■KさまへのLetter。――

安部公房の「」を読んで

 

いかがお過ごしですか。いま2024年――令和6年を迎え、気づいたらもう2月の後半。鏡のまえでじぶんの顔を覗き見ます。すると、外貌(がいぼう)は極端に変わって見えます。ぼくは82歳になります。

「こんばんは。お変わりありませんか?」

先日差し上げた文章のなかに、大きな間違いがありました。

小さなことならともかく、ずいぶんへんてこりんな間違いをしてしまい、恐縮しておりました。Maison de Franceを「メゾン・ド・フランス」とカタカナで書いてしまいました。おまけに、フランスの洋菓子店の話を書いてしまったので、ますます変なことになりました。

ここは「フランス王家」と訳すべきでしょう。いちいち誤訳を恐れていたら、日本語で文章を書く勇気など、なくなってしまいます。

それだけ日本語はむずかしい言語だそうですから。

さて、ぼくはおもうのですが、この星の時間は、あとどのくらいあるのでしょうか。いくらそんなことを思っても詮無い話ですが、つまり、残されたじぶんの時間を知りたいと思いつつ、つらつらそんなことを考える年齢になりました。

 

映画「砂の女」より

先日は貴重な「瞑想」についての原稿を送ってくださり、ありがとうございます。

先日、お礼のメールを送りましたが、届いていなかったようです。

きょうは雨。――春先の驟雨をながめておりますと、いまは亡き武満徹の《秋庭歌一具》(1979年)という曲を想い出します。タイトルには「秋」があり、「庭」があり、「歌」がありますとおり、これを英訳して「In an Autumn Garden」と訳されていていますが、「歌」にあたる語がはぶかれています。

これは、武満徹のこだわりの雅楽で、20年ほどまえ、ぼくが北海道におりましたとき、高校時代の恩師の訃報に接し、逝く秋の雨の音を聴きつつ、この曲を聴いたものです。

秋から冬へ。――――

北海道のこの季節は、まさしく「吹き渡し」の季節と申しましょうか、琵琶と百八による曲趣がよーく似合う季節でもあります。木鉦(もくしょう)の打ち鳴らしにはじまり、天空から吹き込む風の音を伴奏し、神韻(しんいん)びょうびょうたるイメージをつくります。

武満徹は、音楽で風景を描いた人です。西洋のオーケストラとおなじステージにのせた名作「ノーヴェンバー・ステップス」とともに、あのストラヴィンスキーを唸らせた作品です。

メロディをよりシンプルなかたちにした輪唱のような、フーガのような、「追い吹き」で鳴る曲です。

その曲は、風の色や風の行方が、まるで見えるように聴こえてきます。

詩人はことばをつむいで語りますが、音楽家は音色だけで描くのでしょう。その音は、ことばをもって迫ることのできないもののようです。きょう、ふと思い立って、武満徹のCDをまわしてみました。ああ、いいなあと思います。

あのころの、じぶんは、時代の波に飛ばされて、この世界から別の世界へと失踪してしまったような心地になります。

「失踪」といえば、ひとりの作家を想いだします。彼は、この世からあの世へと失踪してしまいましたから。安部公房という作家です。

 

はるかな迷路のひだを通り抜けて、とうとうおまえがやって来た。「彼」から受け取った地図をたよりに、やっとこの隠れ家にたどりついた。たぶん、いくらか酔ったような足取りで、オルガンのペダルのような音をたてながら、階段を上がりきった、とっつきの部屋。息をこらして、ノックをしてみたが、なぜか返事は返ってこなかった。かわりに一人の少女が、仔猫のように駆けよってきて、おまえのために、ドアを開けてくれるはず。伝言でもあるのかと、声をかけてみるが、少女は答えず、薄笑いを残して逃げ去った。

(安部公房「他人の顔」より

 

 

      

 

これは安部公房の「他人の顔」の冒頭の文章です。

安部公房はぼくの好きな作家のひとりです。好きで読むのだけですから、作家のよき理解者であるとはいえませんけれど、それではなぜ好きなのかといいますと、社会や人間を、ある種の先入観や外見にとらわれず、「意味」さえ消し去ってしまって、「物」そのものとしてながめるような文章が好きなんです。

そこに安部公房の安部公房たるゆえんがあると、じつは勝手に思っているわけです。すると、彼の文章を通してあらわれてきたものは、まったく違ったものとして見えてきます。見えないはずのものが見えてきたりします。

それは、数学的で、もっとはっきりいえば「幾何学的」なんです。

非可換幾何学。――物と物のあいだに「補助線」を引いてみると、よどんだ池であったり、石ころだったりするわけです。

これはご存知ユークリッド幾何学の定番、幾何学の証明に用いられる補助線を1本引くようなものでしょう。――すると、図形が意外な物に変化して見えてきます。この意外性こそ、安部公房のコンテクストの基本型になっているのではないかと、そんなふうにおもえます。

安部公房の小説は社会や人間の状況に、意外な1本の補助線を引くことによって生まれるもうひとつの映像社会。そういえるかも知れません。

                      ♪

安部公房のコンテクストは、とってもドライで論理的で、即物的ですね。情感や情緒表現を押し殺したところで成立しています。

したがって、物語は、力学の法則の必然にしたがって運動するように展開されます。

たとえば「箱男」という小説では、ダンボールの箱をかぶって、カメラのように目のところだけ穴を開け、じぶんの顔や姿を他人に見られないようにして、外をながめつづけるだけの生活を送ります。

箱はそのまま家になり、道端の箱のなかで眠り、そこで食事もします。

このダンボールの箱をかぶるという補助線が巧みなのです。巧みですが、読者が期待した物語としての発展はずっと停止したままで、当初の設定どおり寸分も位置を変えず、まるで「静止するものは永遠に静止する」かのように、「物」として動かないのです。

これが小説なのかしら、とおもうでしょう?

しかし、これが安部公房の小説なんですね。おそらく世界でも特異なコンテクスト。だれもやらなかった文体? その小説の発展内容においてすら即物的で、心理描写など入り込む余地はまったくありません。

ついでに、ちょっとおもしろい「密会」という作品についてはどうでしょう。

ある日とつぜん、頼みもしないのにやってきた救急車が、妻に有無をいわせず強引に乗せて、どこかへ連れ去っていきます。いった先は病院です。その冒頭は、まことに理不尽でスピード感あふれるショッキングな出だしです。狂わんばかりになった主人公が病院にかけつけるけれど、担当者はのらりくらりして病院のなかに入れてくれない。

ここまでは意外な補助線がきわめて効果的に働きますが、病院のなかに入り込むと、途端に状況が一変し、理不尽な力動感とはまるで無縁な状況に投げ込まれます。

放りあげられた球の運動が、空中でいきなり停止してしまったかのように動きません。つまり、ふつうの小説のような展開しないのです。

理不尽は理不尽でも、球が物理の法則にのっとって運動が継続しているあいだはとてもおもしろいのですが、いきなり停止してしまうと、感性やものごとの判断も停止してしまいます。そこで、読者をいったん停止状態にします。

そこからこの「密会」という小説がはじまります。

1951年、「壁――S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞します。

これはシュールリアリズム風の短編で、いわばルポルタージュ文学といっていいでしょうか、ジュラルミンのような、無機質な風景が描かれています。

ぼくは若いころ、カフカ的な「意外」な手法には、少なからず好感を持ちましたが、1962年の「砂の女」を読むまでは、こういう小説もあるのだなあと思ったくらいで、特別な感興を持ちませんでした。もちろん「砂の女」は完成度の高い作品で、ダニエル・ディフォーの「ロービンソン・クルーソー」やカフカの「城」を彷彿(ほうふつ)させる作品です。

巧妙な社会風刺や、虚無的なまでの哄笑、日常性と非日常性の割れ目に生きる悲しいまでのユーモアといった、これまでの文学にまったく登場しない、生理的な不快感と驚くべき感覚に満ちた人間の「性」といったものに、強い関心を持たざるを得なくなります。

「砂の女」は、いうまでもなく、ガウスの誤差曲線に沿って分布し、乱流によって自由に移動する直径1/8㎜という砂粒を補助線にした、宇宙全体に発展する、あれこれ暗喩に満ちた小説のようです。

ハンショー属の昆虫を採集するために砂丘にやってきた教員が、砂の穴の底にいるひとりの女が住む「家」に泊まりこみます。

縄ハシゴが引き上げられ、砂の傾斜はとても脱出は不可能で、男はアリ地獄にとらえられたようになります。

砂粒は食卓のうえにも雨のように降り注ぎ、肌につくと皮膚をただれさせ、家じゅうを湿らせます。握って形をつくっても、指のあいだからさらさらと流れ落ちる砂。サンド・バッグにすると鉄よりも強くなる。このふしぎな砂の性質のなかで、男はしだいに女との生活に順応していきます。そして、見知らぬ女との共同生活が、愉快になってきます。

「砂の女」は、夫婦とは何か、自由とは何か、幸福とは何かを考えさせてくれる傑作です。――

ある海辺の部落の大きな砂のアナに閉じ込められた男が、そこに住んでいる女から逃げられなくなります。砂はどんどん崩れてくる。その砂を掻き揚げる仕事をつづけ、家を守ろうともがく。

女もこの無限の労働に参加します。

毎日毎日が無限の労働に費やしながら生きるほかはないのです。アリ地獄に落ちたアリのようなもの。男は罠にかかったかとおもいます。労働という罠です。ウスバカゲロウの幼虫がアナの底に棲んでいて、落ちてきたアリを餌食にする。

しかし、砂を掻き挙げる仕事は、生きる上では有益な仕事です。むかしロシアの刑法には、死刑の上に極刑がありました。

それは死ぬまで無益な仕事をさせることでした。大きな砂山を、別のところに運ばせる。それが終わると、もとの場所に運ばせる。労働の意味を与えないのです。

それとは違いますが、おなじじゃないかとおもってしまいます。

――そういう物語だとおもってしまうのは、ほんとうの読み方ではないでしょう。これは安倍公房の「失踪物語」のひとつです。ほかにもある。「他人の顔」、「燃えつきた地図」がそうです。この3作は「失踪三部作」と呼ばれ、ぼくもマネをして何か書いたことがあります。

小説の思想や、安倍公房の傾向を論じた記事はゴマンとあります。それらをむしろ読まないで、じぶんで感想をもつことが一番でしょう。――ぼくは若い人には、そういっています。じぶんの頭で考えてごらん? と。

すると、「ぼくはこう読みました」という意見が出てきます。まずはそれでいいとおもいます。でも、「さっきのアリ地獄の話を書いたのだろうか?」といえば、それは間違いです。

けっきょく、安倍公房の作品を通して訴えている彼自身の問いを、どう読んだらいいかに尽きるでしょう。

ぼくにはこうも読めます。

都会と部落の対比をあげれば、日本の法律のもとで暮らしてきた都会派の男が、ある日、村の砂のアナのなかに落とされ、これまでの法律もおよばない、はるか遮断された世界で、世間との関係も完全に遮断されて、その世界の住人となります。

文明社会の象徴でもあるコンクリートの取り巻く世界から、その素材である「砂」の世界に落とされたのです。砂を利用して文明の壁を営々と築いてきた人間社会から、砂のワナにかかったわけです。砂の復讐とも読めて、これまでの男のアイデンティティが180度ひっくり返されます。

彼が、7年間継続して生死が不明であれば、ふつう失踪と見なされ、国は法(戸籍法)によって当人の死亡宣告がおこなわれます。彼は生きているのに、戸籍上は抹消されるのです。

彼は死んで、男=仁木順平の人格は消され、名前もないひとりの男として生きるしかなくなります。

砂のアナでは、名前などどうでもよいのです。この世界には戸籍もない。

ある研究者の本(石原千秋「教養として読む現代文学」朝日新聞出版、2013年)によれば、安倍公房が日本共産党から除名処分を受けたのは、昭和37年2月と書かれています。男=仁木順平は、すなわち安倍公房自身とかぎりなく重なるのです。

ドナルド・キーン氏も、おなじことを書いています。

日本共産党を除名された安倍公房は、自分自身を「失踪者」に仕立て上げているという指摘です。彼の妻・仁木しのから失踪宣告の申し立てがあって、名乗り出るよう催告したのは「昭和37年10月5日」となっています。そして彼を失踪者と認めた審判は、「昭和37年10月5日」となっています。

これとは別に、もうひとつの側面をもっています。

ふだんの日常生活からの「逃亡」というとらえ方です。男=仁木順平は、砂のアナからの逃亡を企てる。しかし、しまいには、平地にいてさえも、もともと逃亡者であったことにおもいいたり、これまでの日常からの逃亡者であったことを追認するというわけ。そして、彼は、砂のアナでの環境に少しずつ馴染んでいき、じぶんを適応させようとします。この世界も悪くないぞ、この世界を利用しようと考えるのです。

そのうちに、小説を読んでいくと、「彼」とか「仁木順平」ではなく、「おれ」という一人称で語られます。

これはたんなる小説的な技巧うんぬんではないでしょう。過去を語るときは三人称を用い、現在時制で語るときは「おれ」と書かれているからです。主体の不統一は、何を意味しているのでしょうか。

ある人は、これは「砂の女」と題された報告書だといっています。

もしも報告書ならば、話は早い。カフカの小説をおもい出してください。カフカの小説は報告書のように描かれています。会話があっても、ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」でも、おなじことがいえそうです。

この「カラマーゾフの兄弟」の冒頭に、作者であるドストエフスキー自身がいきなり登場し、これから語られる物語は、「13年前」の話であると、わざわざ断っています。13年前の物語と、現在の物語の2つを書こうとしていました。

しかし、じっさいには、13年前の物語を書き終わった時点で、作者は死んでしまったので、現在時制の「カラマーゾフの兄弟」は、ついに書かれませんでした。――そういう小説なのです。

多くの読者は、書かれなかった物語はいったいどんなものか、いろいろと想像したくなります。――「カラマーゾフの兄弟」もまた報告書なのだろうか、と考えたくなります。

ぼくは、主人公の仁木順平の話に固執しすぎたかもしれません。なぜなら、この小説は、仁木順平の目と感覚と、あらゆる器官を通して描かれているからです。しかしタイトルは「砂の女」です。女を描こうとしているのです。ただの女じゃありません。彼にとって不気味な女です。それでいて、おなじアナのなかで自分の性欲とも向き合わなければならないのです。

 

ズボンといっしょに、一とつまみほどの砂が、指のつけ根をくぐって、内股に流れおちる……ゆっくりと、しかし確実な充実が、断水しかけた水道管のような音をたてて、再び指をみたしはじめる。……帽子なしに方向をさした指……翼をひろげ、すでに裸になっている女の後ろに、融けこんだ。

(安部公房「砂の女」より

 

――こう書かれています。

なんという節度のある描写だろうとおもいます。

前出の石原千秋氏も指摘しているように、ここでいう「指」とはとうぜんペニスのことでしょう。「帽子」というのはコンドームのことでしょう。

「帽子なし」なのですから、コンドームなしという意味。「帽子なしに方向をさした指」と書かれています。メタファーの余韻がきいていますね。おまけに裸になって「翼をひろげ」た女と書かれています。

それよりも重要なのは、この「不気味さ」でしょう。この不気味さは、この砂、もしくは砂のようなものと通じ合うのです。砂のようなものとは、そこで向き合う「女」のことです。

「かまいやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」と女はいいます。

アナを見下す村人たち。――窃視はいまはじまったわけではなく、監視もむかしからあります。村から離れた砂のアナさえ、いわば監視つきなのです。世間と変わりません。そういう砂のアナ暮らしから逃げられないし、いまさら逃げようともしません。その覚悟と一種安堵な気のゆるみが、仁木順平を女との性交へと駆り立てるというのです。