生は、たるか外れるかだ!

 

須賀敦子さん

 

須賀敦子「ミラノ 霧の風景」

 

 

「人生は、当たるか外れるかだ!」といった男がいた。

そして、

「人生は自分の才能を見つけるためにある」といい、「当たるか外れるかだ!」といい直した。

顕正会会長の淺井昭衛先生は、近著「最後に申すべき事」を上梓された。

それを読んで、たいへん感銘を受けた。汗牛充棟の近代思想の海をおよぎ、世にある七つの海峡を渡り、三つの大陸を越えて到達してはじめて身に刻んだ先生の世に受け継がれるべき深淵なる思想の書である。

今しがた、リモートによる読み合わせ(輪読)がおこなわれた。田中のり子先輩から、今夜、「8時30分からはじまります、遅れないように」と聴いていた。

「人生は、当たるか外れるかだ!」というのは、ある本を読んでいて偶然見つけた文章なのだ。

それは、「コーヒーの人 仕事と人生」(フィルムアート社、2015年)という本を読んでいて、その19ページで見つけた見出しである。田中勝幸さんという人が書いている。

彼はカウンター・カルチャー・コーヒーといっている。中身はエスプレッソの話だ。

エスプレッソだって?

ああ、懐かしいなあとおもう。

――というのも、ぼくは若いころイタリアに行って、そいつをはじめて飲んだとき、ミラノのバールのおばさんがにこにこしながら、「いかが?」ときいてきた。

日本人の口に合うかしらっていう気持ちで。

たちまち須賀敦子さんの世界がひろがる。

須賀敦子さんが亡くなってからも、これらの本は「エッセイ」と呼ばれたが、これはみんな小説だった。記憶を掘り起こして一人称で書く彼女の文章スタイルから、多くの人はエッセイと呼んだけれど、彼女の文章はご覧いただくように、エッセイ風に見えてしまう。

ぼくはこのような文章が好きだ。

ぼくはイタリア語を勉強しているけれど、ほとんどまだ読めない。読めないけれど、彼女の翻訳文はとても魅力的である。

そんなことが、なぜおまえに分かるのか、といぶかる向きもあるかもしれない。

ここでひとつお目にかけたいとおもう。完全な、きれいな日本語になっている見本を。――アントニオ・タブッキという作家の書いた「島とクジラと女をめぐる断章」(青土社、1995年)の翻訳文の一部である。

 

Lei mi rideva e mi lasciava intendere la ragione di quella sua vita, e mi diceva : aspetta ancora un po' e ce ne abbremo insieme, devi fidarti di me, di piú non posso dirti.

(ある人が訳した文章は、)

彼女はあんな暮らしのわけなど自分でもわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。

 

(須賀敦子さんが訳した文章は、)

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もう少し待って。そしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。

 

 

塩野七生「海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年」〈上〉 (中公文庫)、1989年

 

もちろんおばさんは日本には行ったことがない。

ある日、日本人のひとりの柔道家がやってきて、コーヒーをオーダーした。で、おばさんは「どんなコーヒーを?」ときくと、隣りで飲んでいる若いサラリーマンの呑むコーヒーとおなじものを、と頼んだそうだ。

「アルコールも入れて?」ときく。

「アルコール? そいつはないほうがいい」と彼はいったそうだ。

で、おばさんはカプッチーノをつくった。

だって、隣りの彼が飲んでいるコーヒーとおなじものを所望したからだった。

そいつはどろっとしていて、見た目はコーヒーらしく見えない。イタリアではこんなまずそうなコーヒーを飲んているのか、と彼はおもったかもしれない。

で、彼は飲んでみる。

飲んで喉元をすぎると、たちまちコーヒーの苦みが口の中いっぱいにひろがり、やがて甘さと辛さが微妙にブレンドされた味に変わる。こいつにアルコールを少し混ぜると、天国みたいな味に変わるだろう、と彼はおもったようだという。

「景気づけに」という表現は、ここではあたらない。

彼らは景気づけに飲んでいるわけじゃない。ワインだって、むかしは水のかわりに飲んだのである。イタリアにはいい水がなかったからだ。子供も女たちもワインを水がわりに飲んでいる。

アルコールを入れるのは、イタリアの常識?

「はい、常識です、殿方には」とおばさんは付け足した。

ぼくはミラノに行くと、――ほんとうは「ミラーノ」というのだが、――バールに入り、おばさんの情報を頼りに街を歩く。あいにくと草加にはそういうコーヒーを出してくれる店はない。

だからぼくは缶コーヒーならEmerald Mountainを飲む。

田中勝幸さんが書いている「才能」の話なのだが、自分のタレント性ということ、それを見つけることだといっている。ことばを換えれば、自分のマーケタビリティを考えるというわけである。

フィレンツェには港がない。アルノ河にその港をつくろうとして、とうじ行政府の一等書記官だったマキャヴェッリは、ダ・ヴィンチとともにアルノ河に運河を建設して大きな港をつくろうとした。――ダ・ヴィンチの「モナリザ」の背景に描かれているアルノ河である。これはよく知られている話だが、ふたりは大失敗をする。

マキャヴェッリは逮捕監禁され、ダ・ヴィンチは5年間もままならない暮らしを強いられたらしい。ダ・ヴィンチは画家であるまえに、土木工学師兼測量士だった。

そんなことがあって、彼らは偉大な仕事ができたというわけだ。つまり、ありあまるほどの時間が、ある日とつぜん、ポッとできてしまったからだ。

おかげで、後世に残る傑作がつくられた。

ダ・ヴィンチのほうは人体解剖図や機械工作図をつくり、近代医学に貢献したし、マキャヴェッリのほうは「君主論」やさまざまな論文を書いた。ダ・ヴィンチのほうは、「モナリザ」の完成に挑んだ。ダ・ヴィンチはパリに行っても終生「モナリザ」を手放さなかったのは、じぶんでは完成したとはおもっていなかったからかも知れない。

フィレンツェといえば、もうひとり、アメリゴ・ヴェスプッチがいる。

以前も書いたが、彼は北米ハドソン川を発見している。この偉大な人物もフィレンツェ生まれなのだ。

港がないフィレンツェから偉大な航海士を生んでいる。アメリゴの名にちなんで「アメリカ」と命名された。そのイタリア人にとって、海とはどのようなものだったのだろう?

イタリアを理解するには、まず海の歴史を見る必要がある。海の港を満たないフィレンツェから、海の航海士アメリゴ・デスプッチ(Amerigo Vespucci, 1454年 - 1512年)を生んだことは驚きに値する。

そのころぼくは、イタリア料理に熱をあげていた。

イタリア・フィレンツェ郊外の農家の見える丘からの眺望は、上田市のからっとした空気感と似ていて、もっと光に満ちていた。

街なかのバール(Bar)のおばさんが教えてくれた手書きの地図を見ながら、ぼくはその丘の道を登った。

ぼくのイタリア滞在は数週間におよんだものの、ホテルではなく、簡易アパートを契約し、家具付きで、キッチンまわりもかなり充実した部屋に泊まることができた。

包丁やフライパンなどの調理器具はもちろん、パスタ鍋とかオリーブオイルとかもあり、ときには洗濯機なんかもあって、短期間滞在する旅行者の部屋としては、びっくりするほどコンビニエンスのすすんだ貸し部屋がある。

そこでは、めんどうな契約書も要らない。年収なんか書きこむ書類もない。

そこは子供が独立して、空き部屋になったような部屋で、家を切り盛りする主婦が素人で、それも好きで貸しているというような部屋なのだ。石造りの花々に囲まれた瀟洒なたたずまい。

便利さからいえば、たぶん日本より充実していたとおもう。

それらの情報は、ぼくのばあい、みんなバールのおばさんの情報から得たものばかり。

たずねたわけではないが、貸し部屋の評判なども教えてくれる。

それに、遠来の客には飛びっ切りめんどう見が良い。それは、いまの日本にはないいいところだ。

バールで飲んだカプッチーノは、どろってしていて、それに多少のアルコールが入っていた。それが、サラリーマンたちの朝食なのだ。男たちの朝は、みんなピッツァなんか食べない。どろっとしたカプッチーノを、きゅっと引っ掛けてみんな出勤していく。

イタリアの朝は忙しいけれど、楽しい。

ぼくはピッツァをたっぷり食べるので、おばさんはぼくの好みを知っていて、椅子に座ると、いつも同じものをつくってくれる。

もちろんイタリアには、ピッツェリーアの看板がいたるところに出ている。

だが、バールの店にはメニューなんかなかったとおもう。

そこは常連客が多いので、「マンマ」と呼ばれるおばさんは、客の好みに合わせて、――おそらく、客のそのときの体調や気分に合わせて、――それぞれ客好みの別々の食べ物を出す。髭面の男がひとり新聞を広げて、会話に入らず、黙ってたばこを吸っている。

円テーブルに陣取る若い人たちは、早口で何かしゃべりまくっている。

にぎやかなことが大好きなマンマは、忙しい朝の時間が過ぎて客が去っていくと、こんどはぼくをつかまえて、北海道のパウダー・スノーの上を滑るスキーの話を聞きたがる。世界のスキーヤーたちはみんな北海道の雪を愛好する。