信》の年、ああ和32年

 

松本清張

 

いつだったか、妻ヨーコの話によれば、

「来月、松本清張のドラマがつづくわよ。お父さん、録画して」といっていた。そういわれると、録画してから、ドラマを見たくなる。

ぼくは松本清張といえば、「点と線」がいちばん好きだ。

この「点と線」は昭和32年2月から翌年の1月まで、雑誌「旅」に連載されたものである。推理小説としては松本清張の処女長編である。はじめての長編作品が、こんなにすばらしいのは、稀有のことかもしれない。

そのころ、週刊読売に「眼の壁」を連載し、雑誌「太陽」には「ゼロの焦点」が連載され、昭和32年には、長編だけでも3つの連載をつづけていたのだから、松本清張という作家は、すごいとおもう。

短編では「地方紙を買う女」とか、「鬼畜」、「一年半待て」、「捜査圏外の条件」、「カルネアデスの舟板」、「白い闇」といった数々の傑作を書いている。

連載がまだ途中だった雑誌「太陽」は、この年の暮れに、とつぜん廃刊になるなどしたが、そこに連載中だった「ゼロの焦点」は話題を呼び、のこりの原稿を書き下ろしにして出版され、松本清張の推理小説は、いっそうの飛躍を遂げた。

昭和32年といえば、その年の12月、天城山中で、学習院大学の学生だった愛親覚羅(あいしんかくら)慧生(えせい)と同級生の大久保武子が、ピストルによる心中死体が発見されるという事件があった。

慧生は、もと満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟である。彼の父親は溥傑(ふけつ)だった。

母は元侯爵の嵯峨実勝の娘浩(ひろし)。

世が世なら、彼女は満州国のプリンセスであり、かねてより、久保武子との結婚には慧生の家族が猛反対していた。

事件は12月4日、登校した慧生がそのまま行方不明になり、母親から警察に捜査願いが出され、ニュースが全国に流されたことからひろく知れわたった。捜査願いが出された日の午後、学習院大学の学生寮舎監のもとに届いた1通の手紙から、ふたりの心中行が知れわたった。

行方不明になって1週間後、肉親からラジオやテレビから電波を使って呼びかけたがむなしく、ふたりは、天城山中で死体となって発見された。

それまで、ふたりのあいだに交わされた手紙は膨大をきわめ、のちに「われ御身を愛す」と題されて出版されると、たちまちベストセラーになった。

 

ジラード事件

 

雨がふる

 

またこの年、おもい出されるのは、世に名高い「ジラード事件」が起こった年でもある。

群馬県相馬ヶ原の米軍演習場で、農婦坂井なかさん(46歳)が、空(から)の薬莢(やっきょう)を拾っていて射殺されるという事件が起きている。

1月30日、死亡当時、群馬県警は流れ弾にあたって死亡したという見方をしていたが、数日後、目撃者の証言をえた国会議員による調査が開始され、米兵ウィリアム・S・ジラード(27歳)が故意に射撃し、致死にいたらしめたことが分かったというもの。

この事件で、農婦が危険な場所で、空の薬莢を拾っているという現実が報道された。

ジラード大尉は、「からかい半分で撃った」と証言した。

日米当局は、裁判権をめぐるはげしい論戦がたたかわされ、反米感情がつのった。彼は裁判において、「農婦の尻を見て、撃ってみたくなった」と証言したことから、いっそう反米感情が悪化した。

銃弾は、農婦のお尻から腹部ふかくに貫通し、絶命した。

半年たった7月、米連邦最高裁判所は、ジラードを日本の法廷に引きわたす判決をくだし、11月、前橋地方裁判所法廷はジラードにたいし、懲役3年、執行猶予4年の判決をいい渡した。

アンドリュー・パーカー「眼の誕生」、2006年。

 

この年からなべ底不況がはじまった。

輸入の増大で、国際収支のバランスが一挙に悪化した。

鋼材生産926万トンにたいし、輸出が157万トン。いずれも史上最高で、日本は鉄鋼輸出の本格化を目指した。

主婦がパートタイムではたらきはじめたのも、この年からだった。

ラジオからは、ミッチーブームが巻き起こり、「リンゴ村から」、その他、三橋美智也の歌声がふうびした。「有楽町で逢いましょう」は、その翌年の昭和33年だった。映画「十戒」、「鉄道員」、「死刑台のエレベーター」などが上映された。

昭和32年。――ぼくはそのころ、なにも知らない中学生だった。

勉強などそっちのけで、遊びほうけていた。遊びにうつつをぬかしながらも、ぼくは何か考えていたのだろう、とおもう。

アメリカの思想家エマソンの「処世論(Conduct of Life)」のなかに、こんなことばがある。We are born believing. A man bears beliefs, as a tree bears apples. リンゴの話が出てくる。《人は生まれついたときから信じ始める。1本の木にリンゴの実が生()るように》と。

まずもって、リンゴの木を愚弄するのは愚の骨頂だけれど、リンゴの木には実がなる。まさにそのように、人間には何かが芽生え、実がなるというわけである。それがだんだん成長し、大きくなって真っ赤に熟したリンゴの実になるというわけだ。

人の考えは、信仰のようなもので、まず信じるところからはじまるもののようだ。

しかしエマーソンは、こうもいっている。

「リンゴの木は愚かな類の生き物だ」と。

しかしリンゴの木だからといって「連日、肥土をごっそり取り去って、そのぶん砂や根に与えてやったならば、それに気づくだろう。……そんな扱いをしばしばつづけていれば、(リンゴだって)不信を抱きはじめる」と彼はいっている。

リンゴの木に不信の実がなるのでは、人間にもまともな実は生らないだろうと。不信の実がなるだけだろうといっている。もちろん信仰というのは、科学ではない。

親がそうするから、子供もそうする。

そのようにして考えが受け継がれていく。

エマーソンの教えは、信仰にはふたつの要素があって、信じる実だけが生るのではなく、不信の実も生るといっている。あたりまえの話だが、じつにあざやかに人間心理を活写している。

そのころのぼくは、自分の頭で考えたりしなかった。ほとんど父か先生の考えをただ鵜呑みにしていたとおもう。それで損をしたというわけではないけれど。

《法華経をよむ人の、此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なると思うは、此の経をよまぬ人なり。》(「顕正新聞」平成30年7月25日)

【通釈】法華経を読む人で、いかにも法華経を信ずるように見えていても、法華経以外の諸経でも成仏が叶うと思っている者は、法華経を読まぬ人というべきである――。

 

フランスのあるサスペンス小説の話だが、いまおもい出した。

老婆を殺して金品をうばった青年は、逃げまどう道すがら、ふと、あのとき老婆が飼っていたカナリアのことをおもい出す。主人を失えば、カナリアはいったいどうなるのだろう、と彼はおもう。

すると、彼は、もときた道を引き返し、老婆の転がっている部屋に行き、カナリアのいる鳥カゴを持って逃走しようとする。その玄関先で、刑事と鉢合わせになり、ご用となる。そういう物語だった。――これは、アンリ・バルビュスの「地獄」よりおもしろかったなとおもう。

有吉佐和子の小説に、「不信のとき」(新潮文庫)というのがあった。内容はわすれた。

ぼくは、この人はえらく頭の切れる人だとおもっていた。「一将功なりて万骨(ばんこつ)枯る」ということばを教わった。

日高堯子(たかこ)さんの評論集「黒髪考、そして女歌のために」(北冬舎、1999年)という本を読むと、「黒髪」ということばがいっぱい出てくる。日本文学史そのものをフィクションにすれば、そこには象徴的な女の「黒髪」が出てくるという話が書かれている。

だから「黒髪考」なのだろう。

そういえば、「私小説」といえば、まずもって「黒髪」が描かれている。茶髪や金髪などは出てこない。それはヨーロッパの小説をまねたもので、それにいちばん先に反応したのは谷崎潤一郎と大岡昇平だったようにおもう。

戦争から帰ってくると大岡昇平は「黒髪」という小説を書いた。

ある流転の女の半生を書いたもので、水のイメージをあしらい、艶麗(えんれい)な、哀愁にみちた物語を書いた。先年亡くなった渡辺淳一も書けないような小説である。

西洋にも「黒髪」が描かれている。「ボヴァリー夫人」という小説だ。

 

父親を殺したベアトリーチェ・チェンチ

 

そこに出てくるエンマは黒髪で、夫のシャルルはそれを切り取って、彼女の黒髪をにぎり締めながら死ぬ。これが、ちゃんとした日本語で読むと、フランス小説とはおもえない。ヨーロッパでは、妻が亡くなると、彼女の巻き毛のヘアを切り取って、リビングルームの部屋の壁に、額装してかざったりする。

日本では、気持ち悪くて、そんなことはしないけれど、王がギロチンにかかると、庶民は彼の髪の毛を切り取って持ち去るという風習がむかしからある。

ヨーロッパには、そういうグロテスクな趣味があるようだ。まして、愛する女性の黒髪は、肉体は朽ちるけれども、髪の毛は朽ちないので、大事にあつかい、飾っているのである。

イタリアのベアトリーチェ・チェンチ事件で、若い彼女がギロチンにかかると、彼女の肖像画が描かれたし、それを見たアメリカの作家N・ホーソンは、痛く感動し、故郷に帰ってからも、しばらくはベアトリーチェの絵のことをおもい出し、やがて彼は「スカーレット・レター(緋文字)」という小説を書いた。

さて、この記事のテーマは、「不信」だった。みんな小説は、そういえば不信を描く小説ばかりだなとおもう。

「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」と詠った与謝野晶子のうたも、なにやら、不信の匂いがしてくるではないか。