■夏目漱石とUnconscious Hypocrite.――

若いバメと小説「四郎」

 

夏目漱石

 

おはようございます。美しい日本をめぐる激突の話をひとつ書きます。

先日、――といっても、もう3年ほど前の話になりますが、偶然草加のコーヒー店で隣り合わせになった人と、またまた偶然にも隣り合わせになり、おなじコーヒーを飲みながら、先週のつづきの話をしました。彼はまだ50代で、演劇関係の仕事をしている方で、その日も夏目漱石の「三四郎」の話をしていました。

「やっぱり漱石の小説は、いいですよ」といいます。

「何がいいですか?」と訊きしましたら、「三四郎」がいいといいます。先日は「こころ」もいいとおっしゃっておられたが、きょうは「三四郎」もいいとしきりに褒めます。

「《三四郎》のどこがいいですか?」とたずねると、

この本に森田草平と平塚明子の心中未遂事件前の話が書かれていて、 「なにしろ、そこが、いいんですよ」といいます。

ぼくは「三四郎」を語るまえに、漱石の門下生だった森田草平の話をしなければならないと考えました。そしてそのまえに、平塚らいてう、――本名、平塚明子の話をしなければならないとおもいました。ぼくにとって平塚明子こそ、説明に窮する女性はいません。

そのころの明子の心理は哲学的で、ぼくの手にはおえません。ふしぎな女性なのです。

彼女のこころは、明治時代にあって、恐ろしく飛翔していたからです。

彼女は1907年、女子英学塾で勉強していましたが、禁欲的な校風に飽き足らなくなり、九段中坂ユニバーサリスト教会のなかにできた成美女子英語学校というところに転じます。そこで文学教室が設けられ、毎週土曜日、明子はそこに通います。これをつくったのは与謝野晶子で、その講師のひとりが森田草平だったのです。

森田草平は、授業中、ノートもとらず、講師であるじぶんの顔をじーっと見つめるつづけるひとりの女に注目します。その黒い瞳に吸い寄せられるような気持ちになり、26歳の森田草平は陶然となります。このとき明子は21歳でした。

いきなり熱烈なラブレターが送られてきて、明子はどうしていいかわからず、「思ひ乱るる」と書いたりしています。

ふたたび森田はラブレターを書きます。

また返書が送られてきます。それからふたりは急速に接近し、九段のレストランに入って、ボーイの目を盗んでキスを交わします。やがて森田の腕のなかで彼女は

「どうかして、もっとどうかして!」

と哀願するように泣きはじめます。

しかし、これ以上の発展はなく、森田はなかば腹を立てますが、明子の魅力には抗しきれず、ますます明子への恋は募るばかりです。

2月になってからも、明子は手紙を送りつづけます。というより、しまいには、直接森田に手渡したりします。

「これ、読んでください」といったのでしょうか。

読んでみると、自分はいままで禅の力を借りて、胸に秘めた情熱に駆られている自分を冷静に見つめることができた。しかし、もうその力も尽きてしまい、できればあなたの手にかかって死にたい、――というようなことが書かれています。これを森田はまじめに受けとめます。それが、悲劇のはじまりです。

 

平塚らいてう

翌月の3月21日、ふたりは塩原温泉を目指して汽車に乗ります。明子は出発前に遺書を書き残します。

「われは決して恋のため人のために死するものに非(あら)ず、自己を貫かんがためなり、自己の体系(システム)を全うせむためなり、孤独の旅路なり」と書きました。

22歳になった明子と27歳になった森田は、けっきょく塩原温泉では死ぬことはできませんでした。森田は愛のための心中を覚悟したけれど、明子にとっては、命を賭けた自我完結の実験に過ぎず、ふたりが結合することはありませんでした。ふたりがこれから死のうというのに、この世での最後の肉体的な合体はなく、あくまで知的に振る舞う明子の魔的なまでに肥大した精神のまえで、彼はおもいを遂げることもできませんで。

そしてふたりが塩原温泉に宿をとった3月22日、雪が降って寒い夕方でしたが、森田は明子のからだを求めます。が、彼女はふたたび拒絶します。

翌日、塩原湯本まで俥(くるま)でいき、そこから会津方面の向かって雪の山道を歩きます。

夕暮れがせまり、森田は明子を抱き寄せ、懇願するようにいいます。

「私への愛のために死ぬ、そういってください!」と。

明子はこれにはこたえず、――もとより明子は、自分以外の人のために死ぬことはできない、そのように、深くこころに決めていました。

森田は気づきます。

明子は自分の死の劇化を望んでいるにすぎないのだと。

死への漠然としたあこがれを、確かなものにするために、自分を道連れにしているに過ぎず、森田はあきれ果てます。

怒った森田は、明子が持ち歩いている黒革の懐剣を取り出すと、彼は谷間にぽーんと投げ捨て、

「私は生きる。私はもう自分じゃ死なない。あなたも殺さない」といって、明子の瞳を見つめます。彼の懐にはピストルがありましたが、それを使う気にはなれませんでした。

夜になって、ふたりは抱き合って雪の上で眠ります。

翌日、ふたりが宿にもどると、ふたりの共通の友人生田長江がきています。

明子が何通か、手紙を出していたので、心配してやってきたのです。こうして森田草平と平塚明子との心中未遂事件は世に知られるようになりました。

その日、宿を引き払って長江とともに東京へ舞い戻った森田は、師である夏目漱石の家で居候として過ごすことになります。

彼の下宿先はもう引き払っていたので、彼には行くところがありませんでした。漱石は快く居候させます。ところが漱石は、森田に「いったい、どうしたんだ」と質問すらしていないのです。

やがて彼は、自分から告白するに違いないとおもっていたようです。

案の定、やがて森田は事件の顛末を語りはじめます。彼の話によれば、ふたりが恋愛以上のものを求め、「人格と人格の抱擁による、霊と霊の結合を期待していたのだ」といいます。なんだか、ロマンチックな話をします。

漱石はいいます。

「ばかなことをいうものではない。男と女が人格の接触によって霊と霊の結合を求めるのに、恋愛をおいて道があるものか! ……女も、そうまじめだとは思わないね。やっぱり遊ばれたんだよ。ぼくから見れば、いうことなすこと、みな思わせぶりだ。それが女だよ。女性の中の最も女性的なものだね」と漱石はいいます。

こうして漱石は、明子のことを「アンコンシャス・ヒポクリットUnconscious Hypocrite」と評します。

彼女の場合、自我が強烈で、人格のはるか上にあって、自我というものが広大無辺なものに拡大されていて、それが森田を引きまわす結果となった。漱石は、それを「無意識の偽善」というものだと説明したのです。そして漱石はある日、森田にこういいます。

「きみには女は書けない。自分が書いてみようじゃないか」といって書きはじめたのが「三四郎」です。

1908年5月、漱石は、森田の体験したことを小説化することの許諾を求める手紙を平塚家に出します。ところが、あるじは書いてほしくないといいます。

明子は、森田にどう書いてくれても構わない、ぜひ発表してほしいといいます。あなた以外の人になんといわれようと傷つかない。しかし、あなたを愛しているとは、やはりいえない、と書かれています。

「なんたるわがまま! 自己愛にすぎぬ」といって森田は腹を立てますが、彼は彼女を忘れることはできません。ふたたび明子に呼び出されると、彼はいそいそと平塚家に走り、あるじの目を盗んで部屋の隅で、明子と抱き合ってキスを交わします。明子はふたたび心中を求めます。

なんたる偽善とはおもったけれど、明子の魅力を跳ねつけることもできません。そしてまた会います。またキスを交わします。「小説を書いてください」といいます。

漱石は、きみが書かないのなら、ぼくがそういう女を書いてみようか、と持ちかけたわけです。「三四郎」という小説は、そうして書かれました。

小説のなかでは、里見美禰子(みねこ)という名前で出てきます。それが明子です。

1909年1月1日から森田草平の小説「煤煙」が朝日新聞の連載小説として発表されました。

これは漱石のはからいによるもので、「三四郎」は好評を得ましたが、「煤煙」は不評を買ったばかりでなく、作家森田草平を貶(おとし)めるような結果をもたらしました。

明子が男性と肉体関係を持ったのは、1910年の春でした。

24歳の彼女は、若い禅師と恋愛ぬきで関係をむすび、処女を捨てました。「自我を束縛するものからの解放」への試みといっています。恋愛に苦しんだのは禅師のほうでした。のちに平塚らいてうを名乗るこの女性は、禅的な止揚を経て、自我をおおきく膨らまし、のちに「青鞜」という女性の解放へと突き進みます。

ぼくは、そういう話をしました。

――そこでふと、おもい浮かんできたのは、漱石の死後、森田草平が「漱石全集」の編集に黙々と取り組んでいく姿でした。その話は、森田草平の弟子内田百閒が、じぶんの小説にくわしく書いています。

若いころ、夏目漱石を読む過程で、ぼくは内田百閒のことを知りました。岩波書店の創業者岩波茂雄は、漱石の門下生でもあり、その縁で、漱石が亡くなって岩波書店から「漱石全集」(全18巻)を出そうというとき、森田草平の下で働いたのが内田百閒だったのです。

森田草平は、漱石の主宰する「木曜会」には遅くなって入ってきた人でしたが、東京帝大の英文科を出るまで、与謝野鉄幹夫妻、馬場胡蝶、上田敏らの知遇を得て、大学を出ると、与謝野晶子がつくった閨秀大学講座の講師になり、教え子には、平塚らいてうがいて、彼女と恋愛し、あろうことか、らいてうと冬の塩原尾花峠で情死行をやってしまうのです。まあ、死のリハーサルみたいなものだったのだろうか。だが、ふたりは死ななかった。

――まあ、この話をすればキリがないのですが、そこで想い出したのが日本文学研究家のマーク・ピーターセンのいう「若いつばめ」という日本語です。10年ほどまえ、ぼくは、若い人に後年の平塚らいてうの「若いつばめ」の話をしてしまい、顰蹙を買ったことがあります。

「江戸ことばをいわれても、もうわかりませんよ」と、青年にいわれてしまったのです。

しかし、「若いつばめ」は、そんなに古い話ではない。

平塚雷鳥と奥村博史との書簡になかで、年下の奥村がじぶんのことを《若いつばめ》と書いて送った語で、英語の決まり文句でいえば、I feel like a kept man. まるでヒモみたいな気分だ、つばめの気分だ、といったのです。平塚らいてうを知らない現代青年は、《若いつばめ》も知らないというわけですが、《若いつばめ》は知らなくても、I feel like a kept man.はちゃんと知っていました。Keep a mistress(娼婦を囲う)という語も。

「だって、keep a cut(猫を飼う)というじゃありませんか」というのです。

年上の女性に愛される若い男、そういうイメージがありますが、たんに愛されているというより、生活のめんどうまで見てもらっている男。――というのも、つばめの巣作りは、人の家の軒先を借りてつくったりします。そしてかならず巣に帰ってくる。その特徴から《若いつばめ》といったのではないか、とされています。

「そのとおりですね」

古い日本語が、だんだん死語になって遠のいていくのは悲しいことであるのだけれど、いっぽうでは、つぎつぎに新しいことばが誕生していきます。――それはそれとして、漱石のはからいで難をおさめ、これがきっかけで、森田草平は東京朝日新聞に「煤煙」(明治42年)という小説を連載することになります。日本近代文学史には、かならずといっていいくらい、この事件と「煤煙」が扱われていますが、それだけに、森田草平といえば「煤煙」をおもい出すくらい、彼の代表作になりました。

「ひと口にいって、《煤煙》で作者のいいたかったことは、何ですか?」とある友人に尋ねると、

「うーん、それは、森田の哲学だったでしょうな。恋愛しながら、じぶんを見失うまいとする自我の確立。……新しい時代、新しい女との悩み、情熱と頽廃、その分裂した青年のこころの叫び、そういうことをいいたかったのだとおもいますね。この小説は、ベストセラーになりましたからねぇ」と友人はいいます。

「作風は、ほとんど、ドキュメンタリーですか?」

「そうでしょうな。……漱石の《三四郎》では、その萌芽みたいなものを感じさせますが、《煤煙》は、大人の悩みをそのまま描いていて、強烈でしたね」

それからどうなりましたか?

「これをきっかけにして、森田草平は、漱石門下の優等生となり、小宮豊隆のすすめで、東京朝日新聞の文芸欄を担当することになり、彼は自然主義文学に徹底して対抗しましたね。さすがは、漱石門下生だけあって、有島武郎にも通じるところがあります」

「なるほど。――ところで、漱石全集の編纂主幹に、森田草平が選ばれたというのは? その話を、どうして知ったんですか?」ときいてみました。

「内田百閒が書いていますよ。彼も、漱石全集に少なからずかかわっていましたからね」といいます。

内田百閒は、28歳くらいのころに、築地の活版印刷所の2階で森田草平の走り遣いをやらされていたようだ。

「漱石といえば、小説はともかく、俳句もたくさん書いているでしょう? 森田草平は、俳句にはとんと縁がなかった人ですよね?」というと、

「そうなんですよ。短歌には縁があるというのに、俳句は、よくわからない。その彼が、俳句の校閲やら、解説文をじぶんじゃ書けないので、内田百閒に頼んでるんですよ」

「内田百閒は、俳句もやっていましたからね」

「そうですね。……内田百閒は、小説よりも俳句の解説のほうが得意でしたから、よろこんでひき受けます。彼は東京帝大を出て、作家として、まだ自立しないころでしたのでね。……原稿料をいただけるというので、森田草平先生にくっついて、いろいろな仕事を引き受けていましたね」

「ほう」

「ところが、彼の原稿を読んで、ちょっと手直しをするんです。自分もかかわっているのだぞ、といわんばかりにね。校閲といっても、一週間やっても二週間やっても、受け取る金銭はおなじ。森田草平は、改造社からお金が入ると、岩波から入るのを待たずに、内田百閒にはいろいろと融通しています。手間賃やら、稿料は、折半で」

「ほう、折半で」

「折半で。……半分でも、きみのほうが分がいいのだぞ、といっています。なぜなら、税金はおれが支払うのだからな、と。たしか1000円ほどもらっている。そんなわけで、森田草平は親分肌だったようですね」

「そういうことですか。……ところで、岩波の《漱石全集》は読まれましたか?」

「ええ、全巻読みました。ぼくには不満がありますけどね」と彼はいう。

「どういう? ……」

「読めばわかりますが、全ページ、漱石が書いたとおりの活字を使っていないというところですね。漱石が使った旧漢字ではなくて、みんな新漢字になっているでしょう? そこが不満ですね」と友人はいった。

なるほど。そういわれてみると、そうだなとおもった。森田草平は、漱石が亡くなったとき、デスマスクを提案したらしい。ところが、自分にはまわってこなかったので不満顔だったそうです。

漱石の脳は東京帝大に保存されていて、天才の脳は、これからの医学の発展に大いに資するというので、保存研究されたという話です。

「木曜会」に集まったメンバーたちは、小宮豊隆、鈴木三重吉、安倍能成、森田草平、寺田寅彦、芥川龍之介、久米正雄、内田百間、津田青楓、岩波茂雄などなど、錚々(そうそう)たる人びとでした。少しあとになって弟子になった第4次「新思潮」同人の久米正雄、松岡譲は、漱石の長女筆子と結婚したいといい張って、けっきょく、松岡が勝ったため、ふたりの関係は壊れました。