第1章「ライ麦畑でつかまえて」を読もう。――

「なに、ィッツジェラルド?

 

映画「ライ麦畑でつかまえて」

 

こんばんは。今夜は冷たい風が吹いています。ビル風がつよく吹き、ヒューヒューという音がベランダのほうから聞こえています。そんな夜は、読書にかぎります。

やっぱり「ライ麦畑でつかまえて」が気になりますね。ぼくはそこで、ちょっと考えてみました。まず、シャーロック・ホームズはいいます。

「全体的な印象は気にせず、細部を考慮に入れるように、……」と。

ミステリーの謎を解くカギが細部にひそんでいることをワトソン君にいうセリフです。なるほど、彼は細部にこだわりつづけます。この方法をぼくもやってみたいと思ったわけです。で、60年まえ、北海道から上京した年に、この本と出会いました。で、いろいろ読んでみましたが失敗の連続でした。その例を見てみましょう。

ちょっと一読すれば、ぼくらがやるごくふつうの会話のように、とりたてて意味もなさそうに話しているホールデンと、ルームメイトのストラドレーター、そんなふたりに見えてしまう会話からはじまります。

好きな女の子の噂話をしているシーンです。――だれがタイプだの、だれがブタだのと盛り上がっておしゃべりするなかに、突如として出てくる女の子の名前です。作品には別段関係なさそうに見える女の子の名前。それこそ、ホームズが注目する「細部」の手がかりのひとつかもしれないと、ぼくは思ったわけです。
いみじくも、20歳の看護学校へ行っている女の子が、ぼくにしゃべってくれたヒントでした。

ホールデンの好きなその女の子の名前とは、「フィッツジェラルド」といいます。ひとりの女の子として、さり気なく出てきます。作者は「ライ麦畑でつかまえて」のなかに、ふしぎな感覚で登場させているのです。

その部分を野崎孝訳ではもう古いと思われるので、稚拙ですが、ぼくがちょっと試訳をしてみました。
 

「だれとデートしてんの。フィッツジェラルドか」ぼくはストラドレーターにきいた。

「まさか、違うって! いったろ、ブタとは終わりだって」

「ほんとかよ? じゃああの女、おれにくれよ。マジだって。おれのタイプなんだ」

「もってけよ。……彼女はおまえには年上すぎるけどな」

 (S・フィッツジェラルド「ライ麦畑でつかまえて」)

 

村上春樹さんによる新訳は、野崎孝訳とおなじ白水社から、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」というタイトルで出ました。それによると、この部分はこうなっています。
 

「今日のデートの相手は誰なんだ?」と僕は訊いた。「フィッツジェラルド?」

「よしてくれよ! あんなブス女とは手を切ったって言ったろうが」

「へえ、そうなんだ? じゃあ僕にまわしてくれよ。冗談抜きでさ。あの子は僕の好みなんだよ」

「お好きに……。あいつはお前より年上だけどな」

(サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」)


この部分は、「ペンギン・ブックス」版ではこうなっています。
 

 ‘Who’s your date?’ I asked him. ‘Fitzgerald?’
 ‘Hell, no! I told ya, I’m through with that pig.’

 ‘Yeah? Give her to me, boy. No kidding. She’s my type.’
 ‘Take her. . .She’s too old for you.’

 

村上春樹訳ではいい訳になっています。

でもこのふたつの訳文、ニュアンスがちょっと違っていますね。作者がここでいいたかったことは、原文を見ればわかるとおり、フィッツジェラルドっていう女の子は、「おまえには年上すぎる」という点でしょう。

こう読み流せば、たしかにこの引用は「ぼく」であるホールデンとストラドレーターがデートの相手について、おしゃべりしているだけのように見えます。しかし、星の数ほどある名前のなかで、どうして最高に有名な作家スコット・フィッツジェラルドとおなじ名前をサリンジャーは使っているのでしょうか。

これをふしぎに思わないわけにはいきません。

フィッツジェラルドといえば、どのくらい有名か、彼が書いた「グレイト・ギャッツビー」が日本では、整髪料の銘柄「ギャツビー」にもなっているくらいのビッグネームだからです。

このふたりは高校生で、女の子の話をしているのに、たとえばメアリーとかスーザンとか、中学の英語のテキストに出てきそうな典型的な女の子のファースト・ネームではなくて、名字を使っていることも胡散臭いと思わなければならないでしょう。

ふつうは、ファースト・ネームで呼ばれるものです。――ぼくの小説の例でいえば、田原金一郎は、「金一郎」と書かれるべきところです。

これをぼくは「田原」と書いていますが、そうしなければならない理由があったからです。で、名字ならば、女も男もない共通性があるからです。

ですから一見、女の子の話をしているように見せかけながら、じつは男のことを話しているということも、可能なわけです。女の子として登場したフィッツジェラルドは、ただの仮面で、作者サリンジャーは、その裏に作家のフィッツジェラルドを隠し持っていると想定してみます。

すると、ストラドレーター(フィッツジェラルド)が、「おまえには年上すぎる」といったことも納得がいくかもしれません。――なぜなら、じっさい、作家フィッツジェラルドが生きているのは1940年まででしょうから、ホールデンの「タイプ」なフィッツジェラルドというのは、取り返しのつかないほどずっと「年上すぎる」わけです。もう彼は死んでいるのですから。

つづけて「ライ麦畑でつかまえて」では、こういう文章がつづられています。
 

ぼくはリング・ラードナーと「グレイト・ギャッツビー」が好きだと兄にいったんだ。ほんと好きだった。「グレイト・ギャッツビー」に狂っていたし。ぼくのギャッツビー、やあ親友。もうやられちゃったけどな。

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

ホールデンは、「フィッツジェラルド」は、たんに好みだけでなく、「グレイト・ギャッツビー」にも狂っていたわけです。

ですから、さっきの女の子として登場したフィッツジェラルドは、やはり作家のフィッツジェラルドを指していると考えるのも、ムリなく理解できそうです。

そうなると、フィッツジェラルドは「ライ麦畑でつかまえて」のなかで、ものすごい影響力を持っていることになります。おそらく、そう断言していいとぼくは思います。

作家の名前とか、作品の名前とか、少し気をつけていけば、気づくようなあからさまなことだけじゃなく、そのうち「ライ麦畑でつかまえて」の物語がギャッツビーの物語にぐんぐん迫っていき、やがて重なっていくことがわかってきます。

「ライ麦畑でつかまえて」が終わりに近づいたころ、ホールデンのまえに「ファック・ユー」という落書きがたびたび現われます。

野崎孝訳ではちゃんと訳せなかったとみえて、「コーマン決めるぞ」、あるいは、1984年に「新しい世界の文学」(白水社)に収録した改訂ヴァージョンによれば(のちに「白水Uブックス叢書」版にもなります)、「オマンコショウ」などと訳されています。

いまでは時代がすすみ、ここは「ファック・ユー」だけでいいでしょう。村上春樹版でもそうなっています。

ファック・ユー(fuck you)には、「おまえを犯すぞ、やっつけるぞ、くたばっちまえ」という意味がありますから、当然この落書の真価を認めるにはセックスの知識が不可欠です。さらに、ファック・ユーは、神への誓いと表裏一体になった呪詛じゅそになったことばです。

ホールデンは妹がいつまでも純真無垢な子どものままでいてほしいと願っているようだからと、子どもを大人の知識から守るために、ファック・ユーの落書を消すんだ、というふうに考えたりする人が多いようです。ホールデンが将来なりたいものは、「ライ麦畑でつかまえる役(キャッチャー)」で、そのキャッチャーの仕事は、彼が崖から落ちたりする子どもたちを守ることだということは問題なく理解することができます。

ですから、ホールデンは子どもを守る作業の一環として、ファック・ユーの落書を消してしまおうとするのだ、そう考える人が多い。そういう読み方は間違いではないかもしれないけれど、それだけでは、ぼくにはすごいことを見落としているように見えてしかたがないのです。

ホールデンがファック・ユーを消す理由は、「グレイト・ギャッツビー」のせいなのだということを気づいたからです。

ギャッツビーの物語を読者に話して聞かせてくれる人物、それは、「嵐が丘」の語り手であるディーン・ネリーとおなじ、ニック・キャラウェイという男です。ギャッツビーが死んだ後、ニックがギャッツビーの家にいってみると、そこにあったのは、あの卑猥な落書「ファック・ユー」だったわけです。その文章を紹介しますと――
 

最後の晩、トランクに荷物を詰め終り、車も食料品店に売ってしまったあとで、ぼくは、あの巨大なままになんの意味をも生まずに終った家を、もう一度眺めに出かけていった。白い石段の上に、どこかの子どもが煉瓦(れんが)のかけらで書いた卑猥(ひわい)な言葉が、月光を浴びてくっきりと浮かんでいた。ぼくは石の上で靴をごしごしこすってそれを消した。それからぶらぶらと浜辺へ歩いて行って、砂浜の上にながながと寝そべった。

(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」、野崎孝訳

 

ニックが「卑猥な言葉」を「靴でごしごしこすって」消している、だからホールデンは、ニックがファック・ユーを発見すると、それを消していたことを思い出すわけです。彼はちゃんと「グレイト・ギャッツビー」を読んで知っていたことになります。つまり、彼はニックの真似をしていることになります。

するとどうでしょう。この後すぐに、ホールデンの姿が、ニックのいう、もう死んでしまって、この世にいないギャッツビーに異常接近していったことがわかります。

ファック・ユーをホールデンが最後に発見するのは、メトロポリタン美術博物館のミイラの展示室においてです。
 

もしぼくが死んで、ぼくが墓場に埋められたりして、ぼくの墓石があったりしたら、そこには「ホールデン・コールフィールド」って書いてあって、それでぼくが何年に生まれて何年に死んだかが記してあって、それでそのすぐ下に「ファック・ユー」って書いてあるんだ。こいつは間違いないぜ、実際。
(サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」)

 

なぜホールデンの墓にファック・ユーの落書が書かれてしまうのでしょうか。

もうおわかりのように、ギャッツビーも死んだ後、自分の家にファック・ユーを書かれてしまったからという単純な理由なわけだと思ってしまいます。死ぬとファック・ユーを書かれてしまうという運命を、ホールデンはギャッツビーから学び、それを共有しようとしているように見えます。

ここでは、ホールデンが自分の墓を想像しているということが、大事なわけです。

自分の墓というのは、自分が死ぬまでつくられないのがアメリカではふつうです。ということは、ホールデンが生きているのに、ここでは死んでしまっているわけです。ちょうどギャッツビーが死んでいたのとおなじように。

そこには、落書を消す自分(主体)があって、落書は自分の外側に存在(客体)していた。

けれども、ここではとつぜん、ホールデンは落書を自分のからだの上に書かれる側へとまわってしまっています。落書と自分が一体化してしまいます。客体であったはずの落書が主体になって、向こうとこっちがいっしょになってしまった。敵対していたはずの2つがひとつになってしまった。

でもこれは反転・一体化のささいな例にすぎません。

たぶん、「ライ麦畑でつかまえて」を読んですっかり知りつくしていると思っている人でも、なかなか単純には読めない、奥のふかい作品だと思います。とくに日本の読書人にとって――。

そのためには、くどいようだけれど、それは、フィッツジェラルドとヘミングウェイを読んでいなければ気づかないことだからです。フィッツジェラルドとヘミングウェイを読んでいる人でも、わかりにくい、奥の深い謎がいろいろと出てきます。

――ぼくは、それでずいぶんわかりませんでした。

もしかしたら、50歳以上の世代では、おそらく解読不可能かもしれません。

ぼくは、20代でやっとそれらしきものを、つかむことができました。専門家の解説文を読んで単純に、これは違うというような、もやもやしたものではありましたが……。

どれぐらい奥が深いか、ぼくなりに理解している点を書いてみたいと思ったわけです。まだまだわからない部分が、山のようにあります。ちょうどいい機会なので、ずっと書きついできたぼくの記憶(ノートは札幌に置いてきたので)を頼りに、あらためてペンを執ってみたようなわけです。