第2章「ライ麦畑でつかまえて」を読もう。――

生はームなんかじゃない!

 

高橋真梨子さんが歌う「涙もろいペギー」

 

 

過去と時間。――「ぼくが死んだように聞こえる」?

つぎに、その話をします。

「人生はゲームか?」という問いにたいしてホールデンは、そのまえに、ハナから弱いチームにいるだけではゲームになんかならない、そんなゲームはまっぴらだ、という考えが前段で述べられていました。

だとすると、ホールデンの考えとして、そんな人生なんかまっぴらだ、とも読めるわけで、その時点からホールデンは、ゲームである人生に参加しないで、フィールドの端っこでキャッチャーをやるしかない、そうおもいはじめたっていうわけです。それはまさに「ゲーム=人生」の崖っぷちに立つことを意味するのでしょうか。

まさに人生からはみ出した死者、弟のアリーとおなじ位置に立つことを意味するでしょう。人生に参加しなければ死んでしまう。いまとなっては当たりまえの、そんなことを、この小説の早い段階ですかさず予告している会話があります。――ホールデンと、スペンサー先生との会話――を、まずここでくわしく振り返ってみたいとおもいます。フットボールの試合から抜け出して、先生と「人生はゲームだ」という会話を交わしたのちのことです。

 

「君は自分の将来をぜんぜん案じたりしないのかね、あーむ?」

「いいえ、もちろん自分の将来について案じたりします。ええ、その、もちろん」、僕はそれらについてちょっとだけ考えてみた。

「でもそんなに深くじゃないです。あまり案じることはないと思います」

「そのうちにいろいろ案ずるようになる」とスペンサー先生は言った。「いずれそのうちにな、あーむ。でもそのときにはもう手遅れになっておる」

僕としては先生がそんなことを口にするのを聞きたくなかった。まるで僕がすでに死んでしまったみたいな言い方じゃないか。

'Do you feel absolutely no concern for your future, boy?’

‘Oh, I feel some concern for my future, all right. Sure. Sure, I do.’ I thought about it for a minute. ‘But not too much, I guess. Not too much, I guess.’

‘you will,’ old Spencer said. ‘You will, boy. You will when it’s too late.’

I didn’t like hearing him say that. It made me sound dead or something.

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

 

 

サリンジャー、村上春樹訳「The Catcher in the Rye」

 

スペンサー先生のことばが「まるでぼくが死んだみたい」にひびいたとしても、彼にとってはふしぎでもなんでもない。

ただここで気をつけたいのは、「手遅れになる」という死の予感が、未来への無関心から生じている点です。将来にたいする関心はうすく、「あまり案じることはないと思います」といっている点です。

これは、死の問題が、時間の問題から考えられることを、かすかに予告しているようにも読めます。「遅すぎる、手遅れになるYou will when it’s too late.」という部分です。

ホールデンはすでに「手遅れになって」いることを暗示しています。

ではいったい、未来にたいするこの自信なげなホールデンの態度、彼の書いた1枚の「歴史」の答案に、どのように現われていたのでしょうか。そこを確認してみます。

スペンサー先生はホールデンの歴史の答案を読み上げます。これは表向きには、ホールデンがなぜ落第したかを示す役割を持つ重要な部分で、できのよくない答案です。

 

エジプト人は、さまざまな理由で、今日のわれわれにとり、きわめて興味深い存在である。エジプト人が、死者の顔を幾世紀もの間、腐敗しないようにするために、どんな秘密の材料を用いて包んだのか、現代科学でも、なお知りたく思うであろう。この興味ある謎は、二十世紀の今日もなお、まさに現代科学にとってたいへんな課題である。

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

まあ、いっているように話の内容はごりっぱで、16歳の少年にしたら、ぎょっとするような答案に見えます。

先生がこの答案を読み上げたことで、ホールデンは、先生を「ぜったい許さない!」と猛烈に怒るのだけれど、その怒りに気をとられて読むと、答案内容の重大さをつい、見過ごしてしまうかもしれません。

この答案は、そもそも「選択論述式の問題」になっていて、つまり、ほかにも選択肢があったわけです。であったにもかかわらず、ホールデンはわざわざ「エジプトのミイラ」の話題を選んでしまった。

そのミイラとは、ひとりの死者です。そのうえ、死んだ人間でありながら、時のながれに朽ち果てて消え去ってしまうのではなく、手で触れることもできれば、形を見ることもでき、目でたしかめることもできる、死んだにもかかわらず、たしかに存在しているミイラのことです。――ふつうまずありえない死者です。

もしアリーにこだわっていたら、夢のようなミイラに関心を示しても、ふしぎでないかもしれません。つまり、さっきホールデンは先生に、未来にはあんまり関心がないといったばかりです。それとは反対にミイラには関心があるみたいに、書かれていることです。

いうまでもなくミイラは、まるで化石のように、過去に生きた者の存在の証です。未来には関心がないかわりに、過去には関心がある、そういっているみたいに見えます。こうして死者と過去が、小説のなかに導入されていきます。

で、小説も終わろうとするころ、第25章になってからですが、そこでミイラがふたたび登場します。妹のフィービーがくるのをメトロポリタン美術博物館で待っていると、ホールデンのところに、小さな男の子2人がやってきます。2人はいきなりミイラがどこにあるかと、ホールデンに尋ねます。それにたいしてホールデンは、ちょっとふざけてきき返します。

「ミイラだって? なんだい? それって」と、子どもたちにいうと、彼らは、答えます。

「知ってるだろ。ミイラだよ。死んだやつらさ。お墓んなかに埋められちゃってるやつらだよ」と。けっきょく、この子どもたちは、ホールデンの分身なのです。――ぼくにはそう見えます。この日は月曜日ですが、この子たちは学校をさぼっていたわけですから。

「なんで君たちは学校へ行ってないんだ?」ときくと、

「きょう、学校は休みなんだ」としゃべる子どもがいます。

「こいつは嘘をいっていることは間違いないけれど、小さな不良め」と彼はおもいます。ホールデンもおなじくこの日、学校をさぼっていたことを忘れてはいけないでしょう。しかも、子どもたちがミイラに関心を寄せているように、ホールデン自身も歴史の答案のなかでミイラについての関心を示し、それについて書いていたわけです。サリンジャーはここで、ホールデンの答案を読者におもい出させるよう、つぎのように書いています。

 

「エジプト人がどうやって死んだ人を埋めたか知ってる?」ぼくはひとりの子にきいた。

「ううん」

「それじゃ、知らなきゃいけないな。とってもおもしろいんだ。秘密の薬で細工した布でね、死んだ人間の顔を包んだんだ。そうしておけば、何千年も墓のなかに埋められても、顔が腐ったりなんかしないんだ。エジプト人以外、誰もそのやり方を知らないんだ。現代科学でもね」

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

このホールデンのことばは、さっきの歴史の答案のほとんど繰り返しになっています。

この答案はホールデンが放校になることを、ぼくらに納得させる役割があったのですから、いい換えれば、ミイラにこだわっていると学校から追い出されるということのようですから、やっぱりここでも学校をさぼっている子どもたちは、このミイラの話を聞かなければならないわけです。

過去に執着していると、学校社会からもはじき飛ばされてしまう。

そしてこの延長線上には、もちろん、死者に執着している彼が、この世からもはじき飛ばされてしまう。ライ麦畑のキャッチャー――外に立つ死者――になる道が、ずっとつづいているというわけです。

じっさい、そのすぐあとに、死者に向けられた関心が極度に大きくふくらんで、ホールデンはハイな気分になります。

「ぼくは墓のなかにたったひとり残されちゃった。ある意味で、なんかぼくは気に入っちゃった。すごくいい感じの平和な感じだった」とホールデンはおもいます。

じっさい、彼は墓のなかに入ってしまった感じになります。ホールデンにとってそれは恐怖ではなく、快感なのです。

ミイラに関心を寄せることで、死んだ人間に執着していきます。それはそのまま過去に執着することにもなります。だいいち、ホールデンがいる場所も、美術博物館であること。博物館とは、いうまでもなく、過去に存在した文化を保存しているところですから、過去から現在までの時間を堆積させている場所なわけです。そして、その博物館がじっさい、ホールデンは大好きだといっています。

ホールデンがそういっていた場所を振り返ってみますと、死者にこだわる人間は、同時に過去にもこだわり、時間の流れに逆らうように生きています。

 

 

村上春樹ライブラリー

 

講堂のなかに入るちょっと前、入口のすぐ手前に、ひとりのエスキモーがいる。氷結した湖に開けた穴にかがみ込むように座って、その穴から魚を釣っているんだ。穴のわきには二匹ばかり魚が置いてある。既に釣り上げたぶんだ。まったくの話、この博物館ときたらガラスケースだらけなんだよ。上の階にももっとたくさんある。溜まり水を飲もうとしている鹿とか、越冬するために南に飛んでいく鳥なんかがその中に入っている。手前の方にいる鳥たちは剥製(はくせい)にされたもので、上から針金で吊るされている。奥の方にいる鳥たちは壁にただ描かれたものだ。でも鳥たちはみんなほんとうに南に向かって飛んでいるみたいに見えるんだよ。そしてもし君がかがみこんで、逆さに見上げると、鳥たちは更に急いで南に向かっているように見えるんだ。

村上氏の訳文ではここで改行されています

でもね、この博物館のいちばんいいところは、なんといってもみんながそこにじっと留まっているということだ。誰も動こうとはしない。君はそこに何十万回も行く。でもエスキモーはいつだって二匹の魚を釣り上げたところだろうし、鳥たちはいつだって南に向かっているし、鹿たちはいつだって溜まりの水を飲んでいる。素敵な角、ほっそりしたかわいい脚も同じ。おっぱいを出したインディアン女はいつだって同じ毛布を織っている。みんなこれっぽっちも違わないんだ。

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

博物館のいちばんいいところは、すべてが停止しているところだといいます。時の流れに逆らうかのように、いろんなものが動かず、じっと一瞬のなかで停止している。水を飲みながら立ちつづけている死者たち。南に向かって飛びつづけている鳥、魚釣りをしているエキスモー、どれもこれもおなじ形で静止しています。

瞬間の風景が凍りついて、いつまでも変化することのない状態で保存されている場所、それが博物館というわけです。

ホールデンがいっている「博物館」というのは、この場合、アメリカ自然史博物館のことですが、けっきょく、メトロポリタン美術博物館でもおなじことで、そこには死んだ人間さえも、ミイラとして、時間の流れのなかで変化することなく保存されています。――いずれにせよ、博物館を経由することで、死者に執着することが、時間の停止につながり、過去の保存へと重なっていくことがわかります。

しかし、この小説が時間の問題を喚起させるのは、彼の弟アリーが死者となって執着するだけではない。忘れてならないのは、ホールデンには妹もいたということです。――ここまで弟の話だけをしてきましたが、つぎに、ホールデンの妹フィービーに焦点をあてて少し考えてみたいとおもいます。

おもしろいのは、ホールデンの年下の弟妹2人とも、本質的においてはおなじということで、けっきょく、フィービーを追跡してみても、ぼくらの行き着く先は、博物館みたいな、時間の停止している場所、ということになりそうです。

博物館と時間の停止。――つまり、過去にこだわるホールデンの謎は、ぼくには「The Catcher in the Rye」の主題と重なり、ホールデンの一連の奇妙な行動の背景になって見えます。

ですが、これだけでは、ぼくの疑問にたいする答えとしてご納得していただけないとおもわれるので、もう少し具体的に話を展開してみたいとおもいます。

――それは、音楽についてもおなじで、《レコード(record)》というものによって、音を、つまり、生きている人間たちの声を、円盤のなかに閉じこめてしまうことができるという発想です。Recordのことを、もともとのラテン語ではrecordariといい、「思い出す」という意味です。――つまりここでは音の博物館。「音の缶詰」といってもいいでしょう。メトロポリタン美術博物館とそれはまったくおなじことがいえるのではないかと。

1948年にサリンジャーが、「コスモポリタン」に発表した「ブルー・メロディー(Blue Melody)」という短編小説があります。幼なじみの男女ラドフォードとペギーの2人が、いっしょに遊んだ黒人歌手リーダ・ルイーズのおもい出の物語です。およそ15年まえの話をおもい出す物語として設定されています。

あるとき3人がピクニックに出かけます。

すると、その途中でとつぜんリーダ・ルイーズの盲腸が破裂してしまう。苦しむ彼女はドクターに診てもらうこともないまま死んでしまいます。葬式の翌日から15年のあいだ、ラドフォードとペギーは、会わずにいますが、あることから偶然2人は再会して、リーダ・ルイーズがペギーについて歌ったレコード「涙もろいペギー」のことを話しはじめます。この曲は、高橋真梨子さんも歌っていました。

 

「わたし(ペギー)、大学にいるあいだじゅう、あの人のレコードをかけてたわ。それから、ある日、酔っ払いがわたしの《涙もろいペギー》を踏んづけて壊しちゃったの。わたしひと晩じゅう泣いたわ。その後、ジャック・ティーガーデンのバンドにいた男の人にあったら、その人一枚もってたのよ。でも、どうしても売ったりなんかしてくれなかったの」……だいいち、彼(ラドフォード)は、一九四二年においては、誰のためだってそのレコードをかけることはけっしてしなかったのだ。それは今ではひどく擦り切れて、もうリーダ・ルイーズの声とも思われないくらいだったから。

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

このレコードは2つの点で重要です。――15年ぶりに再会した2人が話題にするこのレコードは、もう死んでしまったリーダ・ルイーズの声を保存しているわけですから、ひとまず博物館のミイラのように、死んだ人間の存在の証みたいな役割をもっている点です。

そのレコードが「ひどく擦り切れ」ていたのは、ラドフォードが、死んだリーダの声を何度も何度も聴こうとして、頻繁にかけていた証拠です。死んでしまって、もうこの世にはいなくなってしまったはずのリーダ・ルイーズの声が、レコードのなかにちゃんと生きたままの声で残っている。レコードをかければ、いつでも死者の声がよみがえってきます。

これは偶然ですが、日本語ではこの「レコード」を「再生する」というように、ふたたび生き返らせてくれるものという意味があります。ですから、このレコードは少なくとも声にかんして、死者を「再生する」道具だといえるわけです。

高橋真梨子さんの「涙もろいペギー」を聴いてみましょう。

 

 《あの子は名うての 泣き虫だから

 わたしの事は 言わないで

 どんな悲しみも 自分のことのように

 思って泣くの 涙もろいペギー》