といえる。

吉田義雄さんは、そういったのだ。この年になって、やっとわかった気がする。

タキシードというのは、なぜ黒と白の装いなのか、考えてみたことがあるだろうか?

ある人は、いっている。――晩餐会の大広間で、黒と白の紳士たちが集うなか、目が覚めるような赤やグリーンといったイブニングドレスを着こんだご婦人たちが入場してくる。すると、どうだろう。

ふしぎな色のコントラストが生まれるのだ。男性服は、女性たちのドレスを、より美しくするためにつくられていることがわかる。――この話は、服飾評論家の出石尚三さんの本で学んだ。

1970年代ごろから、アメリカ文化が大量に入ってきて、ジーンズやTシャツ、スニーカーといったカジュアルなものがハバを利かせ、日本人の装いの基本が180度転換したように見える。

だが、これは自分のための装いであって、相手のための装いではないので、紳士服の基本は、いまも変わっていない。ファッションの原点は、《敬意》を表する装い、ということのようだ。きょうは、そんなことを考えた。