学の夜明け、――「或る《倉日記》伝」の話

 

松本清張「或る《小倉日記》伝」(新潮文庫)

 

 

むかし、高校生のころだった。ぼくはヘーゲルの「法哲学」という分厚い本を読んでいて、その序文のことばにひかれた。

「ミネルヴァのふくろうは、たちこめる黄昏とともにようやく飛びはじめる」ということばだった。

「黄昏?」

ほう、黄昏か、とおもった。黄昏とは何だろう?

それは一日のおわりであり、月のおわりであり、一年のおわりであり、人の晩年を意味するのだろうか? と考えた。

そんなふうなことが書いてあった。その話をIТ戦士の若い人に話した。彼は、ニーチェを読みはじめたといっている。先日は吉田松陰を読み、「徒然草」を読み、こんどはニーチェ。

「若い人はいいよな、吉野家でビールを飲みながら、ニーチェはまだか! っていいながら、ミネルヴァのふくろうのたちあらわれるのを、いまかいまかと待ちつづけることができるのだ」

ぼくだって若いころは哲学書を読んだのだぞ! とおもいながら。

森の主ふくろうは、平和な日向に活動しないで、夜のとばりが下りてくるころになって活動を開始する。松本清張はそうやって活動した。晩年ではなかったが、お世辞にも若いとはいえない。そのエネルギーは、若者をしびれさせる。

 

上野公園にて

昭和25年に「週刊朝日」が募集した「百万人の小説」というのに松本清張の「西郷札」が入選したことが機縁となり、木々(きぎ)高太郎の知遇を得た清張は、雑誌「三田文学」に、「記憶」(昭和27年3月号)と、「或る《小倉日記》伝」(同年9月号)を発表した。

木々高太郎といえば、当時、「三田文学」の編集主幹だった。彼はもともとは生理学者で、慶応義塾大学の教授でもあった。

彼自身、作家でもあり、推理小説「網膜脈視症」という、おもしろい医学作品を書いている。戦後、「人生の阿呆」で直木賞を受賞しているが、ぼくはこっちのほうは読んでいない。

この人は、清張の推理的な物語のはこびが、何か新鮮で、人を引きつける魅力があって、それはまた新しい時代の推理的手法でもあると述べた。

「或る《小倉日記》伝」のほうは、直木賞候補にあがったが、選考の途中でおもしろいことに、第28回の芥川賞にまわされ、それを受賞して、文壇へのデビューを果したことは有名である。

この作品は、じっさいにあった出来事を小説に仕上げたものである。

これは、清張の文壇への出世作であるばかりでなく、受賞の経緯が示すとおり、大衆的な読み物としても読まれ、文芸の奥深い物語にもなっていて、選考委員たちを大いに悩ませた一作であった。

郷土・小倉を舞台に地方ドラマを試みているが、史実に即しながら、その空白を想像力で埋める手法はみごとというほかはない。まさしく清張らしい作品である。

 

文芸評論家の平野謙氏は、昭和40年ごろ、明治大学文学部教授で、じぶんはゼミでその話を聴いた。

主人公の田上耕作は、小倉にいた実在の人物である。

彼は、森鷗外が小倉に滞在した明治33年(1900年)に生まれ、昭和10年(1935年)の小倉郷土創立の会員のひとりであり、昭和13年(1938年)には小倉の鍛冶町の旧宅に「森鴎外居住の趾」の標柱を建てた人物である。小説のなかにある「昭和15年」という年には、彼は40歳になっていたとおもわれる。

これを清張は、田上の生まれた年を、明治42年生まれに変え、そのとき32歳として描いた。そこには、田上の森鴎外研究への情熱を描き、しばしば断念と絶望の繰り返しを描き、耕作が身体障害者という、どうにもひとりでは生きられない人間として描いた。

「女には特別な気持ちを動かすことはなかった」と主人公に語らせている。

そのいっぽうで、彼のめんどうをみるために近づいてきた「山田てる子」に、そっけない態度をとり、彼女との縁談を断りつづける人物として描いた。――この部分は清張の創作である。

母親の愛情だけに見守られて、耕作は、鷗外が小倉で過ごした3年間の「小倉日記」を再現させようとして、鷗外と付き合っていた年寄りをたずねていろいろ当時のことを聞き書きする仕事に打ち込む。

鷗外の「小倉日記」が行方不明になっているため、鷗外の当時のことが分からず、鷗外研究者を困らせていた。

それに目をつけた耕作は、ただひとつの仕事をして死にたいと、母親にもらすようになった。そのひとつの仕事とは、鷗外の「小倉日記」を新しくつくりなおすことだった。

母親は、ふたたび生きる力を取り戻した息子のために、ほうぼうへ息子が取材にでかけるとき付き添って行った。そのうちに、てる子も同行するようになり、しばらくして、母親はそんな心根のやさしいてる子にまかせて、行かせるようになった。

田上耕作が、「小倉日記」をもういちど再現させたいと考えたのは、柳田國男の民族学の資料採集方法というのをじっさいに知ってからだった。

「その方法でやれば、いまなら、まだ間に合う」と彼はおもった。

「おまえには、ムリです。わたしがかわりについていきます」といって母親がついていったわけは、耕作がふつうの会話ができなかったからである。田上耕作は、からだこそ不自由だが、頭脳は明晰で、地元の指導的な文化人である白川慶一郎のもとに出入りして、資料調査の手伝いなどをしている。

「鷗外という巨人の、……3年間の空白を埋めようと思った」と彼は語る。それが、耕作が文学へと駆り立てる大きな動機だった。

鷗外にフランス語を教えたというベルトラン神父や、朋友、玉水俊虠(しゅんこ)和尚の未亡人など、鷗外にたびたび原稿依頼をしていたという門司新報の支局長・麻生作男など、小倉時代の鴎外を知る人物にいろいろと取材し、当時のことがしだいにあきらかになっていくさまを描いた。

しかし、調査資料はうずたかく積もるいっぽうで、耕作の病気が重くなり、病状がますます悪化していく。昭和25年の暮れ、鷗外が「冬の夕立」と評した空模様の日、ついに息を引き取る。――東京で、鷗外のほんものの「小倉日記」が発見されたのは、その翌年のことだった。

 

耕作は幼時の追憶が甦った。でんびんやのじいさんや女の児のことが眼の前に浮かんだ。あの時はでんびんやとは何のことか知らなかった。今、思いがけなく、その由来を鷗外が教えた。

松本清張「或る《小倉日記》伝」より

 

これは悲しい小説である。

苦労して3年におよぶ取材の末、やっとできあがった「再現・小倉日記」を残して耕作は死んだが、ほんものの「小倉日記」は、鷗外の息子の於菟(おと)のやなぎ行李の底から発見されたのである。皮肉なことに、この小説は徒労に終わった青年の話を書いている。

田上が、「でんびんやさん」のことを考えていたころ、東京の鴎外宅は、鴎外記念館となり、鴎外ゆかりの品々がそろえられた。

だが、肝心の「小倉日記」はないままだった。

そこで、田上耕作の「再現・小倉日記」は、早稲田大学の専門家に認められて、その記念館の陳列棚にならんだ。

このいきさつを述べた本「鴎外森林太郎」が昭和17年に、森潤三郎の名前で丸井書店から発行された。――たぶん、清張はこの本を読まれたのだろう。

この本には、田上耕作の名前が出ている。

本には耕作から寄贈されたという「森鴎外居住の趾」を写した写真が掲載されている。現在は、東京・文京区立本郷図書館鷗外記念室で保管されているという。田上耕作は、幸いなことに、「小倉日記」発見の知らせを知らないまま世を去った。

すくなくとも読者にとって、救われるのはそのことであろう。

「小倉日記」は1899年6月16日~1902年3月28日までつづられており、これには、もともとの日記原稿と、浄写本とがあり、後者には鴎外の訂正・校閲個所があることが分かった。かなりの訂正があり、ページの上にページを貼り合わせて追加した部分もある。

なぜ、鴎外がこのように改定したのかは、別の話である。――鴎外が雇っていた女中の話が書かれている。

鴎外記念館には、耕作があわい恋心を抱いた看護婦・山田てる子とひとときを過ごした小倉の広寿山福聚(ふくじゅ)禅寺の品も陳列されている。鴎外がよくこの寺を訪れ、旧藩士だった小笠原家の記録などを丹念に読んでいたという。

この情報を聞きつけた耕作は、寺の住職をたびたびたずね、鴎外についてのエピソードをいろいろと聞いている。

お寺の開基から、中国僧だった即非(そくひ)の像が鎮座している。これを見た看護婦の山田てる子は、耕作にいう。

「鴎外さんて、こんなお顔をなさっていたのかしら?」

そういって笑ったという記録がある。――写真で見ると、いかにも福々しいお顔で、こっちを見ている。この禅寺では、格子を通してその像をながめる形式になっており、拝観者たちには、像のそばには行けないようになっている。

                        ♪

第2次世界大戦がはじまったのは昭和16年の暮れ、清張が32歳のときだった。戦況のきびしさが伝わるなか、3人の子供の父になっていた清張のもとに、やがて《赤紙》がとどく。

3ヶ月の教育召集を経験した昭和19年、35歳にしてとつぜん臨時召集を受け、北九州の久留米の兵営まで父親に見送られ、二等兵として入隊する。

間もなくニューギニア戦線に送られることが分かり、彼は、死の予感をおぼえる。

しかし戦況の変化とともにニューギニアへは移送されず、軍医部の衛生兵――のちに衛生上等兵となる――として朝鮮・京城(現在のソウル)市外の竜山、南朝鮮の井邑(せいゆう)というところへ送られ、そこで1年半を過ごし、終戦を迎える。

ぼくはこの小説を読むと、人に訪れる哀しいまでの哲学を感じる。だから、ぼくは青年に、その話をしたのである。