川啄木の、ああ「しき玩具」

石川啄木

 

啄木について書く機会があれば、いつでも書けそうな気がする。

石川啄木ってやつは、たしかに天才だ、とおもう。

15歳にして歌を詠んでいる。19歳で結婚し、27歳で亡くなっているのだから、わずか10年間であれだけの作品を世に問うているのだ。

――石川啄木の生きた時代、明治期は、疾風怒濤の時代といっていいだろう。そういうじぶんは、15歳で啄木に触れ、いま82になろうとしている。啄木より50年も長く生きている。依然としてぼくの胸中に啄木がいる。

東京都の人口が300万人の時代に、わが国の近代文学が誕生した。文学は人口とは無関係だとおもっていた。当時の小樽の人口はわずか数万人だろう。そんななか、石川啄木、野口雨情というふたりの詩人があらわれた。

 

 

 

 

それより前に、札幌農学校で新渡戸稲造、内村鑑三、徳富蘇峰、有島武郎らを生んでいる。わが国の近代文学史の第一ページに、彼らがいたのだ。

彼らのこころざしの高さを知り、胸を打たれる。啄木の歌には、北海道を歌ったものが多い。彼の漂泊の人生は北海道からはじまった。じぶんは、北海道に生まれ、こうした歌を読んで、はじめて詩のおもしろさ、詩の悲しさを知った。

 

 真夜中の

 倶知安駅に下りゆきし

 女の鬢(びん)の古き疵(きず)あと。

 

 アカシヤの街樾(なみき)のポプラに

 秋の風

 吹くがかなしと日記に残れり。

 

 石狩の美国といへる停車場の

 柵に乾してありし

 赤き布片(きれ)かな。

 (石川啄木歌集」より

 

 

 石川一(はじめ)が盛岡中学校の5年生のとき、代数で落第点をとった。それに憤慨して彼は上京した。明治35年11月1日、数え年17歳だった。

 

 

 

 

上京してから彼は、当時東京市外の渋谷村にあった新詩社をたずねた。与謝野寛(鉄幹)と晶子に会い、東京であらためて中学校へ入学したいと漏らした。大橋図書館でイプセンの「ジョン・ガブリュエル・ボルクマン」の英訳本を読み、そこに載っている「死せる人」という詩を翻訳して、学資を得ようと考えた。

しかし、翻訳の実力のないことがわかり、完成することなく断念した。

いよいよ金がなくなり、下宿を追い出され、友人の下宿にもぐりこんだ。

そこで病気になり、それまで音信不通だった父あてに、助けを求める手紙を書いた。上京して4ヶ月たった明治36年2月のことだった。

父石川一禎は、盛岡に近い岩手郡渋民村で曹洞宗の寶徳寺の住職をしていた。なにぶん寒村のことで収入も少なく、寺は朽ち果て、台所は火の車だった。しかしたったひとりの息子が病気になったというので、寺の地所にある杉の木を売って金策し、息子を迎えるために上京した。

来てみると、一(はじめ)の神経が極度に衰弱し、胃も悪くし、心臓もよくないことがわかった。石川一禎は5円札を出すと、女中が銀貨銅貨をまぜたつり銭を持ってきた。父はそれを受け取ろうとすると、とつぜん一は横あいから、

「うん、これはおまえにやる!」といって、女中のほうへ押しやった。

当時、食事つきの下宿代は1ヶ月8円から9円くらいだったから、女中への心づけとしては、途方もない金額である。

女中はよろこんで礼をいったので、石川一禎は当惑した。

一はそうして故郷へ帰った。

そのころ、雑誌「太陽」に、高山樗牛の「姉崎嘲風に与ふる書」が載った。

それは明治34年5月に出た雑誌で、嘲風のニーチェにかんする文章を読んで、一は刺激を受けた。

そしてニーチェの友人で、のちに論敵となる音楽家のリヒャルト・ワーグナーの思想にのめりこんだ。「絶対の愛」というものに自己と他者の融合の道を発見できるのだという考え方に共鳴した。

このとき一は、盛岡中学校時代に、ひとつ上の先輩だった野村長一に手紙を書いた。一は、東京滞在中、暮らしに困ってたびたび野村を訪ねて、金を借りていた。

そのときの手紙が残っている。

「広範な同情、根本の愛によって《自己》に何物たるかを発揮するにおいて、世の賞賛誹謗はなにほどの注意に値するであろう。最も自己の本性に忠実なる人は、やがて他の人に忠実なる人ではないか。利己主義と個人主義とは雲泥の差である。真に自己を愛するものは、また他の者を一汎に愛すべき者である。云々」と書かれている。野村長一――のちの作家、作曲家となる野村胡堂は数え年22歳だった。

彼が郷里で療養生活をしているとき、蒲原有明の第2詩集「獨弦哀歌」が出版された。蒲原有明はこのとき数え年で28歳になっていた。

ダンテ、ガブリエル・ロゼッティの詩の影響を受けたソネット形式で、石川一はこの詩集の魅力に取り憑かれていた。彼はそれまで「白蘋(はくひん)」という号で歌をつくって「明星」へ送っていた。

この年の7月から正式に新詩社の同人に加えられていたが、このときから一は、短歌ではなくて詩を書くようになっていた。14行詩のソネット形式で書いた。

このとき彼は、数え年18歳だったが、異常なほど技巧をこらした出来になっている。そのうち、「啄木鳥(きつつき)」と題された詩は高く評価された。

 与謝野寛(鉄幹)は、その詩を読んで、石川一に、蒲原有明のものより君の詩形のほうが有望だと思うといった。君は、歌より、詩のほうがいいようだといい、つづけるようにとアドバイスをしている。

「……しかし、白蘋(はくひん)という号はさびしいから、別の号にしたらいいだろう」ともいった。これ以降、石川一は、「啄木」と号するようになった。

新詩社では、ちょうど7人の連袂退社事件があり、社の中はもぬけの殻だった。去ったのは北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇らで、残っていたのは平野万里、茅野蕭々だった。

だから啄木が北海道から戻ってきたとき、失意に打ちのめされていた与謝野夫妻はとても喜んだ。

だが、そのときは啄木はもう与謝野夫妻から離れていた。そして啄木の日記にはこう書かれた。

「与謝野氏は既に老いたのか? 予は唯悲しかった」と。

明治41年4月28日のことである。ライバルとして啄木が意識したのは、吉井勇、平野万里、北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)の4人だった。

明治36年の暮れ、同人の山川登美子から彼のところに一冊の薄っぺらい英詩集が送られてきた。野口米次郎がロンドンで発行した「From the Eastern Sea」と題された詩集だった。

そのときまで、ぼくはこの野口米次郎という詩人がどういう人か知らなかった。野口米次郎なる詩人の英詩を読んだのは、ずいぶんたってからだった。

彼の詩は欧米人のあいだでも人気があったという。

彼は数え年29歳になっていて、啄木は、さっそく詩の批評文を書いて「岩手日報」に送った。

翌年の元旦号に掲載された。それには、「東洋的香気を欧米の空気に放散するの偉観」と書き、「優秀なるわが民族の世界における精神的勝利の第一階梯」であると評した。

啄木にとっては、英語を鑑賞できるほど語学を身につけていたとはおもえないが、蒲原有明の詩といい、何か新鮮で、目新しさがあって、ソネットという14行詩の魅力を感じ取るほどの詩才の持ち主であったことは疑えない。

啄木は、野口米次郎に手紙を書き、じぶんも渡米したいと書いた。啄木は詩に自信を持ちはじめた。

このとき、東京帝国大学で教鞭をとっていた姉崎嘲風が盛岡にやってきたことを知り、会いに出かけた。すると、姉崎嘲風はあたたかく彼を迎え入れ、ワーグナーの傑作は、スイスの大自然に耳を傾けた結果、あのような傑作が生まれたのだといった。

そこを出ると、啄木は、盛岡の堀合節子に会った。啄木の意中の女性だった。

啄木は14歳の中学生時代から彼女に愛情を感じるようになっていた。彼女の父親は官吏をしていて、この恋愛に反対していたが、盛岡に出ると、きまって節子を呼び出し、その日、はじめて彼の胸のうちを打ち明けた。啄木の姉さだの夫である田村叶は盛岡に住んでおり、彼のはからいで、ようやく節子との婚約がととのった。

節子は明治35年の春、ミッションスクール系の私立盛岡女学校を卒業していた。

仙台の第二高等学校には先輩の金田一京助が通っていた。彼は数え年21歳だった。啄木が盛岡中学へ入学したとき、金田一京助は3年生だった。

啄木は金田一から「明星」を借りて読んでいた。

明治37年、島崎藤村が「破戒」を出版したとき、金田一京助は第二高等学校を卒業し、東京帝国大学の文科大学言語学科へすすむことになっていた。金田一は、ちょうど盛岡の実家に帰っていた。そのとき、啄木がぶらりと遊びにやってきたのである。

「なかなかいい詩が載っているよ」といって、金田一は、啄木に「明星」を見せた。

「これは、ぼくですよ」といった。

その号には「啄木」と号した詩が載っていた。

それを彼とは知らずに褒めたのだ。金田一は「あっ」とおもったが、すぐにそれを理解した。ロゼッティの訳詩も載っていた。上田敏の訳だった。その日は、遅くまで話し込んだ。じぶんもやがて上京すると啄木はいった。

ある日、金田一京助の家に、女性がふたりやってきた。

「金田一さま、わたしたちに、英語を教えていただけないでしょうか?」という。金田一はとまどったが、9月の上京するときまで教えることにした。

英語の話以外はなにも話さなかったので、彼女たちの名前も知らなかった。10月、彼は上京し、本郷の湯島新花町の下宿に落ち着いた。その10月の末ごろ、また啄木があらわれた。

さっそく彼を追うようにして上京してきたのだった。

「このあいだ、金田一さんのところへ、英語を習いにやってきた女性がいたでしょう。あれは、実は、わたしの、……」といったので、それが、啄木の妻となる人だったことがわかった。

「ほう。ふたりのうち、どっちなの?」ときいた。

「丸顔のほう」といった。

このとき啄木はまだ19歳だったが、そんな少年とはおもわれないりっぱな服装をしている。黒の5つ紋の羽織に、仙台平の袴を穿き、南部桐の真新しいステッキなんか持って、上等のキセルをくゆらせているじゃないか。

東京の詩壇には、かっこうのいでたちで、天才啄木という前評判どおりの身なりをしている。啄木は雑誌「明星」を通して、その天才ぶりを見せつけていた。与謝野寛のまわりには、文学仲間たちがいろいろやってきた。森田草平などもいた。

だが、啄木は寡黙にしていた。

岩手なまりが気になっていたようだった。寛は、与謝野鉄幹と号し、彼は数え年32歳、晶子は27歳だった。子供が3人いた。子供が泣くと、うるさかった。

晶子は赤ん坊におっぱいを飲ませる。

それをちらっとのぞき見る啄木だったが、自分もやがて子供をつくることになるだろうと密かに考えていた。しかし、啄木は、世間の子供にはほとんど興味を示さなかった。彼の歌には子供の姿は出てこない。

「明星」は100号をもって廃刊して、「スバル」を出そうというプランが立てられたとき、万里、勇、啄木の3人はまたあつまった。明治43年3月3日、啄木は宮崎郁雨あてに書かれた書簡が残っている。平野は、スバルをじぶんの雑誌にしようとしている、と書いてある。

「この人(平野万里)には文学はわからぬ。人生もわからぬ」と書いた(日記、明治42年1月3日)。

平野万里は、大正10年(1921年)第2次「明星」創刊に加わってから、与謝野夫妻が没するまで与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻と相伴うようにして協力し、同行して作品を発表している。大正12年、「鴎外全集」の編集も務めている。大正5年に、「漱石全集」の中心的な編集を務めた森田草平と双璧をなす。

話はもどるが、啄木は天才として通っていたけれど、収入はそれに見合うものでは決してなかった。彼はほどなくして牛込区の井田というところにある下宿に引っ越した。雑誌「太陽」に原稿を送り、原稿料20円が手に入った。

しかし、そのほとんどを親に仕送りし、一ヵ月後、金田一京助は啄木の部屋に行った。

すると、彼は寝ていた。ひどい生活をしていた。着るものは何もなかった。ただの一張羅だけがあった。それを来て寝込んでいた。

金がなくて、クスリも買えないという。

「早稲田大学の設立者の大隈重信に会いたい。会ってもいいといってきているが、金がなくて、……」といっている。会いに出かける電車賃もないというのである。金田一は持参していた3円を渡して帰ってきた。そのころ、郷里の渋民村では大問題が起こっていた。

父石川一禎は、本山へ納める納金を怠ったかどで、明治37年12月26日付で住職の地位を追われていた。わがままいっぱいの啄木のために生活費を工面する過程で、寺の納金に手をつけたため、一家離散となる。

さらに啄木から金田一京助に、15円を貸してくれと手紙でいってきた。彼は郷里の母親に相談し、父親から啄木に15円を送金。しかし、石川啄木はいくら借金しても、概して人から嫌われたり、恨まれることはなかった。お金を借りる名人とまでいわれたが、古い友人らは、金のことで、だんだんと疎遠になり、ある者は、啄木を嫌った。

啄木は啄木で、金を借りた友人から絶交宣言を受けたため、じぶんこそ、絶交する! という手紙を送り付けたりした。

昭和29年に完結した岩波書店版の「石川啄木全集」は、全16巻である。そのうちの2巻は手紙類で、全部で430通を超えている。

啄木はよく手紙を書いたが、日記もよく書いた。それらは、発表されることを前提に書かなかったものだが、啄木はみずからの手で日記を焼却することができず、妻節子にその処置を託した。妻もまた、焼き捨てることなく、大事に管理してきたため、膨大な日記と手紙が残されたのだった。

膨大な啄木の日記と、「ローマ字日記」は、啄木研究の中心をなすもので、後年、コロンビア大学のドナルド・キーン氏による「石川啄木」(角地幸男訳、新潮社、2016年)、その他に結実して話題となった。

――こうして、啄木の産みの苦しみともいえる実生活をのぞくと、文学という燃えるような高潔なこころざしの高さと、その悲惨な実生活は、啄木をただの天才にしてはおかなかった。これ以上ないほどの辛酸と塗炭の苦しみを与えたのである。

そういうなかで、詩作に没頭していった啄木の心情をおもうことで、啄木のほんとうの詩がわかるような気がする。そして、ふと、ある話が脳裏に浮かんできた。

森鴎外が啄木の「あこがれ」について、

「有明は泣菫に勝り、啄木は有明に勝る」といったというのは、もしかしたら、ほんとうだったかもしれないと。

このことばは、啄木研究家の吉田孤羊に伝わった話として文学史的によく聴く。1首を3行書きにして歌集名を「一握の砂」にしたのは、明治43年10月4日から9日のあいだ、ということになっている。

そこには、まだまだ明星調の歌の雰囲気が残っている。

たとえば――

 

 「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず」とか、

 「頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しし人を忘れず」とか。

それが「悲しき玩具」になると、――

 

  名は何と言ひけむ。

 姓は鈴木なりき。

 今はどうして何処にゐるらむ。

 (石川啄木「悲しき玩具」

 

 呼吸すれば

 胸の中にて鳴る音あり。

 凩(こがらし)よりもさびしきその音!

 (石川啄木「悲しき玩具」

 

とうたわれる。

そのころ、啄木は東京朝日新聞社に雇われていた。「歌のいろいろ」と題する随想のなかで、ある投稿者の歌の批評文が載った。

 

 焼あとの煉瓦の上に

 Syobenをすればしみじみ

 秋の気がする

 

という歌で、啄木がつくった「朝日歌壇」の入選作である。

それにはこう書かれている。

「好い歌だと私は思つた」と書かれ、「この歌をののしっている人は、屹度(きつと)歌といふものについてある狭い既成概念を有している人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時とはなく歌はこういふもの、かくあるべきものといふ保守的な概念を形成してそれに捉はれてゐる人に違ひない」といっている。

これらの歌は、その瞬間に歌に定着させたものだと啄木はいいたかったのかもしれない。隠微な心の真実を、31文字にまとめられた啄木はさらに書く。

「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秋だ。おれはその一秋がいとしい。ただ逃してやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌を作る」といい、それが啄木の最後に到達した彼の詩観であったのかもしれない。